This cruel world 12
12、
第三代アルネマール伯、ウィリアム・ヴァン・キャンベルは、今年で齢61になる。
貴族出身ではなかったが、気立ても良く目端も利き、賢かった。なにより美少年であったため、小姓として宮廷に上がり、王の寵愛を一心に受けた。
また他国との戦争でも、軍功を上げ、伯爵の地位を授与された。
誇り高き貴族として恥じないように懸命に生きた青年時代であった。
年頃になり、侯爵家から妻を娶り、かわいい娘を得た。
美しく育った娘は、反対したにも関わらず、駆け落ち同然に子爵の次男と結婚した。
今は三人の男子と二人の女子を持つ母親として幸せに暮している。
妻は二年前に他界した。真に良妻賢母の鏡であった。
伯爵は妻を誇りに思っても、それを口に出す男ではなかった。
また他の貴族に倣って、遊興の限りを尽くしていた。
それを諌めることもなく、妻はただ彼に微笑んでいた。
褒められた良人ではなかっただろうが「幸せだった」と、言い残して妻は息を引き取った。
伯爵はその言葉に後ろめたさを感じていた。
ウィリアムは自分が年老いたことを知っていた。
鏡を見るのが嫌だった。
美少年、美青年と持てはやされた姿は、どこを探しても見る影もない有様だった。
仲間内の貴族から賛美され続けた昔の姿の誇りを未だに捨てきれない自分が、いとわしく、さりとて、醜態だけは見せたくなかった。
今はもう、静かに良い領主として、残された人生を全うしようと心がけていた。
夏になると老いた身体に暑さが堪えるからと、夏の間は北の領地に昔から残る岬の城に毎年保養へ行く。
供も付けず、誰も居ない朝の浜辺をひとり散歩するのが好きだった。
その日の早朝もいつもと同じように、山高帽を被り、シワ地味もないシャツとジャケットにポケットチーフ、手袋に黒檀の真新しいステッキを持って、城を出た。
朝日が丁度東の水平線から昇る様はいつ見ても、心が洗われる様だ。
伯爵は整ったひげを撫でながら、目を細めて光る海を眺めた。
ふと水しぶきが上がるのを見た。
魚か何かが跳ねたのだろうと思い、気にも留めなかった。
また歩き出すと、目線の先に、まさに今海から上がってくる人影が見えた。
夏だと言ってもここは避暑地であり、まだ陽が出たばかりの早朝だ。
気温は低い。とてもじゃないが人が泳げる水温ではあるまい。
伯爵はその人影が人間なのか疑った。
化物の伝説も多く、もしかしたら人を惑わすセイレーンなのかもしれない。
が、伯爵は軍人でもあった。
自分の領地の化物を放置するわけにもいかない。
伯爵はステッキを握り締め、勇気を奮い立たせ、その海から上がってきた人影に勇敢に近づいた。
人影はずぶ濡れの着物の端を絞り、長い黒髪を掻き上げ、近づいてくる伯爵を見た。
その者の姿形がはっきりと認識できる距離に近づいた伯爵は、彼の者の顔を見て足を止めた。
伯爵は息を飲んだ。
これまで生きてきて、あまたの芸術に触れてきた伯爵は、この者が美の具現者であることを即座に知った。
名画で見たどのような女神よりも艶やかに麗しく、また天才画家が描いた幾多の天使よりも清らかに聖なるものであった。
息が止まるほどの鮮烈な、たぐい無き美がそこにあったのだ。
彼が男性であることは濡れた薄い布が身体をくっきりと浮かび上がらせていたからすぐに識別できた。その少年とも青年ともつかない細い首と薄い胸、邪魔のない筋肉のついたすらりと伸びた脚や腕が、驚くべき美貌の顔、漆黒の長い髪、すべてが見事に調和がとれている実像に、伯爵は目を疑った。
まさに魔に吸い寄せられてしまったのだろう。
彼を畏れながらも、その数倍もの力で彼に魅了されていたのだ。
伯爵はこの化物が、その本能により自分の血と命を欲したとしても、何の後悔があろうか、と、まで思った。
しかし、この化物は伯爵が思いもよらないほどに親密であった。
彼は伯爵に近づくとニコリと笑った。
「やあ、ごきげんよう」 と、春のおとずれを思わせるような清清しい声音で、老紳士に話しかけるのだ。
伯爵は驚きながらも、紳士のたしなみとしてすぐに微笑み返した。
(この美しい若者は敵ではない、敵であろうものか。よしんば敵であっても私はすべてを許せる)とさえ、思った。
「水泳は健康には良かろうが、少し冷たすぎはしないかね」
伯爵は親しみを込めて若者に言った。しかし、少しだけ震えているのも悟った。
「そうね。せっかくだからこちらの海の主に挨拶をと思ったけれど、ここには水龍はいないのだね。残念だ」
「…」
若者の言っている意味は皆目わからなかったが、それさえ選ばれた者の特権だと思えた。
「私は…ウィリアム・ヴァン・キャンベルと申します。あの岬の城の城主です。もし良ければ、あなたを客人として迎えたいのですが…いかがでしょう」
伯爵はしゃべりながら、自分の子供よりも年若い若者になぜ敬語で話すのか、帽子を取り深くお辞儀をするのか、自分でも不可解に思えた。だが、幾らこの若者に頭を垂れても、自尊心は傷つくことはないと知っていた。
若者が只者ではないと理解していた。
若者は老紳士に誘われるまま、城へ向かった。
使用人たちは伯爵が連れてきた素性の知らぬ輩を訝ったが、若者の素顔を見た途端、頭を垂れ、怖れをなした。
若者は素直に従い、用意された新しい服に着替え、温かい朝食を伯爵と向かい合わせで取った。
若者のテーブルマナーは、伯爵の知ったものとは違っていたが、粗野には見えず、どこかの王国の由縁の者ではないかと感じた。
「これは…珍しい色をしたお茶だね」
「紅茶というのですよ。お茶の葉を発酵させるのです」
「へえ~…面白い味だ。こちらのビスケットは…甘くない」
「これはスコーンと言って、こちらのジャムやハチミツを付けて食べるのです」
「あ…ホントだ。美味しいや」
子供のように喜ぶ姿は、無垢な少年のように見える。
「名前を…聞いてよろしいか?」
彼は少し考えたが、とても綺麗な声で言った。
「…アスタロト」
伯爵は若者の名前を聞いて、何故この若者を畏れたのか理解できた。
「ではあなたは『魔王』であらせられるのですね」と、席を立ち再び丁寧にお辞儀をした。
「魔王?」
アスタロトは首を傾げ、不思議な顔をしたが、伯爵はすぐに目を伏せた。
マトモに顔を見ることさえ適わぬほどに、伯爵にはアスタロトが眩しすぎたのだった。
「あなたがどこから参られたのかは存じ上げないが、この国では『アスタロト』は、『魔王』。偉大な魔術師の名前なのですよ」
「魔術師って何?」
「魔…即ち魔力を持ち、魔術や魔法を操れる者のことです。私達は『魔法使い』とも『アルト』とも呼んでおります」
「魔力を扱える人間が、ここには居るの?」
「いえ、私も含め、多くの人間は魔力を持ちません。ですが、一部の人間は魔力を持ち、またその中の一握りの人間が強力な魔力を持ちえるのです。それが魔術師なのです」
「へえ~、面白いね。魔力を持った人間がいるなんて、珍しいな」
「アスタロト様も高等な魔術師でいらっしゃるでしょう」
「…何故そう思うの?伯爵」
「…いえ、何となく…」
伯爵は脂汗を掻いていた。
アスタロトが彼を「伯爵」と呼んだ時、それまでとは打って変わった残虐な意思を感じたからだ。
「別に怖れなくていいよ、伯爵。我はあなたに害を為す気はない。この星の営みに興味があるんだ。ねえ、もっと色々と教えてくれる?」
「も、勿論です、アスタロト様」
「様はいらないよ」
「アスタロト様の名前を呼び捨てるわけには参りません。では…レヴィと呼んでもよろしいか?レヴィとは『尊き者』という意味があります。いかがでしょう。レヴィ・アスタロト」
「それでいいよ、伯爵。よろしくね」
アスタロトの差し出す白くしなやかな手を、伯爵は怖れながらもそっと握り締めた。
その指先から身体中に、枯れ果てた魂にせせらぐ清流を感じ、老紳士はこれまでの老いを怖れる日と決別できる気力を得たのだ。
伯爵はアスタロトの望むままに貴族の生活の一部始終を経験させた。
アスタロトはひとつひとつに驚嘆の声を上げ、また素直に感心しながらも幾つかの点では欠点や持論を展開した。
そして三日目の夜になると、突然帰ると言った。
「帰る?…どちらに?」
「我が家にだよ。三日経ったら帰るとイールに約束したからね」
「で、では、今度はいつ来られるのですか?」
「気が向いたら来るよ。それまで元気でね、伯爵」
そう言い残し、アスタロトは何も持たず、城の階段を昇っていった。
伯爵が急いで追いかけ、城の屋上へ着いた時には、アスタロトの姿はどこにも無かった。
伯爵は力を落とした。アスタロトと過ごしたこの三日間は、昔、我が主たる王と過ごした祝福の時が戻ってきたように思えたからだ。
「気が向いたら来ると言い残してくれたのだ。それを信じて待つことにしよう。なあに、無駄に時を過ごすのには慣れている」
伯爵は次にアスタロトと出会う喜びを、待つ楽しみに変える術を知った。
翌年の夏、アスタロトは気が向いたのだろう。
あの岬の城の門扉を叩いてやってきた。
伯爵は自ら急いで、彼を向かい入れた。
アスタロトは最初に来ていたチュニックのようなドレスではなく、去年伯爵から貰った服を着こなしていた。
「やあ、伯爵。来たよ」と、アスタロトは柔らかい笑みを浮かべた。
「お待ちしておりました。レヴィ・アスタロト。さあ、どうぞ」
伯爵は途端に若者のような生き生きとした生気を取り戻すのだった。
「今度はどれくらい滞在されるのですかな?こちらも色々と楽しい趣向を用意しておりますよ」
「うん。イールに頼んで五日間の休日を貰ったんだ」
「イールと言われる方は、レヴィの大切な方なのですか?」
「イールは我が半身。最高の伴侶であり最良の者。我が愛のすべてを捧げる者。我の『senso』はイールにだけ注がれる。彼無くしては我は居ない」
躊躇なく恋人への愛を宣言するアスタロトを前に、伯爵はこれほど自分を恥じたことはなかった。
アスタロトの恋人への愛の一部すら、自分は死んだ妻に愛情を注いだことがあっただろうか。
あの献身的な妻を褒め称えたことがあっただろうか…
伯爵は後悔の念を抱いた。
それを見たアスタロトは、伯爵の手を取り、こう言った。
「伯爵の枕元にはいつも彼女がいるじゃないか。いつだって愛を語る術はあるよ」と、微笑んだ。
伯爵は魔王の言葉通り、その夜、ベッドに跪き、亡き妻への懺悔と心からの愛の告白を言葉にした。
亡霊の姿の妻は良人を見つめ、穏やかに笑っていた。
「あなたの妻であり続けたことを悔いた日々があったとしても、今はこうして静かにあなたを見守る時が来た事をありがたいと思っているのですよ。どうぞ、ゆっくり時を楽しんで、こちらにおいでになって下さいませ。いつまでもお待ちしております」
夢か幻か、アスタロトの見せた魔術だろうか…
伯爵は心に刺さった罪を少しだけ軽くすることができた気がした。
アスタロトは毎年、夏になると伯爵の城へ姿を見せるようになった。
伯爵もまた、彼の来訪を何よりも待ちかね、彼を喜ばせる為に色々を用意をすることを楽しみにした。
アスタロトへのプレゼントは勿論の事、彼の恋人への贈り物もまた一層手をかけて、職人に作らせ、アスタロトを喜ばせた。
伯爵はアスタロトを我が子のように愛した。
アスタロトも伯爵を「我が友人」と、呼び、信頼をおいた。
派手な魔法は決して見せなかったが、伯爵にはアスタロトがこの地上の者ではないことを知った。
地上は幾つかの次元への道があり、特別な人間だけが許される、と、聞き及んだことをアスタロトに話した。それを聞いたアスタロトは、「ふうん」と、言い、「我は人間じゃあないよ」と、ニヤリとする。
「伯爵が言っただろ?『魔王』って。気に入っているんだ。その呼び名」
「レヴィは…何になりたかったのかね」
「そうだね…」と、言ったっきりアスタロトは口を噤んだ。
「我は我でしかない。他の者にはなり得ない。これだけはどんな魔法を使っても無理なんだ…」
いつもは傲慢であったり、時に無垢な少年の顔をするアスタロトだったが、伯爵は初めて儚げな彼の顔を見た気がした。
伯爵も年を取り、そしてその死を迎えた。
彼は自分の死をアスタロトに看取って欲しいと願った。
その時は夏でもなく、あの城でもなかったが、老人の願いどおり、アスタロトは老人のベッドの脇に音もなく立っていた。
「我を呼んだだろう?伯爵」
「ああ、レヴィ。私の敬愛する友人。魔王アスタロトよ。どうやら私も『死』を迎えるらしい」
「喜ばしいことだね。羨ましい限りだよ」
「魔王は死ねないのかね?」
「うん、残念ながらね」
「…それは大変だ」
「そう、とっても大変なんだ」
ふたりは顔を見合わせて笑った。
「最後の頼みなんだが…聞いてもらえるかね」
「勿論」
「あの岬の城を君に譲ろうと思っているんだ…手続きは難しいが、君の魔法でなんとかできるかね?」
「容易いことだ」
「時折…あの城を覗いてくれたまえ。きっと私の亡霊が君を待っているだろうから」
「了解した。…伯爵の奥様と一緒に待っててくれよ」
この世で最後に見たものが、この世で一番美しい者であった幸運を伯爵は喜び、息を引き取った。
第三代アルネマール伯、ウィリアム・ヴァン・キャンベルは、75歳の人生を終えた。
アスタロトは気が向いた時に、あの岬の城へ出向く。
誰も住む者がいない寂れた城であったが、仲の良い夫婦の亡霊が、彼をもてなしてくれる。
数十年後、ひさしぶりに覗いた城に人影を見たアスタロトは、いつも伯爵と居た談話室へ姿を現した。
扉を開けて部屋に駆け込んだのは幼い少女だった。
「あっ!」
アスタロトを見た少女は驚いた。
「ごきげんよう、お嬢さん」と、アスタロトは笑った。
「ご、ごきげんよう…レヴィ…アスタロト」
少女ははにかみながらも、丁寧にお辞儀をした。
「ああ、レディは曽祖父どのにそっくりだ。彼はとても美少年だったらしいからね」
アスタロトは少女の頭を撫でた。
「曾お祖父さまを知ってらっしゃるの?」
「大事な友人だったよ、クリスティーナ」
アスタロトは少女の頬にキスを残して、消えた。
クリスティーナは部屋の壁に飾られた「レヴィ・アスタロト」の絵を蒸気した頬で見つめ続けた。
「私、本物を見たわ」
クリスティーナは一生涯、アスタロトを慕い続けた。
スタンリー侯爵家へ嫁いだ後もずっと…彼だけが少女の夢であり続けた。




