天使の楽園、悪魔の詩 4
その四
タイミングよく、学長は部屋で休憩中だった。
俺達を見ると快く話を聞く姿勢を取ってくれた。
話しづらい俺の代わりにアーシュとルゥが事の詳細を学長に話した。
話を聞いていくうちに学長の顔はこわばり、頭を抱え始めた。
「ねえ、トゥエ。ベルを助けてやってよ」
「その変態叔父さんをベルに近づけさせないでやってよ」
「そういうの性的虐待って言うんだろ?捕まえられないの?檻にでもぶち込んでおけばいいんだ」
「そうだよ。貴族だからって許せないよ。そんな奴死刑にしてよ」
酷い言われようだ。ふたりの罵倒にエドワードが少し可哀想になってくる。
ふたりの懸命な訴えに、学長も苦笑している。
「分かったよ。アーシュ、ルゥ。でも少しばっかりベルとふたりで話させてくれないかい。いいかい?ベル」
「はい、先生」
ルゥとアーシュを学長室に置いて、俺は学長と共に、奥の部屋に入った。
天井は高いが壁中に張り巡らされた本棚と机があるだけの小さな部屋だった。
学長は机の上のポットからカップに紅茶とミルクを入れ、俺に飲むように勧めた。
「さて、ベル。アーシュとルゥの話で大体はわかったけれど、肝心の君の気持ちを聞いていません。本当のところはどうなんだろうね。アーシュとルゥの話に間違いはないの?」
「はい。恥ずかしいけれど…すべて本当の事です。貴族なんかに生まれてこなきゃ良かったって…何度も思いました」
「そうか…大変だったね、ベル。心も身体も傷ついただろう」
「…その時はすごく…悲しくて…でも貴族の血を引き継いでいるのなら仕方ないものだと思って…受け入れました。たぶん…僕だけが特別じゃなく…これまでだってみんな…貴族に生まれた者は経験してきたことなんでしょう。だから…大したことじゃないのかもしれない。だけど…僕はここの生活が好きなんです。アーシュやルゥやみんなとここで生きることが僕にはとても大事でそれが普通の生活で…それが望みなんです。あれが貴族の生活というのなら、僕には向いてない…」
あの屋敷での事が思いだされて、俺はまた涙が滲んでしまった。
学長はカップを持ったまま震えている俺の両手の拳をそっと握った。
「…わかるよ、ベル。私も、貴族の生まれだからね」
「え?そうなんですか?」
「三男だったから、無理に縛られることもなくて、学校を卒業して色々な国を奔放していました。でも、大人になるまでは…ベルと同じように嫌な思いも沢山しましたよ。…確かにあの趣向はここからすれば随分と異端に感じるかもしれないが、彼らもまたこの学校の生活を覗いたとしたらきっと不思議に思うのかもしれないね」
「どこが?」
「貴族も平民も関係なく、またアルトでもイルトも平等に一つ屋根の下で暮らすことは、世間では難しいのです。法の下では平等でも、見えない壁がありますからね」
飲み干したティーカップをかたした学長は、今度は引き出しからキャンデーを取り出して、僕の手に握らせ「食べなさい。落ち着くよ」と言った。
俺はキャンデーをじっと見つめた。アーシュの好きな薄荷味だ。彼にあげたらきっと喜ぶだろう。
「わかります。でもおかしいですよね。平民である僕の父の財産で僕の母の実家は贅沢な暮らしをしている。父を敬ってもいいはずなのに、彼らは軽蔑するばかりだ。生まれが何であろうとも、また父がどんなにあくどい実業家であっても、母やスタンリー家は父に敬意を持ってもいいはずです。僕は父を好きにはなれないけれど、一代で会社を大きくしたその腕を認めています。だって父が居なかったら…僕はここでこんな生活は送れなかったんだから…」
「ベル、君は本当に素直で正しい心の持ち主だね。私は君のような生徒を持つことが出来て嬉しいですよ。では君に理不尽な事を強いた叔父上であるエドワード・スタンリーをどう思っているの?」
「…僕は叔父をかわいそうな人だと思ってます。エドワードは…自分を憎んでいるんです。貴族でしか生きれない自分を…嫌っている。僕にはそういう風に見える。彼が僕にあんなことを強いるのも、自分の苦しみを知って欲しいからなのかもしれない…そんな気がしてなりません」
「そう…、ベルはそこまで理解しているのですか。では…エドワードの話をしても大丈夫ですね」
「え?叔父の?」
学長は静かに頷いた。
「その前に私もひとつ…」と、トゥエはまた引き出しを開けてキャンデーを口に入れた。
「やっぱり薄荷味が一番心がすっきりするね。…どうしたの?遠慮はいらないよ、ベル。それとも薄荷味は嫌いだった?」
「いえ、大好きです…」
「アーシュの分ならまだあるから、気にしないで食べなさい」
ああ、何もかもお見通しなのだなあ~、学長には全く敵わないと、俺は安心といくらかの嫉妬心を自覚しながらその薄荷飴を口に入れた。
キャンデーが口の中で無くなってしまった頃、幾分すっきりした俺は学長の話の続きをじっと待っていた。
「さて、エドワードの話だったね」
「はい」
「エドワードは、この『天の王』の生徒だったんだよ」
「え?」
「彼がこの学校に編入して来たのは中等科の一年の秋だった。私は彼に『ユーリ』と言う名を与えたのです」
「…ユーリ」
「そう、エドワードは…ユーリはここに来てしばらくは酷く憔悴しきっていた。彼は…とても苦しんでいたんだ。敵わない自分の想いを自分の中で整理することもできずに…悩んでいた。また貴族での生活にも矛盾を感じていてね。ああいう中で生きる自分の世界をなんとか変えたいと心から望んでいた。私も何度か悩みを打ち明けられたよ。どうしたらあんな退廃しきった貴族世界をもっと規律正しい生活に変えられるのだろうかと…」
「…」
エドワードがそんなことを考えてこの学校で過ごしたいたとは、思っても見なかった俺は、なんとも言えない気持ちになった。
「私は彼の目指すものが正しいことだと諭したよ。彼らの生活が長い歴史の中で蓄積されたものであっても、自分がそれに溺れる必要もないと、何度も言った。けれど…彼にはそれを壊せなかった。彼の家の重みが彼を押さえつけてしまったのだね。…ユーリで居る時はまだ良かったんです。しかし休日を過ごしたスタンリー家からここへ戻る度に彼は流されていく自分に苛まされていた。沢山の友人たちに囲まれながらも、彼は孤独だったのだろう。そして…一番大切なものを失った時、ユーリは一晩中泣いていた…」
「一番大切な…」
エドワードの一番大事なものを失くした…何となくだがそれは俺の母、エドワードの姉であるナタリーが俺の父と結婚した事ではないかと思った。
「それは…僕の両親…母が原因なのではないんですか?」
「どうしてそう思うの?」
「母の気持ちはわかりません。母と僕との接触は極めて薄いからです。でも…叔父は、エドワードは母を…愛している。そんな気がします」
「君はそれを認めているの?」
「父と母の関係よりもずっと…愛おしい気持ちになれます。だって…確かな愛があるのだもの」
ふたりの関係を直接聞かされたことはなかった。
だが、あの母でさえ、エドワードが傍に居る時は傲慢な貴婦人から少女のような笑みを浮かべることがあったではないか。血の繋がった姉だからって、愛してならないという事にはならない。もし俺が…ふたりの子供であっても少しも卑下することもない。
「君が言うとおり、ユーリは君の母上を愛していたんだ。世間の感覚なら血の繋がった姉弟が愛し合うことは罪のひとつでもあるが、貴族は、血の繋がった同士が身体を繋いだとしても大した罪悪感はない。彼らにそういう倫理感はないからね。だけどユーリはね、とても苦しんだよ。稀に見る常識的な人間だった。それに彼はアルトでもある」
「え?エドワードが?」
「必死で隠そうとしていたけれど。自分の力で人の思いを踏みにじるのを恐れてね。ユーリはとても純粋なんだよ。だから姉君を愛しながら、見守るだけでいようと必死に自分に言い聞かせていた。姉君の幸せだけを祈っていた…」
そうだったのか…エドワードは純粋に母を愛していたんだ。
もしかしたら姉である為に果たせなかった苦しい想いをその子供である俺にぶつけているんじゃないのか。叶わぬ愛と姉を奪った父の子である俺への憎しみ、切なさ…エドワードが俺を憎まないはずはないじゃないか。
「叔父は苦しんでいたんですね。叶えられなかった想い人を政略結婚とはいえ父に奪われた。そして憎むべき父と愛する母との間に生まれた僕は、エドワード本人に似ている。そんな僕を見て、叔父はどんな気持ちだったのだろう…」
俺は頭の中のすべてを吐き出すように呟いていた。
学長の手の平が虚ろに彷徨う俺の目を正すように、そっと頬に触れた。
「卒業が近づいた或る日、ユーリは嬉しそうに私に話してくれました。『先生。僕に甥が生まれました。とても綺麗な金髪でマリンブルーの瞳の美しい赤ちゃんなんです。それに彼はアルトなんですよ』と。これ以上ないほどにユーリは喜んでいました」
「…」
「あなたのことですよ、クリストファー。エドワードは心から君の誕生を喜んでいたのです。そして今もきっと、君を愛している」
「…本当に?」
「本当です」
エドワードが俺の誕生を喜んでくれた。
それだけで胸が一杯になった。
そして、夏の屋敷であった悪夢をすべて許してしまえると俺は思った。
今はエドワードの愛情が歪んだものであっても、彼は苦しみ、俺を愛してくれた。それは充分な俺の存在意義だった。
「…わかりました。先生。僕はエドワードを許します。決して誰も憎んだりしません。そして彼を救いたい。心から愛していると伝えたいんです」
「ベル、君は他の生徒から比べてもとても大人です。色々な辛さを耐えてきた経験が君を強くしているんでしょう。でも我儘な子でいることも大事ですよ。貴族の生活を強いられることが嫌だったらはっきり言う事も必要でしょう。学校から何か言っても、彼らは聞く耳は持ちませんからね。申しわけないが、力にはなれない」
「はい、わかっています。学校と外の世界の間に干渉はなにひとつとしてはいけないのがこのサマシティの規則ですから」
「だから私に出来る事をしましょう。ベルの支えとなるものを与えられるかもしれません」
「え?」
「『真の名』を今教えましょう。本当なら中等部に入った時に与えるものなんだけどね、特別です」
「…はい」
「真の名」の意味をその頃はあまりよく判ってなかった。ただ特別な者だけに捧げられる聖名だという事は聞いていた。
「ベルゼビュート・フランソワ・インファンテ。これが君の『真の名』です。覚えておくように」
「はい」
「ただし、人の耳にあまり聞かせてはなりません。『真の名』は必要な時だけに言の葉にするのですよ」
「…わかりました」
ベルゼビュート・フランソワ・インファンテ…俺の本当の名前を聞かされた時、アーシュとルゥの顔が浮かんだ。だから俺は聞かずにはおれなかった。
「先生。『真の名』を授かるのは僕だけじゃありませんよね」
俺の質問に学長は微笑んで深く一回だけ頷いた。それだけで充分だった。
俺には仲間がいる。『真の名』を共に受け継ぐ仲間がいる。
そして、それは力になる。
エドワードの為し得なかった理想を俺が描けるかもしれない。
俺の力で守りたいものを守りきることができるかもしれない。
美しい世界を作れるかもしれない。
それは、俺の果てのない欲望だった。