Brilliant Crown 9
9、
さよなら。
繋いだ手は、いつまでも離したくはないけれど、
楽しい今を惜しんで、立ち止まったままではつまらないね。
だから、さよなら。
別れのさびしさは、再会へのときめきにかえて。
そして、また、大いに語り、愛し合いましょう。
だから、
別れは笑顔で元気で、と。
懸命に話すイールに耳を傾けていた天の皇尊は、次第にそれまでの厳しい表情を和らげ、少しだけ呆れた風に顎を突き出した。
「イールは勝者になる算段なのだな?」
「はい。クナーアンの神として生まれ出た時から、私は自分の運命に負ける気はありません。アーシュと共に生きた満ち足りた過去に悔いはありません。そして、生まれ変わったアーシュと生きていける未来に、…私はこれまで感じたことのない期待と昂揚に満ち溢れております」
イールは天の皇尊を前に、これまで表したことのない感情をさらけ出し、身体の心から熱くなるほど夢中に訴えている自分自身に満足していた。
「イール。おまえの未来は短い。それはわかっておろうな」
「はい」
イールは深く頷いた。
「不死に生まれてきたおまえが、半身の愚かさゆえに滅ぶ己を情けないと思わないのか?」
「…永遠の美とは歴史に残され、人々がその美しさに気づき、初めて認識するものではないでしょうか。永遠の生も、限りある者には夢の如く、憧れではありましょうが、当人の私たちにはそれほど魅力とは思えません。私は平凡な神ゆえに、不変不死を当然に感じていました。だがアスタロトは…アーシュは幼い頃から、己が不死であることに疑問を持ち続けていました。生まれ、育ち、そしていつかは滅んでいく。それはあらゆる自然の成り行きだと彼は感じていた。アーシュは常に己に違和感を覚えながら生きていた。…私は彼が人間に生まれ変わったことが愚かとは思いません。人の世に生まれ、育ち、老い、死んでいく。アーシュは自然の生を手に入れたのです。そして、私もまた、同じ運命を担う者として、アーシュと共に死ねるのです。これから生きる未来がいかに短くとも…私は、微塵も後悔などしない」
「イール…」
後ろに控えていたアーシュは、思わずイールの背中に抱きついた。
「ごめん。それから、ありがとう…これはアスタロトとしての言葉だ。俺からは、ね。イール、心からあなたを愛してる。これからもよろしくね」
イールは振り返り、アーシュの両手を握りしめた。
「私も…天の皇尊の前で誓う。アーシュを愛している。死ぬまでおまえを守り、癒し、導いていこう。私の命がおまえと共にあることが、私の誇りだ」
天の皇尊ハーラルは、生き生きとしたイールの姿に思わず目を細めた。
律に縛られた者が、その鎖を解き放つ姿は、誰が見ても爽快であろう。
「…では、私が降りるしかないわけだな」
ハーラルはわざとらしく肩を落とし、大きなため息を吐いた。
「…ありがとうございます」
イールは深々と低頭し、アーシュもまたイールに倣った。
「…愛し合う恋人の前で、勝者になるものはいまい。…アスタロト…アーシュ、こちらへおいで」
「はい」
アーシュは、天の皇尊の前へ進み、イールと共に並んだ。
「私はおまえたちを司る天の皇尊である。それ故、おまえたちの罪を無辜にするわけにはいかない。さて、ふたりにふたつの運命の道を差し出そう。ひとつはふたりがこの先も永遠にクナーアンの不変不死の神として生きていくことだ。もうひとつは、ふたりに残された未来の時間は、この時から先、クナーアンの月日でいうならば十年。それ以上もそれ以下もない運命だが…どちらを選ぶ?」
天の皇尊ハーラルの処断に、アーシュは少し面食らった。
十年…アーシュにはこの歳月が短いとも長いとも感じることができなかった。だが、千年以上を生きたイールを思う時、残された時間がたった十年しかないことが残酷に思えたのだった。
だがイールはアーシュに微笑むと、すぐさま天の皇尊に「迷う必要もありません」と、答えたのだった。
一瞬だがイールはハーラルの言葉に動揺した。
これから十年しか生きられぬアーシュを想うと、人生としては短すぎると感じたからだ。
まだ十八年しか生きていないアーシュには、あまりに重い罰ではないのだろうか…だが、それは一瞬のことだった。
イールは天の皇尊ハーラルが、これほどまでに執着しているアーシュに酷い罰など与えたりしないはずだと、信じていた。ただ本気でアーシュと自分を試しているのだ、と思った。
それに、もしハーラルが本当に十年の歳月しか我らに与えなくても、すでに不死と言う選択は、イールとアーシュにはない。
ならば、選ぶべきはひとつしかありはしない。
天の皇尊はイールとアスタロトの決意を悟り、高御座から立ち上がった。
「では、私の裁断を行う。…アーシュ、私の傍へおいで」
「はい」
アーシュは三歩進み、天の皇尊の目の前で立ち止まった。
肩までの目線を上げ、天の皇尊の御顔をじっくりと見つめた。
今は焔が消えた紅玉の瞳に、きょとんとしたアーシュの顔が映っている。
アーシュは御顔のひとつひとつの造形に、すっかり見惚れていた。
天の皇尊はアーシュの赤く腫れた頬を撫でる。途端に痛みが消えた。
「痛かったか?」
「痛かったけれど嬉しかったんだ。ホントだよ」
「…おまえを失うのが惜しい」
「人間の世界では輪廻転生という概念があるんです。俺とイールが死んで天の皇尊の元へ還ったら、きっと御方は俺たちを生まれ変わらせてくれる。そうではない?」
「…うぬぼれも過ぎると腹が立つ。アーシュの思い通りにはさせまいぞ」
「うん、そうだね。…思い通りの未来なんて面白くないもの」
「おまえは…似ているな」
ハーラルの言葉にアーシュは首を捻ったが、アスタロトと似ていると言ったのだろうと悟った。
「そりゃ、アスタロトの生まれ変わりだもの」
天の皇尊ハーラルは返事をする代わりに、アーシュの額に口づけた。
瞬間、アーシュの身体中が感電したかのように震えた。
よろめいた身体をハーラルは抱きしめ、謎の言葉を耳元に囁いた。
「おまえへの罰だ。アーシュよ、アスタロトよ、思い知れ」
ハーラルはアーシュの身体を離し、イールと並ばせた。
「さて、ふたりに対する刑罰は終わった。これからはふたりの愛を祝福しよう。イールとアスタロトは私に何を求める?」
「なにも」
「要りません」
ふたりは声を揃えた。
「ただ、私たちが消えた後のクナーアンに、新しい神をお与えください」
「ほう、どんな神を望むのだ?」
「仲の良いふたりの神を」
「お互いを尊敬しあえる」
「それでいてケンカもたまにしたりしてね」
「喧嘩は嫌だけど、愚痴りあい程度ならよしとしよう」
「心隠さず」
「素直に想いを語り合える」
「そしてこれが大事」
「『死』をお与えください」
「惑星と共に、大地と共に、人と共に、時と共に、変化していくことは神であっても少しも醜いことではないと思います。どうか我々同様、新しき神にも寿命をお与えください」
ふたりの会話に妬けたのか、ハーラルは不機嫌にふたりの頬を両側から抓った。
「いたいっ!」
「あ~ん!」
「『死』を楽しむなど、不変不死である私の前で不敬であろう。おまえたちの願いは聞かなかったことにする。もとより死ぬことを選んだおまえ達が、クナーアンの未来を憂う資格などあるものか」
「…言葉もありません」
「ごめんなさい」
「…全く…これまでにミセリコルデを使わずして、消え去る神などいなかったものを…」
「御方さま」
「もうよい。ふたりとも、下界へ下りなさい。特別だが、私がここで見送ろう。未来永劫今のおまえたちとの目通りは叶わぬだろうからな」
「もう…御方さまと会えないの?」
「私は下界の神と違って多忙でね。『死』など考える暇もないのだよ。私がおまえの前に姿を見せるのは今回限りだ。わかったかい?この悪童めが」
「…」
きつい言葉と裏腹の、天の皇尊の溢れる愛情が、アーシュには嬉しくてたまらない。
「行きなさい。これからもおまえ達を祝福する。…いつまでも変わらずに、だ」
天の皇尊の言葉に、イールとアーシュは跪き、低頭した。
「御方さま、…ありがとうございます。このご恩に報えるよう、アーシュと共にこれからもクナーアンの繁栄を導くことを誓います」
「俺も御方さまへの感謝を忘れません。さようなら。お元気で。ミグリもいつまでも御方さまと仲よくね」
「…あなた方もお元気で…さようなら」
初めて優しい笑顔を見せてくれたミグリに、アーシュもまた笑顔で手を振った。
ふたりは手を繋いで後ずさり、天上から昇殿の間へ姿を消した。
ふたりの消えた空間を、しばらく見つめていたミグリはぽつりと呟いた。
「…行ってしまいましたね。あれで、良かったのでしょうか…」
「これ以上良い選択が、他にあったとは思えないが…ミグリにはあったのか?」
「いえ、最良の導きだと存じます」
「そうだろう?私が間違うはずもない」
ふてくされた態度で高御座に座るハーラルを見て、ミグリは少しだけ微笑んだ。
「何が可笑しい?」
「いえ、なんとなくですが…似ておいでになられると思いまして」
「…それ以上は言うな。おまえはこの私を自己嫌悪に陥らせたいのか?」
「いいえ、全くもってそのような思惑など…。この世界を担われる天の皇尊は、すべてにパーフェクトであらせられます故…これまでも数々の…」
「無駄口はそれまでにしろ。帰るぞ」
「承知いたしました」
天の皇尊ハーラルは高御座から腰を上げ、そのまま前へ歩き始めた。彼の周りに金の光が集まり、その輪郭をとらえると、そのまま光の中へ消えていく。
ミグリはただひとり、この空間を名残惜しむかのように、彩光の中に佇んでいた。
神殿に戻ったふたりは、辺りがすっかり暗く陽が沈んだ後だと知った。
「結構、長い間、あの場にいたんだね」
「あの空間は時間に左右されないのだ。天の御方の思うままになされたのだろう。今が今日の夜だと良いけれど…」
十二階段の下には、手にカンテラを持った神官たちがふたりを待ちわびていた。
「お帰りなさいませ。イールさま、アスタロトさま。遅うございましたね」
「待たせてすまなかったね。無事、天の皇尊の祝福は頂いたよ。…どうした?不安そうな顔をして」
「ルシファーから聞き及びましたが…アスタロトさま…アーシュさまが一旦故郷に戻られるとは、本当でしょうか?」
「間違いない。ルシファーもアーシュの友人も共に旅立つことになる」
イールの言葉に、周りの神官たちが色めき立つ。
「何も心配することはない。アーシュがクナーアンの神であることには変わりがない。私とアーシュのクナーアンへの加護は万全である」
この惑星の統治者であるイールの言葉は絶対であり、しかも疑いようもないほどに確信に満ち溢れている。ただ一言で、神官たちの不安な表情も一掃された如く明るいものに変わった。
「いつ出立されるのでしょうか?」
「明日、いや、明後日の日の出を出立の時と決め、祝福の光を旅立つ者へのはなむけにしよう。それまでルシファーは両親と共に過ごしなさい。わかったね」
「はい、イールさま。ありがとうございます」
「ヨキはふたりの客人の支度を頼む」
「承知いたしました」
「他の者は、アーシュが春に戻るまでの間、滞りなく政務が行われるように、気を引き締めてこれまで通り仕えるように」
「承知いたしました」
「では、食事の用意を頼むよ。私はともかく、アーシュは空腹だろうからね」
「はっ、ただちに」
アーシュは先を歩くイールの手を掴んだ。
「イール…俺は何をすればいい?」
「アーシュは私から離れずにいてくれ。ここを出るその時までふたりだけでヴィッラで過ごそう」
「…うん」
飛竜に乗り、月夜の天を駆けた。崖の上のヴィッラまでは僅かな距離だ。
凍える外気を避け、ふたりは部屋のベッドへ潜り込み、お互いの身体を抱いた。
「先程から元気がないが…どうした、アーシュ、何か不服か?」
「自分で決めたことだけどさ、いざ別れるってなると…寂しくて…せめて十日ぐらい居ちゃ駄目?」
「駄目だ。それでは私がおまえを離せなくなるからね」
「イール…」
「大丈夫だよ。春になればおまえは戻ってくる。そうだろう?」
「うん」
「ああ、そうだ。これを渡しておこう」
イールは枕元のテーブルの抽斗から、絹に包まれた手の平ほどの円盤を出し、アーシュに渡した。
「あ、携帯魔方陣だ。…前とちょっと形が違うけど…」
「ああ、少し改良しておいた。以前は同空間でしかワープできなかったが、これはそれに加えて、異次元を移動できるようにした。まあ、アーシュの住む惑星と、このクナーアン限定にはなるけれど、あまり魔力も使わずに短時間で行き来ができるようになるだろう」
「すげえ、便利!…これ、俺じゃなくても使える?」
「…ある程度の魔力を持った者なら可能だが…アーシュ、もしや、おまえそれを…」
「うん、セキレイにあげよう。これでいつでも好きな時に両親に会えるじゃん」
「…おまえの世話好きもやっかいなものだな」
「え?何が?」
アーシュにはイールの嫉妬など、きっと一生理解できないのだろう。いや、気がついていても彼は、そんな感情も楽しめと言うのだろう、きっと。
「…それで、その魔方陣なしに、おまえはどうやってここに来るつもりなのだ」
「俺にはこれがある」
アーシュは右手を挙げ、光る青玉を見せた。
「これは俺とイールを結びつける魔石だ。俺ひとりなら、この魔石の力でイールの元へいつでも還れる。それにイールが呼びかければ、俺も応えることができる」
「…試したこともないくせに。また失敗してどこぞの空間に放り出されることになっても知らんぞ」
「大丈夫。今度は記憶を忘れるドジだけは絶対にしないもん」
「当てにはならない。おまえは…なんにでも好奇心で突っ走り、危険なことで試さずにはいられないのだから…私に心配ばかりさせる奴なのだから…」
「イール…」
イールは悔やんでも怒っても諦めてもいない。
アーシュをいたわり想っているのだ。そしてその想いはとても神聖で温かいもので、アーシュはすがりつきたくなるのだ。
アーシュはイールの胸に顔を埋めた。
きっと寂しがって泣くアーシュに、イールは同情してしまうから、欲に溺れた方が慰めになる。
朝が来るのが早く感じた。
アーシュはベッドから抜け出し、外へ出た。
辺りは暁闇の薄闇から次第に橙色に染まる。
庭の中心に立つマナの木ともしばらくお別れだと、幹に語りかけた。
そして、崖の端まで歩いた。
初めてここに来た際にマナの実を食べて、その種を植えた芽は短い枝に成長していたが、それ以上は伸びず、灰色に枯れていた。
アーシュは腰を下ろし、枯れた枝を撫でた。
「せっかく芽が出てたのに…駄目だったね。豊穣の祝福を与えても無理なのかな」
「マナの木は神木だ。このクナーアンにたった一本しか育たない決まりなのだよ」
いつの間にか、イールの姿があった。寒くないようにとマントをアーシュの肩にかけた。
「…ありがと」
「いいかい、アーシュ。どんなに優れた魔力を持っていても、すべてが思い通りになるわけではない、私たち神でさえ、こんなにも感情に振り回される生き物だ。そして、それが生きるということなら、完璧な理想未来などありえないのだ。私たちもまた運命という風に舞い上がる木の葉のようなものなのかもしれない」
「…」
一陣の風に足元の散らばった枯葉が舞いあがり、朝日を受けながら、はらはらと崖下に落ちていく。
「そういうものになりたかったのだろう?アーシュ」
「…イール、俺は死ぬために生きるんじゃないよ。俺は…俺にできるすべてをやる遂げる為に生きたいんだ」
「…行っておいで、私のアーシュ。私はここで、おまえを見守っている」
「イール」
「見送りはしないよ。おまえの寂しげな顔を見たら…冷静ではいられないからね」
「俺だって…イールが泣いたらここから出られなくなる」
「誰が泣くものか」
「きっと泣く。寂しくて愛おしくてたまらなくなるもの…」
「バカアーシュ、今から泣く奴があるか。まだ今日一日抱き合えるだろう?」
「うん…」
「春はすぐに来るよ。春の合図をおまえに送ろう。そしたら必ず還っておいで」
「必ずイールの元へ還るよ」
「我らに残された時間は多くはないだろうけれど、再会の日を心待ちにして、充実した日々を過ごそう」
「俺も自分の為すべきことを見つけ、懸命に生きるよ。そして、イールに褒めてもらう」
「褒めてもらうために頑張るのか?」
「そうさ。トゥエは褒める子は伸びるって言ってた」
「では、その日までに褒め言葉をたくさん覚えておこう」
触れ合った肌の温もりが、こんなにも大切に思えるのは、きっと、お互いが命の果てを知っているからだろう。
「アーシュ、元気で」
「イールも…寂しくなったらいつでも呼んでよ。すぐに駆けつける」
「了解した」
そんな約束をしても、弱音を吐いたりはしない。わかっている。
強がりはお互いを想う心。そして、甘えるのもまた優しさなのだから。
「寂しい別れは嫌だな」
「では、…別れは笑顔で、元気で、と」
「うん、それがいい」
橙色に染まる朝空に、イールとアスタロトは、お互いを見つめ、微笑んだ。
止まらぬ涙を流しながら。