浄夜 2
中等科一年になったアーシュは「真の名」を頂き、僕と同じホーリーになった。
ホーリーとは「真の名」を持った者だけが呼ばれる学園での称号だ。
その年はアーシュを含め、五人もの生徒がホーリーに選ばれた。
ルゥもそのひとりだ。
そして、もうひとり、貴族であり、この街の黒幕とも言われるカンパニーの一人息子でもあるベル。
アーシュを手に入れたと思う僕にとって、いつも彼にくっついているルゥは勿論邪魔だったが、何よりもあのベルが気に入らない。
その容姿も品格も、ずば抜けた後ろ盾がある経済力もなにもかもが癪に障る。
ベルがアーシュに恋心を抱いていることは、ひと目見てわかっていた。
アーシュもまた彼を気に入っているようだった。
ルゥの他には見せない顔を、あの男にはよく見せる。
僕より先にベルがアーシュを頂いてしまったら、ずっと餓えている僕の忍耐はどうしてくれる。
どうにかして彼よりも先に、僕はアーシュを手に入れたい。
だが、すべてはアーシュの手に委ねられている。
誰を選ぶのも、誰を捨てるのも、アーシュの選択なのだ。
凍てついた満月の夜だった。
深夜ひとり庭先での月見を楽しんでいた僕に幸運が舞い降りた。
アーシュはやっと僕を見つけてくれたんだ。
理由はわからなかったが落ち込んだ憂いの表情も月影で一層儚げに見えて、募る想いが膨らむのは当然だ。
頼りなげなアーシュを、僕は抱きしめる。
ありったけの狡さで君を癒す者になる。
信頼と友情を勝ち得る為に。
二度目の出会いは図書館の書架庫だった。
「天の王」学園構内の中央の聖堂と隣り合わせの図書館は、それぞれの校舎へ放射線状に石畳が伸びている。図書館まで徒歩十分はかかる石畳を好き好ん行く奴は相当の目的を持った奴だろう。遊びに興じる生徒たちは図書館の存在すら知る由もない。
狭い扉から長い廊下を渡り、やっと図書館の入り口へ到着。
入り口のカウンターには司書のキリハラ先生がいる。
東洋生まれの彼は真っ直ぐな黒髪と切れ長の目が印象的。
僕を認めると口端だけで笑い、指で「どうぞ」と、示す。
普通の学生は彼に学生証を確認してもらい、書架庫に入れるのだが、僕の場合は特別。
彼とは愛人関係にあり、彼は僕を気に入ってくれている。
「今日の御香の香りは…清々しいですね」
彼の瀟洒なサイドテーブルには香炉がおかれ、そこから香りを燻らせているのだ。
「香木は『真那伽』。先人はこれを評して『無』と、呼ぶらしい。意味はわかるかい?」
「さあ、御香には詳しくなくて」
「つかみどころの無い、それでいて万物に通じた香り、らしい」
「哲学的ですね」
「君のようだろ?」
「まさか」
アイコンタクトで逢瀬を約束して、目的の書架へ足を向ける。
古い木製の緩い螺旋階段を下りる。
上へ昇ったら、歴史や学習の為の一般の書籍。下へ降りると魔法に関する書籍。
ハイアルトしか読むことが許されないセクションが延々と続く。
そして、高等魔法書の書籍がずらりと並ぶ一番奥の角が僕の閲覧席になる。
小さな窓際に余っていた机と椅子を持ち込み、周りを書架で囲んだら即席の自習室ができあがり。
傍には古い本の保存や、劣化した本を補修する為に一時的に保管する書庫への出入り口がある。
僕がキリハラ先生と逢い引きする場所は、もっぱらそこだ。
誰もこんなところまでは寄り付かないし、中は広いし、案外涼しくて居心地がいいんだ。
マホガニー製のカウチの上で閉館まで楽しむこともしばしば。
伽羅の香を燻らせてやる時の艶かしさはたまらない。
キリハラ先生は大人だし、ハイアルトでもある。色んな魔法の術を手に入れているから仲良くなって損はない。魔法の技術だけではなく、大方の性技は彼から教えてもらった。
彼はとても上手いのだ。
勿論彼の相手は僕だけじゃないし、僕だって彼の他に愛人はいる。
今付き合っているのは同学年のアイラと、ふたつ上のイシュハ。
アイラはアルトで気の利く女の子。お互いにセフレ以上の進展は望んでいない。
イシュハはイルトだが、非常に精神力が強く、信用できる男だ。
彼と付き合い始めたのは、興味本位からだった。
アルトがイルトと付き合ったら、どういうふうな精神状態になるのか、自分で試したかったからだ。
昔から言われる、アルトはイルトに従属してしまうのは何故かと言う疑問は自分で解明したかった。
なるほど、僕の場合でも確かにイルトであるイシュハを一旦信用してしまうと、こちらから裏切るのは罪深く思えて、彼を傷つかせたくなくなる。彼の信用が深ければ深いほど、彼の為にたまらなく奉仕したくなるのだ。
自分の精神がふたつに分かれるとしよう。
彼を冷静に見つめている自分と彼に従属したい自分がいるならば、常に彼の為に何かしたいという欲求が勝ってしまうのだ。それを不思議だと感じながらも、その欲求に従ってしまう。
僕がそこまでイシュハにのめり込まなかったのは、彼がそのことを知って、僕を縛りつけるのを恐れたからだ。彼は「僕らの関係は友情に押し留めておこう」と提案した。
僕は彼の虜になる僕自身を逃れた。
彼の精神力と忍耐に感謝している。
アルトは一旦イルトに惚れてしまったら、魔法をかけられた如く、相手に靡き、従属されてしまうという事実を僕はこの時、実体験したわけだ。
「あ」
いつものように魔法書を解読していると、横の本棚から覗く顔があった。
「メルだ」
アーシュが本を手にこっちを見ていた。
「何してるの?」
嬉々とした顔でアーシュは僕の机に小走りで近づき、椅子に座る僕の隣りに身体を寄せた。そして僕の手元を覗き込む。
「呪文の解読だよ。特殊な文字で書かれてあるだろう?これはラノ語でしか解読できない文字の配列だから一旦ラノ語の辞書で調べて、さらに通常の言葉に直すんだ。それでも音にできない言葉も多いから難しいよ」
「ふ~ん。ちょっと見ていい?」
「うん」
アーシュは原書を手に取り、じっと見つめる。
しばらくして「やっぱわかんないや。まあ、いいや。全部身体に入ったら必要な時は引き出すことにするよ」と、言う。
「何?どういう意味?」
「意味なんかないよ。呪文って音符だね。意味なんかない。解読なんかしても意味ないよ。言葉じゃないもの」
「…面白いことを言うね。アーシュ。じゃあ、どうやって魔法の呪文を唱えるの?」
「…知らないよ。だって今この呪文は俺に必要ないから」
不思議な事をいう子だ。呪文は魔法を使う為にはなくてはならぬもの。言葉が音になり、自然界の精霊や異次元の者を召喚し、己の味方として力を得ることになるのに。
「…」
「でも必要な時は、メルに教えてもらいたいな」
アーシュはあっさりと本を返して、僕を見つめる。その言葉の意味を僕は見落とさないようにしなければ。
「見返りは?」
「身体で払うよ」
ほら、彼はちゃんとわかっている。僕が欲しがっているものを。
「そう、期待してる」
僕は彼の腕を取り、僕の膝に彼の腰を引き寄せた。彼は嫌がりもせずに、僕の膝の上にきちんと腰掛ける。彼の腹に両手を合わせ、彼の耳元に問いかける。
「もうルゥとしちゃったの?」
彼は一瞬驚いた顔を後ろにいる僕に見せたが、すぐに平気な風を装った。
「…う~ん、まだ」
「僕が先に頂いてもいいってわけ?」
「駄目だよ。セキレイと約束してるもの。するのもされるのも一番最初はお互いだよって」
「つまらない約束ね」
「つまらない事には意味があるもんだよ。メル」
そう言うとアーシュは身体を下に捩りつつ、僕の顔を見上げ、僕の口唇にキスをした。
「メルのことを嫌いになりたくないから、俺には優しくしてよね」
初心な色目を使い、アーシュは弾くように僕の膝から離れた。
「司書の先生がお待ちのようだから、お邪魔虫は退散するよ。じゃあ、またね、メル」
そう言って、アーシュはここから離れて行った。
まるで疾風のように、僕の心までも連れ去って。
その後の情事はキリハラ先生を困らせる羽目になった。
なにしろ彼が僕から盗んだ欲情を引き戻すのに一苦労だったのだ。