Private Kingdom 8
8、
それからしばらくして、メルと別れて部屋に戻ったが、セキレイの姿はなかった。
自分の部屋へ帰ったのだろう。
傍にいてやるべきなのか、このままそっとしておく方が良いのか…考えるのも億劫になる。
翌日、寝坊した俺は朝食を取りに急いで食堂へ行ったが、セキレイは見つからず、謝るタイミングを逃してしまった。
学校へ向かい教室にいるセキレイに声をかけたが、どうもよそよそしい。
「セキレイ、昨夜のことだけど…」
「もうそのことは気にしてない。それより自分の席に着きなよ。授業が始まるよ」
弁解の余地もないってわけか…そちらがそうならこっちだって。
似た者同志の意地の張り合いなんてしたくはないけど、打ち解ける機会を失ったからにはこっちからは謝る気が失せた。
授業が終わっても俺からはセキレイには近づかなかった。
ベルは説明はしなくてもふたりのケンカの理由は大体判っている模様で、気にする風もなく普段どおりに接してくれている。
いつものように食堂で三人並んで食事しようとしてもセキレイはひとつ席を空けて座るから自然にベルとの会話が多くなる。
「この冷戦、いつまで続くと思う?」
俺はベルの耳元で囁く。
「誕生日が来れば君もルゥも気分が変わると思うよ。『真の名』を貰ったら仲直りができるさ」
「そんなもん?」
「うん、そういうものだろ?それに…なんかね、『真の名』をもらったことでなのかはわからないけれど、自分が何倍も大人になった感覚になれるんだよ。今まで見えなかったものが見えてくるっていうか…大事なものがわかるっていうか…ねえ」
「ホント?」
「うん。だからいつまでも小さいことに拘るなよ、アーシュ」
俺の頭をくしゃくしゃと撫でるベルは、いつだって俺よりも遥かに大人だ。
セキレイを守る奴は俺よりもベルみたいな奴が相応しいのかもしれない。
ふと、そんな風に思ってしまった自分が情けなくなった。
あれからメルの姿を寄宿舎や校内でも目にするようになった。メルが言ったように、こちらがメルを必要としているのかもしれない。
目で挨拶をしたり、ひと声掛けるだけでもなんだか心のどこかに信頼できる仲間が増えた気がして心地いい。
ベルはそういう俺を見て「君は案外浮気性だね。ルゥ側に付きたくなったよ」と、口を尖らす。
「それって嫉いてるの?」と、言うと
「認めたくはないけどね、そうかも知れない」などとふざけて、顔を見合わせて笑いあう。
少し離れて歩くセキレイがこちらを睨むのもお構いなしだ。
俺とセキレイの誕生日が来た。
その日が来るのを待ちわびていたと言うベルが、俺とセキレイにお揃いのパジャマをプレゼントしてくれた。ご親切にそれぞれにスキンを忍び込ませるのも忘れずに。
「上手くいくように祈りを込めておいた」と、微笑むベルに、俺とセキレイはお互いに顔を赤らめた。
その日の放課後、俺は学長室に呼び出され、構内敷地の中心にある聖堂へ連れて行かれた。
古びたゴシックの聖堂は特別な行事の他は、滅多に入ることはない。
側面のクリアストーリのステンドグラスから夕日がちょうど差し込んで、虹色の光が黒い制服を美しく染め上げてくれた。
教壇の元、跪く俺の頭に手を置いた学長のトゥエが、厳かに「真の名」を俺に伝えた。
「誉れ高き名はこの者に与えられ、その伝説の名は再び、世を支配する。暗き夜も眩しき昼も君に愛を齎す。アスタロト・レヴィ・クレメントの未知なる王国は祝福の賛美に溢れかえろう…」
「…」
それを耳にするまで俺は「真の名」の意味をただの名前だと思い込んでいた。
多分それが事実だ。だが、その名の響きが頭の上のトゥエの手から身体の芯に突き刺さっていく感触をなんと言えばいいのだろう。
頭を垂れた俺は金縛りのように身体も動かせず、声も出せなかった。
…このままでは『真の名』に支配されてしまう。
アーシュとしての俺自身が負けてしまう。
いや、どちらが自分でも構わないのかもしれない。
「力」を得るためには素直に「真の名」に委ねる手もあろう。
だけど、俺は抗いたい。
「運命」なんてもん、「必然」ってもんにすべてを任せるのは嫌だ。
いつの間にか俺の両手は緋毛氈が敷き詰められた床に着き、必死で身体を支えていた。
脂汗がべっとりと身体中にまとわり付いた。息苦しさにそのまま意識を失うかと思った。
床を這うように沈み込んだまま、荒い呼吸を繰り返す。
…冗談じゃねえ!ふざけるなっ!どんなお偉い名前かしらないが、そんな言の葉に跪く気なんか、毛頭ねえよっ!
影になった自分の姿を目で追った。
果たしてこれは本当の自分なのか。偽物なのか…
「すべてを受け入れろ。いや、拒絶しろ。
選ぶのは俺でなければならない。
片隅に佇む真実を見極めろ。
何物も怖れるな…」
顔を上げた。
夕日の輝きはいつの間にか消え、ステンドグラスの輝きは暗いものに変わっていた。
俺はゆっくりと立ち上がった。
目の前のトゥエは顔色ひとつ変えずに俺を見ていやがる。
クソ親父、俺を試しやがったな。
「良き名を頂き、ありがとうございます。この身の内に巣食う己を味方にすれば俺の勝ちですよね」
「…君はもう、勝者だよ、アーシュ」
トゥエはやっといつもの微笑みを俺にくれた。
儀式は終わった。
俺の後はセキレイの番だったが、俺は彼を待たずに寄宿舎へ帰った。
正直、自分の事だけで精一杯だった。
夕食も取らずに部屋に鍵をかけてベッドに横になった。
あの時感じた身体中の火照りが夜中になっても冷めやらなかった。
冴えた目は眠りを拒み、俺は立ち上がって部屋を出た。
ふたつ先のセキレイの部屋へ向かう。
ノックをしても返事はなく、鍵は閉められていた。
セキレイもまた、俺と同じような体験をしたのだろうか。
彼は一体どんな「真の名」をもらったのだろう。
俺は「真の名」に打ち勝つことができたのだろうか…
廊下の窓から下弦の月が白く浮かんでいた。
恐ろしい程に白い光が俺を包む。
窓を開け、手をかざす。
手の平に熱いエナジィが満ち、瞬く間に身体中の隅々に流れる。
「力」を蓄えるひとつの軌跡だ。
この夜、魔法を学ぶ方法をひとつ、俺は知った。
この「力」をどう使うべきなのか。
人の為に?自分の為に?この学園の為に?
ガタンとドアの開く音が響いた。
部屋からセキレイの白い姿が浮き上がった。
セキレイは俺を見て、一旦立ち止まり、そして近づいた。
窓の手すりに両手を置き、月を仰ぎ見た。
「良く晴れてるから半月でも明るいね」
「セキレイ…」
「誕生日おめでとう、アーシュ。どうにか間に合って良かったよ」
いつもより少し硬いセキレイの声。
「こちらこそ、おめでとう、セキレイ。勝手に決めた誕生日でも一緒に祝うことができて嬉しいよ」
緊張した顔が緩み、いつものセキレイの笑顔が戻った。
「アーシュ…『真の名』はどうだった?」
「…アスタロト・レヴィ・クレメント。…それが俺の名前だって」
セキレイの身体が一瞬震えた気がした。俺の方に顔を向けて驚いた顔を見せた。
「どうしたの?」
「いや…やっぱり怖いな。『真の名』の力ってこちらが気を張ってなきゃ、負けそうだ」
「君の方はどうだい?」
「…ルシファー・レーゼ・シメオン。畏れ多くて困ってしまうよ」
ルゥは眉間に皺を寄せ、本当に参っている顔で俯いた。
ルシファー…か。
天上と闇の国を司った伝説の英雄だ。
伝説なんて神話と同じで作り話だ。
「真の名」はその偉人の生まれ変わりとも言うが、実際居たかどうかもわからぬ者の生まれ変わりなんて信じる奴がいるものか。
煽て上げて持ち上げて、都合のいいように先導者にしたてあげるつもりだ。
万が一、上手くいかなくても「真の名」はまた次の者に継がせればいい。
そうやって、彼ら(学園)は、力のある魔法使いを味方につけてきた。
それが本音じゃないのか。
「学長が決めた名前にこちらが畏れることもないさ。どんな名前を貰おうがセキレイはセキレイだ」
「…アーシュ」
「俺のセキレイに変わりは無い。そうだろ?」
「うん」
「…俺の事嫌いになった?」
「なんで?」
「…失敗したから」
「あれは…お互い様だ。僕の方も悪いんだ」
「じゃあ、チャンスをくれる?今度は失敗しないようにするよ。約束する」
「…なんだかいやらしい気分になるね」
「うん。でも今夜はよそう。まだ自信がないしね。ちゃんと学習して、セキレイを気持ち良くさせたいしね。それまで待っててくれるかい?」
「そんな真顔でよく恥ずかし気もなく言えるね…僕はそれにどう答えればいいのさ」
「楽しみにしてる。…それだけでいいさ」
「…アーシュのバカ。恥ずかしいこと言わせるな」
セキレイの身体が俺に凭れ、俺は細い身体を抱きしめた。
「楽しみにしてる。僕は一生、君だけのものだ」
「…好きだよ」
重なる声が耳に遠い。
下弦の月が天上に輝く夜、僕らは十三の時を迎えた。
大人になるのはもう少し。
楽しみながら待ちわびて、揺れる君の影を踏もう。