This cruel world 6
6、
再び目覚めた時、ふたりは風そよぐマナの木の下に重なり合っていた。
辺りは朝のおとずれに紫から橙へと色を変え、あらゆる生き物が澄みきった空気を味わおうと、目を覚まし始めた。
ふたりの神々もまた、うっすらと目を開け、お互いの顔を見ては微笑した。
絡めあった指先をお互いの口唇で味わうと、広げた手の平から先程見た「サクラ」の花びらが一片舞い落ちた。
「夢ではなかったらしい」
うす紅色の花びらを掴み、息を吹きかけると、青く澄んだ空に吸い込まれていく。
「美しいね…イールの魂のように」
「君のそれよりは見劣りするけれどね」
「朝空を映す湖の揺らぎのようなイールの瞳が好き」
「君の夜天に広がる星の如く煌く瞳に、何時の時も吸い込まれそうになるんだよ」
「アオサギの真綿のように銀に輝く巻き毛を絡ましてキスをしたい」
「濡れた黒鶫の羽を広げた黒髪を、いつまでも撫でていたい」
比喩的な言葉には多分に幻想を夢見がちであるが、十二になったばかりの恋人達には当然の情感であった。
ふたりはお互いの中に、理想の愛を見つけていたのだ。
一度開かれたふたりの官能の扉は、二度と閉じられることはなかった。
不死の神々はお互いを「一生の恋人」と誓い合い、求め合い、愛し合うのだった。
ふたりの神の交わす恋の高鳴りは、惑星クナーアンを春から輝く夏へと導く。
ふたりの気高い熱情により、大地は潤い、海は濁る事も無く、街は幸福なにぎわいに沸き、人々の喜びの歓声が満ち溢れた。
他の星から移り住む住民たちも日に日に増え続け、人々は、この星を「輝くの神の星」と、崇め奉るのだった。
アスタロトはこのクナーアンに生きる人間が好きだった。
彼らの幸福を祈らずにはいられなかった。
自然を愛し、その恵みを受けて生きようとする姿。
また自然の災いに懸命に立ち向かう姿。恋愛、友情、いたわりあいや慈しみは常にアスタロトの心に感動を与え、奮わせた。
同時に人間同士の憎しみや犯罪もまたアスタロトの中で理解しなければならない現実として受け入れた。
人間は相反するものを無神経に選別し、屁理屈を問いただしながら導き出した答えを正しいと思い込む生き物であった。
だが、アスタロトはそれをも許そうと思った。
定められた命であるのならば、彼等の行いは一輪の花の生涯と同じであろうと…
ふたりの神は間も無く十八になろうとしていた。
「なぜ人は善だけは生きていけない利己主義の生き物なのだろう…」
アスタロトは彼らの教師に問う。
「善とはなにか?に、なりますが…アスタロトさまの目の前に今にも飢え死にしそうな子供がいるとしましょう。あなたはどうしますか?」
教師の中でもセラノは、最も信頼するひとりであった。
「…取り敢えずは何か食べ物を…パンでも買って与える」と、アスタロトは答えた。
「その子はあなたに礼を言い、そのパンを大事に抱え、自分の幼い弟、妹に食べさせた。すると自分の口にする一欠けらのパンもなくなってしまった…」
「その子の分も、またその弟等の分も買ってあげればいい」
「その子供はあなたにお礼を言い、パンを食べ飢えを凌いだ。が、その子はあなたにこう訴える。『病気の母が今にも死にそうです。どうか助けてください』と。あなたはどうする?」
「…医者に連れていく。もしくは僕の魔法で。そして病気を治す」
「その子供はあなたに泣きながら感謝し、そして言う。『私達は貧乏で、雨風を凌ぐ家すら持たない。このままでは家族皆死んでしまう』と」
「…」
「あなたは家を与える。その子は言う。『仕事を下さい。どんなことでもやります。汗水垂らして働きます。家族を養う為にがんばりますから、仕事を…』あなたは与える。『冬が来ます。寒い日でも耐えられる服が欲しい。家族の誰も凍えさせたくないのです』『もっと大きい家が欲しいのです。弟や妹の家族が増えるのですから絶対に必要なのです』『私を羨む人々がいます。私は何もしていないのに、私を憎悪し、攻撃してくるのです。彼等に不幸をお与えください』…。さて、何が善で何が悪なのでしょうか?」
「…そんなもの、悪でも善でもない」
「そうです。人の有様です。本質です。誰が悪いわけでもない。ただあなたが最初にあげたパンは、あなたがすべきことだったのか、どうかです」
「パンを与えなければ良かったというのか?」
「他の人間がその可愛そうな子に同じ施しを与えたとします。同じような経過を辿ろうがそれを善悪と呼ぶ必要はないのです。重要なことは神であるあなたが、ひとりの人間だけにパンを与えたこと。救ったことなのですよ、アスタロト」
「何故?」
「神は公明正大で、人間を等しく愛すべき現身であり、尊敬と崇拝の存在だからです。あなたの善が憎しみの原因になってはならぬのです。もし、あなたが途中でこのカラクリに気づき、その子供への施しをやめたとします。その子は中途半端なあなたの施しに怒り、そして今までのあなたへの感謝など忘れ、こう言い放つかもしれない。『こんなことなら、最初からパンなど与えなければ良かったのだ。あの時死んだ方が何倍もマシだった』と」
「…」
「神の気まぐれな行為が続けば、それは最早尊厳ある神ではなくなってしまいます」
「人が助けを求めても、救うなってこと?」
「傍観者でいることが神たる者なのです。あなた方の高貴な光り輝く存在が、人々の憧れ、祈り、幸福の象徴になるのです。あなた方が、本来の神の姿でおられることをお望みならば、そうなさるべきでしょう」
「…そうでなかったら?」
「神の座をお捨てになられるか?もしくは、神の概念を変えておしまいになるか…でしょうか…」
「ふ~ん。それ、面白いね。神以外の者になれるのなら、なってみてもいいけどね」
「アーシュ、冗談はやめてくれ。僕達が神以外の者になれるわけもない。セラノ、あなたのおっしゃることは退屈な日々のスパイスにはなるが、良い未来の教えではない。私達はあなた方とは違って、多くの時間を生きなければならないのだ。苦悩は少ない方がいい。違いますか?」
「イールさまのおっしゃるとおりです。歳を取りますと、取り越し苦労も多くなってしまいます。精神の忍耐力をつけるのも些か度が過ぎましたね。申し訳ありません」
セラノはまだ五十代だった。
だが、確かにふたりの神々よりもずっと歳を取っていたのだ。
そして現実としてふたりはこのセラノの何倍も生きなければならないのだ。
セラノの去った部屋にイールとアスタロトは残った。
「落ち込んでいない?」
イールはアスタロトの様子を伺う。
「別に…大丈夫だよ。心配性だな、イールは」
「君を案じるのは僕の本性だよ。僕は知っている。君ほど人間に心を砕いている神はいない。それをやめろって言われても、無理だろ?だって、君にとって人間の幸せは生きていく糧でもあるのだからね」
「でも、セラノの言い分は正論だ。人ひとりを助けた為に憎しみが生まれる。神である僕がその原因だとしたら、それは聖なる指針ではなくなってしまう」
「見殺しにすることが正論だとは思えないけれど…」
「…」
考え込むふたりの目の前に突然金の粉が舞い落ち、ゆっくりと文字を形どる。
「天の皇尊からの信書だ。…十八になる明後日に、昇殿するように、だそうだ」
「また何かプレゼントをくれるのかね?彼の御方はなんやかやと僕たちに贈るのが好きだから」
「御方の前でそんな迷惑そうな顔など見せるなよ。ありがたく戴くのが必定だ」
「わかっているよ、イール。僕だって十八にもなるのだよ。いつまでも我儘な駄々っ子ではないつもりだよ」
「君の本性は潔癖であり、イノセントだからね。理に叶わないと腹を立てる。だけど僕はそういう君が好きでたまらない…だから困るんだ」
「おい、イール。図書室で愛の語らいなんて…その気にさせているの?」
アスタロトはイールの頬に口唇を近づける。
イールの手がアスタロトの口唇を押さえ、ニッコリと笑う。
「真実を言ったまでだよ、アーシュ。愛の営みはベッドの方が気持ち良いだろ?」
「君とだったら僕はどこでも気持ちいいけれどね」
思わぬお預けに、アスタロトは口唇を尖らせた。
礼服を纏ったイールとアスタロトは十八の寿ぎを頂くに、昇殿した。
礼儀を尽くし跪き頭を垂れ待っていると、辺りがひときわ明るくなる。
アスタロトはいつもながらちょっとだけ頭を上げ、その姿を垣間見た。
「…なんだ。ミグリじゃん」
「…」
「頭下げて損した気分だ」
「悪かったな、私で」
昔と変わらずに長い白髪を後ろにまとめた精悍な顔つきのミグリが、銀色の瞳で顔を上げたアスタロトをジロリと睨めつけた。
「天の皇尊はいらっしゃらないの?随分お見かけしていないから、今日は絶対お会いしたいと張り切っていたのにさ」
「そんなに何度も拝顔できるわけもなかろう。彼の御方が姿を現されることは、滅多にないのだぞ」
「ふ~ん。で、今日は何くれるの?」
「…」
(アーシュ。大人気ないぞ)と、隣りで俯いているイールがアスタロトの裾を引く。
「…天の皇尊はそなたたちの成長を真に喜ばれておられる。ふたりの密なる関係にもな。十八のそなたたちの麗しさはクナーアンの常世の繁栄さえ伺えよう。御方の幸いなる祝福はふたりの神々がそのままの姿で、これからの未来を導くことである」
「…どういうこと?」
アスタロトはミグリの言葉を不思議に思い、問い正した。
「ありがたいことに、おまえたちはこれから先もその姿のままでいられるってことだ」
「それって…僕達はこれ以上成長しないってこと?」
「そうではない。精神は勿論成長するし、身体は細胞レベルで死滅と再生を繰り返すものだ。人も同じだ。だがおまえ達の身体は老化しないって事だよ」
「…」
「別に驚くことではない。他の惑星の神々も同じような作りだ」
「でも…僕の父上も母上も、僕のような若い姿ではなかった」
「僕の両親も同じです。もっと…歳を取っていらっしゃった。彼等も成長してあの姿になったのではないのですか?ならば、僕達ももっと歳を取っても良いはずだ」
「イールは今の姿がお嫌いか?」
「…いいえ、好きです」
「人間は第二次成長の終わる時、そして大人になる寸前の姿が一番美しいとされる。御方はふたりに人々の憧憬となって欲しいのだよ」
「そんなことは聞いていないよ。なぜ、父と母たちと僕等が違うのかっていう話だ」
「…あなた方の両親…他の神々の方々は皆、初めからあのような姿で御生まれになったのですよ。天の皇尊が神々を生み出されるその時から、あなた方の父も母も、ずっとあのままのお姿だった。…あなた方は母神の腹から赤子として生まれ、幼児期を過ごし少年になり、そして成人になった。これは他の神々とは決定的に違う過程なのです」
「どうして?」
「あなた方が特別だからとしか、言いようがありません。彼の御方はおふたりに特別の愛情を注がれたのだから、あなた方はその恩を忘れてはいけませんよ」
「うるさいっ!」
アスタロトは立ち上がってミグリを睨みつけた。
「いつもいつもつまらん御託ばっかりだ。御方の恩なんか知るか。手前勝手な自己満足だろう。まあ、いいさ。そんなのグダグダ言っても仕方ないしな。ただこちらも言いたいことがある」
ミグリは食って掛かるアスタロトにも微塵も驚きもせず、黙って聞いていた。
「俺等ふたりがこの星を統治する神々であることを決めた天の皇尊ならば、この先、このクナーアンをどう導こうとも、何をしようともすべての罪は我が肩に背負う 。だから一切口出しなさるべからず。それを誓え。それと、そちらが気に入らず、我が命を終わらせたいと思うなら、いつでも好きにするがいい」
「そなたの言葉は御方に伝えておく。ひとつだけ言おう。天の皇尊でさえ、そなた達神々の命は決して死なせることはできないのだ。神々は不死だ。終わらせ方は自分で決めるしかないのだよ、アスタロト」
「…どうやって…死ぬことができる」
「それを聞いてどうする」
「…肝に銘じる」
「十八年しか生きてこられていない神の肝では到底おぼつかない。一千年経った後にでも、また同じ問いをするがよい」
「…」
ミグリの声音が変わった。
「天の皇尊の命より、イールには平等なる法を、アスタロトは戦いの勝利の加護を与える」
ミグリの捧げる手の平から温かな光がふたりを照らす。
光はふたりに天の皇尊の過分な慈愛を感じさせていた。
それはまた逃れられぬ運命の楔にも似て、ふたりの神々はやりきれないわだかまりにお互いを見合わせるのだ。




