天使の楽園、悪魔の詩 3
その三、
その日から毎晩、エドワードは俺を抱いた。
最初は痛いだけだった感覚が次第に心地良くなってくるのと比例して、自分の身体が汚泥の中に埋もれていくように感じた。
もとより…
「貴族に生まれたのがおまえの運命さ。嘆くより慣れろだよ、クリストファー。運命を受け入れて楽しむことだ」と、エドワードは言う。
ぐったりと沈み込む俺の身体をエドワードは軽々と抱き上げて浴室へ連れて行く。
シャボンに塗れたバスタブのお湯にふたりで入るのも、くやしいが悪い気分じゃない。
今まで誰かにこんなに構ってもらったことはなかった。
俺を愛してくれているのかはわからないが、エドワードは俺を気に入ってくれていた。
「どうだい?随分慣れた様だけど、セックスを楽しめているかい?」
「…思ったほど楽しくはない」
エドワードは楽しそうにククと笑う。
「だがね、君。官能という力を知っているかい?」
「…官能の力?」
「さて、面白い話をしよう…」
エドワードはそう言うと、俺を後ろ抱きにして自分の腹に引き寄せた。
「君はアルト、即ち『力』を持って生まれてきただろう」
「…うん」
「力を持たない一般人はその力を恐れる余りに禍々しいものと見るが、そうとも言えない。事実、多くのイルトは良きアルトの力を借りて、運を引き寄せ莫大な財力や名誉を手に入れている。わかるかい?魔法使いの信頼を得ることはこの街で豊かに暮らす者にとって、とても重要なことなんだ」
「アルトは力を持っているのに何故、イルトに服従しなきゃならないの?」
「服従じゃない。信頼って言ったろ?つまりは愛情とも言える。ふたりの間に必要なのは力の源だ」
「みなもと?」
「つまり、官能さ」
「意味がわからない」
「クリスが本物のアルトなら、そのうちに分かるようになる。まあ、簡単に言うなら、セックスを知ることが力になると覚えておけばいいよ」
さっきから指で俺をいたぶっているエドワードはそれだけでは飽き足らず、俺の中に入りこんだ。
口唇を噛み締める俺を手の平で撫でる。
「怖がるな。だた感じろ。官能を力にしろ。お前は強くなれる」
絡まった泡塗れの手の平の中に、僅かに赤い炎が灯るのが見えた。
「…おまえはいい子だよ、クリストファー。いい子にしていれば愛してやるよ」
その言葉が幾つかの条件を荷ってのことだとしても、俺はエドワードを嫌いにはなれなかった。
エドワードは貴族の友人達が集まる夜の宴に、毎週末俺を連れて行った。
勿論この屋敷でもたびたび開かれた。
淡いランプの灯が照る豪華な調度品に囲まれた一室に色とりどりのカウチが並ぶ。
人目を気にせず誰とでもまぐわう様式らしい。
麝香の甘い香りが当たり一面に漂い、その気が無くても簡単に妖しい気分になり得た。
勿論性交を楽しむ為に用意されたものであったが、当時10歳だった俺よりも小さい子が慣れた風に貴族の青年達の足の間に顔を埋めているのを見てこちらは興ざめした。
貴族独特の観念は最低限持ち合わせているらしく、狂乱とまではいかない様も、見慣れないこちらとしてはマトモな光景ではなかった。
エドワードは俺を引き寄せ、耳元で呟く。
「簡単に膝を折るな。見縊られるな。一等上手い奴を選べ」
そうは言っても俺にはどうしていいかさえわからない。
取り敢えず同じ年頃の子を誘い、ロココ調のカウチに身体を寄せ合ってみる。
彼は腰に薄い絹を巻いただけの裸同然の恰好でいた。
彼は(何故かは知らないが、大抵のサロンは同性だけで集まる)硝子ビンを持ち、そこからホースの付いたマウスピースを俺に差し出した。
「これは何?」
「水煙管ですよ。ゆっくりと吸ってみて下さい。気持ちいいから」
言われるままに吸い込んだ。
薄荷の香りが肺に広がり、何ともいえない高揚感に包まれた。
「ね、気持ちいいでしょ?」
「…君も貴族なの?」
「ええ、そうですが…僕はスタンリー家の遠縁の者です。…恥ずかしい話ですが家が貧しく兄弟も多かったので、人買いに売られるしかなかったのですが、ありがたいことにエドワード様に引き取られ、こちらにお世話になっているのです」
「…そう」
人買いに売られることとエドワードに飼われることと違いがあるのかと嗤ったが、言わなかった。
赤茶色の巻き毛、折れそうなほど細い肢体。あどけない顔をした子だった。
歳を聞いたら俺よりもふたつも上で驚いた。
俺は早熟の所為か、同級生達よりも一回り体格が良かったが…このイプリという子はルゥたちよりも華奢だった。
だが、手管は競うまでも無く、俺が陥落させられた。
「あなたがこのスタンリー家を継ぐお方と知って、なんだか安心しました、クリストファー様」
「様はよしてよ。頼むからクリスって呼んでくれ」
「では、クリス。エドワード様同様にあなたを主人として一生忠義を尽くすことをお許しください」
深く頭を垂れるイプリに俺は何も言えなかった。
この子と俺になんの違いがあるというんだ。
俺は何故この子に尽くされなきゃならない。
この子の人生を負うなんて…俺には重すぎる。
人の運命を受け入れるのは苦痛でしかないだろう。自分の運命ですらコントロール出来もしないのに。
その夜、俺はエドワードにもうサロンに出るのは嫌だと泣いた。
エドワードは「上に立つ者の使命だと思え」と、言い、許さなかった。
見知らぬ貴族達にいいようにあしらわれる自分が悔しかった。
自分が一番なりたくないものに染められていくようで、悲しかった。
絶望、屈辱、苦悩、嘆き、そして「諦め」が俺の感情のすべてだった。
長い夏休みが終わった。
帰り際、エドワードは玄関まで俺を見送り「来年も待っているから、必ずおいで、クリストファー」と、言う。
俺は何も返事はしなかったけれど、どうせ無理矢理にでも連れて来られるに決まっているんだ。
家には寄らずに直接学校へ向かった。
絶望を抱えた俺は、待ち望んだ学校までが、まるで地球の果てから帰るくらい長い道のりだった。
寄宿舎に帰ると、ルゥとアーシュが俺を迎えてくれた。
「ベル、お帰り!」
「…ただいま」
「ちょうど良かった。今日部屋割りがあってね。今年は俺達三人一緒の部屋なんだ。すごいだろ」
「…ホント?」
「うん、もう、ベルの荷物も新しい部屋に移しておいたからね」
「…ありがと…」
ふたりに両腕を引っ張られて新しい部屋へ連れて行かれた。
今までは6人部屋だったけれど、五年からは4人部屋になる。
「もうひとりは新学期からの転校生らしいよ」
「…そう」
俺はスーツケースを置き、ベッドの端に座り込んだ。
「どうしたの?ベル。元気ないね」
ルゥの水色の瞳が俺を覗き込んだ。
「旅の疲れが出てるんじゃない。ベルは夏休み中、実家で優雅に過ごしていたんだろ?どうだった?楽しかった?」
「…う、ん」
屈託のないふたりを前にして俺は何だか無性に悲しくなった。
自分の汚らわしさは勿論、断る勇気も持てなかったこと、嫌っていた貴族という世界を甘んじて受け入れてしまったこと。
情けなさに涙が出た。
ルゥとアーシュは驚いて、俺の背中をさすってくれた。
「どうしたの?ベル。なにかあったのかい?」
「な、んでも…ない」
「そんなに辛そうに泣いてるのに何もないはずないだろ?僕達、隠し事は無しって約束したよね。ちゃんと話してよ。ね、ベル」
「…話を聞いたらきっと君達は、僕を軽蔑するよ。…汚らわしい僕を、嫌いになる」
「バカだなあ。なるもんか。絶対にベルを嫌いになったりしない」
「そうだよ。何を聞いても軽蔑したりしないよ。僕もアーシュもベルがどれだけ貴いアルトか知っているもの。それに、親友だろ?僕ら」
「…」
澄み切ったふたつのまなこが俺を見つめている。何もかも受け入れるよと言っている。
俺は彼らだけには隠し事をしたくなかった。だが、もし俺の話を聞いて俺を軽蔑り、友達をやめると言われたりしたら…そう考えるだけで胸が苦しくなった。
俺は俺を貶めたエドワードに絶望しても、彼のすべてを嫌いにはなれなかった。
俺の中の汚い欲望を彼は目の前に突き出して言うのだ。「同じ穴のムジナ」だと。
彼は自分をどこかで憎んでいる。そういうエドワードの感情が10歳の俺でも理解できた。そして、それさえ平然と受け入れられる自分自身こそが、この純粋なふたりの天使に見られたくない部分なのだ。
こんな俺を二人が知ったら…
「ずっと仲間でいようね」と、言ってくれた言葉が俺を救ってくれたのに…
「ベル…君が大好きだよ。僕もルゥも苦しんでいる君を知って、ほってけると思う?君の苦しみはもう君だけのものじゃない。ね、僕達にわけてくれないか?そしたらきっと無くならないにしても三分の一にできると思うんだ」
アーシュは自分の心に決めた秩序を愛していた。彼の精神は美しかった。
ルゥを自分の手で拾ったことも、彼を「セキレイ」と呼ぶ権限を誇りとしていることも、俺には眩しすぎた。
自分達にも痛みを分けてくれと言う彼らの前で、俺は懺悔をせずにはおれなかった。
クリストファーの俺ではなく、彼らの前ではただの「ベル」でいたい。
どんなに言いたくないことでも、正直に言ってしまおう。
それが俺の精一杯の彼らに対する信頼の証だ。
俺は少しずつ、口ごもりながらも、館であったすべてのことを話した。
話し終わるとアーシュは拳を握り締めて突然立ち上がった。
「くそったれっ!ベルにそんなことを強いるなんて…ベルの叔父でも僕は許さない。『力』を使ってでも絞め殺してやるっ!」
アーシュは頭から湯気が出るくらいに怒り、今にも部屋から飛び出して叔父を殺しにいきそうだった。
ルゥは部屋を出ようとするアーシュの腕を捕まえ、「およしよ、君、死刑になっちゃうよ」
「別にかまうもんかっ!」
「ベルが困るだけだよ。その叔父さんが死んじゃったら、ベルがすぐに後を継がなきゃならなくなるもの」
「…うう」
「ねえ、そうだよね、ベル」
「うん…そうなるかも」
「ベルは貴族になりたくないんだよね」
「うん」
「じゃあ、アーシュもベルの叔父さんを絞め殺すのはやめておいた方がいいよ」
「…だけどさ、許せないじゃん。このままじゃベルが可哀想だよ」
「う~ん…」
ルゥは腕組みをして、首を左右に振った。彼の考える時の癖だ。
「…そうだ。学長に相談してみようよ」
「トゥエに?」
「僕達だけじゃどうしよもないよ。学長から叔父さんに言ってもらおうよ。もうベルは叔父さんの家には行きませんって」
「う~ん、上手くいくかな。どう思う?ベル」
「僕は…君達に話したから少しはすっきりしたよ。もし、これからだってエドワードの相手をしなきゃならなくても…ルゥとアーシュが僕を軽蔑したりしないでいてくれるのなら…我慢できるもの」
「それじゃあ駄目だ。やっぱりトゥエに話そう」
こうと決めたら絶対に曲げないアーシュは、俺を引っ張って学長室へ連れて行く。
嫌がる俺の背中をルゥが押し続けた。
俺は掴まれる腕の強さと背中に当てられた手の平の温かさに、涙がでるほど嬉しかったんだ。