浄夜 5
5、
キリハラの話が真実なのか、ただの作り話なのか…すぐには判断できなった。
もし…それが事実であり、魔王がアーシュだとしたら…
僕はそれを「へえ~興味深いね」と、笑って鵜呑みに出来る気分には到底なれない。
「先生、教えてください。…召喚士とは学長を指すの?」
「…」
「そして…魔王とはアスタロト。そして産まれた赤子はアーシュ…そういうことなんですか?」
「学長から聞いた話だよ。それが真実かただの作り話なのかは、私に言えるわけもなかろう。私が見たわけではないのだから」
「だけど、そういう風にしか聞こえないし、捉えられないじゃないか。なぜ、そんな大事なことを僕に話したの?アーシュが魔王だなんて…」
驚きの感情は段々と憤りに変わっていく。
なんてことだ…
知らない方が良かった。
僕はもう引き下がれないほどに、アーシュに固執している。彼をものにしたいと思っている。それを今更、彼自身が魔王アスタロトなんて。
そんなのをおいそれと抱けるわけが無い。
「あなたを恨むよ。こんなの、聞かなきゃ良かった…」
ベッドから離れ、ガウンだけを羽織ったキリハラを、僕は思い切り恨んだ。
「知りたいと私に乞うたのは君だろう」
「酷いね。アーシュの目の前であれだけ焚きつけておいて。全部僕に責任を負わせる気なの?」
「責任か…」
キリハラはガウンの前を留めないまま、ベッドの端へ座り込み、僕の頬を撫でた。
「悪かった。だが、君に乞われなくても、いつかはメルに話そうとは思っていたんだ」
「…どうして」
「私は、今までに何度も想像したよ。学長が…トゥエが目の当たりにした光景を。目の前に現れた魔王、アスタロトの事を。自分を育ててみろと言い残して、赤子になった魔王を、彼はどれだけ見つめていたのだろうと。生まれたばかりの非力な赤子に未来を託していいものなのか。希望と絶望を愛らしい両手に握り締めている存在。いや、人間の未来を魔者に委ねること自体、正しきことではない。未来の為には、この魔王である赤子の命をひと思いに奪ってしまった方が良いのではないか。そうすれば、ひとりの残虐な魔者を退治したという事実は残る。…トゥエはきっと悩んだと思うんだ。魔方陣の消えた床の上で、ただ泣き続ける赤子を腕に抱いた時、彼はその赤子の小ささに、温もりに泣かずにはおられなかったと言う。なにひとつ人間と変わらぬ無垢な者だったと。彼はとうとう決心をした。この赤子を自分の手で育てようと」
「…」
「アーシュを、魔王の子として育てることも可能だったろう。だがトゥエは学園の中の他の子供と同じように育てた。それはメル、一緒に暮してきた君が一番良く知っているはずだ」
「ええ」
確かにアーシュが特別扱いされた記憶はない。彼が特別秀でていた者だとしても、彼の容姿からしたら当たり前の事だし、アーシュ自身、人として何かが違うと感じてはいない気がする。
「アーシュのことを知っている人は、どれくらいるの?」
「さあ、学長はお伽話としか言わないし、もしこの話を聞いてもアーシュの事だと感じる者は少ないだろうね」
「じゃあ、なぜあなたは今僕に、それを言うのさ。それを聞いた僕が今までどおりにアーシュと付き合えると思う?どんな顔をして彼の前に立てばいい。僕は…彼を抱きたいとさえ思っているのに」
「そうすればいい」
「無理だ」
「何故?」
「アーシュが魔王なら…恐ろしくて、立つものも立たないさ」
僕は自嘲気味に笑った。
本当にそうだと思った。事実今の僕には彼への欲情なんか畏れ多くて微塵も沸いて来ない。
「トゥエがお伽話にしてまで、この事実を話したかったのは自分ひとりで抱え込むには重大だし、恐ろしかったからなのかもしれないね。そして私もアーシュに誘われても、彼を抱く勇気は無い。だけど君は違う。メルキゼテク。水先案内人だろ?アーシュは、彼は一人の人間としてこれまで育ってきた。彼を取り巻く様々なものが彼を育てている。そのひとりとして君の力が必要だと思っている」
「…それはトゥエが?」
キリハラは黙って頷いた。
そうか…トゥエがキリハラに語ったことも、キリハラが僕に話したこともすべて、トゥエの計算なんだ。自分の願いを叶える魔王を育てることが彼の目的なのだろう。
それを叶える為に配置されたコマが僕なのか…いや、僕だけじゃない。
「ルゥとベル…ホーリーたち。彼らもアーシュの為に選ばれた者なんだね」
「トゥエだってすべての未来が見えるわけでもない。アーシュだけにこの世界を背負わせる気でもないよ。彼を一人の人間として育てると決めた日から、トゥエはアーシュを自分の子供だと思って接している。また魔王として生きてきた過去の記憶はアーシュには期待できない。潜在能力は未知数だが、魔王の育ち方を知らないんだから、どこでどう発動されるかわからないんだ」
「アーシュに言えばいい。『君は魔王アスタロトそのものだ』って」
「…君がそうしたいのなら、そうすればいい。誰にも本人に言うなとは言っていない。お伽話をしているだけだからね」
「…ずるいね」
「大人だからね。だけど君たちは違う。青春という季節は何が起こってもファンタステックでセンシティブなエロティックなものだ。君の悩む顔を見ていたいと望むのも、大人の醜さと思ってくれ」
その後、卑怯者と散々罵ったが、キリハラは僕の口唇を力でねじ伏せ、嫌だというのに僕を犯した。
大人なんてロクな奴らじゃない。特に知識人って奴は。
三日後の深夜、そろそろ寝ようかと自室の灯りを消しベッドにもぐりこもうとした時、ベランダからゴトンと音が聞こえた。急いで駆け寄ってみると、パジャマ姿のアーシュが立っていた。
「こんばんわ、メル」
「アーシュ…ここは二階なのにどうやって?」
「ちょうどいい具合に椋木があるだろ?それをよじ登って…あとは勢いをつけてベランダに飛び込んだ」
彼に近づき、くせっ毛に絡みついた葉っぱを、僕は指先で取ってやる。その指が少しだけ震えていることにふと気づいた。
アーシュが僕のところまで来てくれたことに感動した僕の指先が勝手に震えているらしかったのだ。僕は自分の様におかしくて、そして自分にもこんな感情もあるのかと、口元が変な風に歪んでしまう。
「ルゥは?いいの?」
平常心を保とうと、話の矛先を変えてみる。
「ああ、ぐっすり寝ているよ。いつもは俺の方が寝つきはいいんだけど、今日は体育の授業はマラソンでさ。15キロを走らされたんだ。だからセキレイはベッドに入った途端に寝てしまった。体力なら俺の方があるんだ」
「そう、じゃあ、今夜は君を独り占めしてもいいんだね」
「ん?…そういうことになるかもね」
そう言って、少し顔を伏せて照れるアーシュがどうにもこうにも愛おしくてたまらない。
彼が魔王だって?破壊神だって?
目の前に立つ少年はまだ未発達の純情な少年でしかない。
「部屋に入ろうか」
「うん、あ、待って。お土産がある」
彼はポケットに手を入れ、そこからそっと手を引き出し、僕の目の前でゆっくりと手の平を見せた。
手の平の中で、淡く青白い光がゆっくりと瞬く。
「ホタル…かい?」
「そう、ここに来る途中の森に綺麗な小川があるでしょう?あそこで掴まえたの。人の手に捕らえられるんてドジなホタルだ」
魔王に捕らえられるのなら、そのホタルも誇りに思うだろう…と、一瞬思ったけれど、アーシュには自分が何者なのかって、本当はどうでもいいことなんじゃないだろうか…そんな風にも感じてしまった。
勿論これは僕の思いであって、彼が何を望んでいるかは知ることはできない。
「あ、飛んだ」
アーシュの手の平から飛び立ったホタルは揺れながら森へと帰っていく。
「あんなに些細な生き物でも自分の帰る家を知っているなんてさ、本能ってのは記憶になくても身体に沁み込んでいるものなんだね」
「…そう、だね。さあ、ベッドに行こうよ、アーシュ。君を思い切り可愛がりたい」
「うん」
眼鏡の奥の黒いまなこがホタルのように淡く光る。
僕は彼の手を取って、部屋に導いた。
彼の服を丁寧に脱がせ、彼の眼鏡を外し、彼の身体をベッドに押し付けた。
サイドテーブルの仄かな灯りで、彼の身体のひとつひとつを確かめる。
スキャンスコープは僕の力のひとつだった。
驚くべきことに、アーシュにはたったひとつの黒子も雀斑も傷痕も見当たらなかった。
黒子や雀斑はともかく、心に傷のない人間なんて居ない。
彼は間違いなく魔王であろう。
「どうしたの?メル」
「いや…綺麗な身体だなって思ってね」
「そうかな?他人と比べた事がないから、俺にはわからないや」
彼に出生の秘密を打ち明けたとして、僕に何のメリットがある。
このカードはまだ見せない方が利口だ。
彼を僕のものにしておく為に、彼にはまだ、ただの人間で居てもらおう。
その夜、僕はアーシュを頭の先から足のつま先まで思う存分味わった。
彼の身体は言わずもがな、すばらしい味わいだった。