This cruel world 9
9、
或る日の夕方、イールはアスタロトを探して神殿の廊下を歩いていた。
いつもなら大体図書室に入り浸りのアスタロトなのに、探してもいない。
どの部屋を覗いても見つからなかった。
(どこへ行ったんだろう)
浴室へ続く更衣室のドアが少しだけ開いているのを見とめたイールは、ドアを開けて中の様子を伺った。
こちらに背を向け、等身大の鏡を凝視しているアスタロトが鏡越しに見えた。
彼は立ったまま、ハサミを持って自分の髪を切っているのだ。
「アーシュっ!何をしているんだ?」
驚いたイールはアスタロトに近寄った。
「ああ、イール」
「ああ…じゃないよ」
「見ての通り、髪を切っているだけだが…」
「切るって言ったって…デタラメじゃないか」
「やっぱ変?」
お世辞にも散髪に慣れているとは言えない腕前で、アスタロトの豊かな黒毛の髪は無残な形にカットされてた。
「どうしたんだよ、アーシュ」
「うん。今まではマサキがね、ずっと散髪してくれてたんだけど…いなくなったじゃない。だから、自分でやろうと思って…」
「…」
ふたりに仕える世話人であったマサキは半年前に暇乞いを願い、クナーアンから去っていった。
アスタロトにとってマサキは親も同然だった。
生まれた時からアスタロトの乳母として仕えたマサキは、アスタロトがクナーアンの神として正式に任じられ、神として崇める者になっても、変わりなく自分の子供のように甘えさせてくれる得がたい者だった。
アスタロトは毎月決まった日に、マサキに髪を揃えてもらっていた。
髪を切るのは口実でしかない。ふたりは母と子としての愛情を交わしていたのだ。
マサキが居なくなっても表面上は変わらないアスタロトだったが、どこかでマサキを恋しがっている。と、イールは感じていた。
その時、初めて自分が心のどこかでマサキに嫉妬していたのだと、気づいたのだ。
鏡に映る自分の酷い髪を見たアスタロトは、小さく溜息をついた。
アスタロトのちぐはぐな髪を優しく撫でながら、イールは言う。
「ねえ、アーシュ。これからは僕が君の髪を綺麗に整えてあげるよ」
「え?」
「マサキみたいに上手くはできないかもしれないけど、慣れれば僕にでも出来ると思うから」
「神様の君が、散髪屋さんになるの?」
「アーシュ専用のね」
鏡越しにお互いの顔を見合わせ、少しだけ微笑んだ。
「ね、そうしようよ、アーシュ」
「…イール」
「ん?」
「心配かけてごめんね。…ありがとう」
アスタロトの素直な心に少しだけ、イールは心を痛めた。
(上手くジェラシーを隠せたかな…)
アスタロトへの独占欲を束縛に変えてはいけない…と、イールは自分に言い聞かせ続ける。
なによりもアスタロトの信頼を失うのが怖かったから。
その日から、イールは毎月決まった日にアスタロトの髪を揃えてやった。
初めはおぼつかなかった手つきも、半年も経つうちにマサキと同じように整えることができ、アスタロトは嬉しそうにお礼を言った。
イールにしてみれば、マサキの代わりの役目では当然満足せず、(できるなら違う髪形にできないものかな…)と、何度も真剣に思ってはみても口には出せないままだった。
何年か後、アスタロトの散髪の日、イールは鏡に映るアスタロトを見てふとこう言った。
「アーシュ、君、髪を伸ばしてみない?」
「僕の髪を切るのが面倒になった?」と、アスタロトは笑いながら言った。
「そうではないよ。アーシュは髪を伸ばした方が…綺麗だと思うんだ」
「綺麗?」
「そう」
鏡の中の真剣なイールの顔を、不思議そうにアスタロトは見つめた。
アスタロトはあまり自分の容姿に囚われない無頓着な性質だった。着る服も問わないし、汚れていてもあまり構わない。
美の感覚に疎いわけではない。幅広く芸術を愛していた。
イールを美しいといつも讃えていたし、自分もまた美しいと言われ続けていた。だが、それは自然な神の姿として当然なものと捉えていたから、自身が殊更着飾る必要が無いと思っていたのだ。
「イールは、髪の長い方が好きなの?」
「え?…うん。…でも、アーシュが嫌ならいいんだ」
鏡に映ったイールの少し俯いた顔がほんのりと赤みを帯びていた。
恥らっているのがわかる。
アスタロトはそんなイールがたまらなく愛おしくて仕方がない。
イールの望むことなら、どんな事でもしてあげたい。
「無理に伸ばして欲しいとかじゃないんだ。髪が長いと確かにメンドクサイ時もあるしね」
バツが悪そうにイールは苦笑いを浮かべた。
イールの頬はまだ赤い。
(イールってマジでかわいいな)
俯いたままちらちらと目線だけをアスタロトに向けるイールの姿に、アスタロトは有頂天になるくらいときめいてしまう。
「ううん。イールがそうして欲しいって言うのなら、僕、伸ばしてみるよ」
「ホント?」
「だってね、僕の生きがいの大部分は、君を喜ばせるためにあるのだと思うの」
「…」
時折発するアスタロトの大胆な告白は、イールを驚かせ、そして幸福にした。
その後、髪を伸ばしたアスタロトの姿は、従来の美貌に加え、妖艶さが際立ったエロスのシンボルとクナーアンの民衆が悉く色めき立ち、後に様様な騒動を起こした。
神としてのアスタロトはその混沌とした世間の様子を面白おかしく眺め、元凶のイールはしばらくの間、アスタロトへの要求はしないように心がけるのだった。
クナーアンに住む民たちは、ふたりの美しい神々を日々眺めては無上の幸福を得た心持ちになった。そこでふたりの神々の写し絵を描く者が続々と現れ出した。
その絵は瞬く間に広がり、住民の間でお守りのように扱われ、厳かな額縁に入れられ、天井へ祭られるのだった。
アスタロトが気まぐれで訪れた一軒の家にも、その絵が飾られていたが、あまりのお粗末さに吐き気がした。
(こんな劣化した似顔絵など、僕じゃないし、失礼だろう。こんな風に見られていること事態、不本意極まりない)
アスタロトは直ちに神殿のアーティストに言い渡し、マトモな肖像画を住民に配布しろと命じた。勿論タダでだ。
「神として愛でられるのは仕方が無い。祈るのも良かろう。しかし、祈りが届くかどうかは別だと言い渡せ。自身の良心を持って購えるものなら期待せよと」
人々はその肖像画を後生大事に神棚へ祀り、先祖代々崇め奉り、ふたりの神々への敬愛の祈りを欠かさなかったと言う。
百年、二百年、三百年と時は経ち、時代は動いていく。
地上の様もまた時と共に移り行くのだ。
古きものから新しきものへと。
その新しいものでさえ、また古き形として歴史に刻み込まれていく。
ふたりの神々は、地上の民と共に生きていく。
地上に生きる民の生活は危うく、高度な文明にはまだ遠く、神々のような魔法を繰り出す力も備わっていなかった。彼等は間違いを重ねながら修学していく生き物であった。
神々は彼等を常に見つめ続けた。
時には固唾を呑んで見守り、時には天雷の如く怒り、肩を組みながら喜び、愛する者たちとの別れに涙した。
歴史は栄枯盛衰の繰り返しであった。
栄えるも滅びるも一時のこと。
延々と続くものではないのだ。
ただ、イールとアスタロトの神だけが変わらずに、クナーアンの守護者として地上の尊敬を一心に捧げ祀られる存在であった。
地上の喧騒とは別に、イールとアスタロトは満ち足りた愛を営んでいた。
これほど長く共に過ごしていようとも、イールとアスタロトの愛情が虚ろう時は無きに等しかった。
アスタロトはより多くのものを求め、愛し、留まる事のない好奇心の探求に勤しむ日々であったが、彼の「エロス」はすべてイールに捧げられていた。イールもまた同様だ。
勿論ふたりの「愛」は「エロス」だけではなく、友情や尊敬、肉親愛すべての「愛」の概念を抱いていた。が、求め合う「エロス」はイールとアスタロトだけにしか分かりあえない「繋がり」だった。
イールの方がアスタロトより脇見をしないという点において、捧げられる情愛はより深かったであろう。
彼等は他の生き物に性愛を感じることは無かった。
神であるアスタロトもイールは、外見上は全く同じであろうとも異生物である人間との交わりなど、考える気にならなかったし、どんなに魅力的な容姿であっても一片の欲情すら起らなかった。
人間の方はと言えば、彼等は神々とは違い、俗な求愛者であり、イールとアスタロトを眺め、想像しては、けしからん感情を沸かせ、様様な妄想を果てるまで繰り返しては己が遊興に耽るのだ。
神々は人間の想像を遥か超える愛欲を知り尽くし、またその快楽の欲求は人間以上だったので、人間の妄想を嗤いつつ、哀れむのだった。
イールとアスタロトがお互いの性の波動を合わせ、頂点への到達と解放を繰り返すことで、彼等の魔力は次第に高まっていく。
次元を超えて辿り着く魔術を、ふたりは「senso」と、名づけた。
宇宙に佇む空間を、ふたりの神はお互いをあますところなくさらけ出せるふたりだけの欲望の花園と大切にしていた。
この宇宙に漂う小島は、長く生きるアスタロトの好奇心を駆り立てた。
目に映るひとつひとつの惑星に、どれだけの文明が潜んでいるのかと思うと、胸が高鳴るのだ。
イールには幾度も止められていたが、好奇心を止める手立ては無く、アスタロトはとうとう他の星への探求を始めた。
「ね、まずは僕等の兄弟星へ行ってみようよ」
「天の法では、神々の他の惑星への移動は禁じられているよ」
「天の御方はおっしゃっただろ?僕達がどんな罪を犯しても死ぬことはないって。それはね、初めから僕等が法を破るって知っておいでになるからだよ。天の御方にしてみれば、僕等の行動なんてお見通しなのさ」
「…」
「そいつの上を行って、御方さまに一泡吹かしてやろうよ、イール」
およそ神とは思えぬ悪戯っぽい顔を見せたアスタロトは、戸惑いを隠せないイールの手を取り、時空の扉を開けていくのだった。