Brilliant Crown 6
6、
ふたつの手は君をあたためる。
ふたつの手は君を慰める
ふたつの手は君を抱きしめる。
ふたつの手は…
君を信じ、すべてを可能にする。
「畏まらなくていいから座りなさい、ルシファー。夜分に目を覚めさせて悪いが、ヨキにお茶を用意させた」
ルシファーはテーブルのポットから、カップにお茶を注ぐイールにあわてて、「僕がやります」と、イールの傍に近寄った。
「かまわないよ。アーシュにはいつも私が淹れてあげているから、慣れているんだ。アーシュは…アスタロトのことだが、綺麗な早緑色の緑茶を好んで飲んでいたんだ。新しいアーシュは慣れない所為か、渋い顔をするのだが…」
「サマシティでは紅茶ばかりでしたから…」
ルシファーはイールが差し出すティーカップのソーサーをかしこまりながら、受け取った。正面に据えられた椅子に座り、熱い緑茶を啜ったが、緊張の所為か味はよくわからない。
「アーシュから聞き及んでいる…うん、美味しい。これはルシファーの両親の農園の茶葉だそうだね。ルシファーも収穫を手伝ったそうじゃないか」
「はい…。僕にはそれくらいしか両親に報いることはできませんから」
ルシファーは四年前、このクナーアンに還り、自分の両親と再会した。そして、クナーアンの良き農夫として働き者の両親の姿を誇りに思った。
だが、それが自分の望む生き方なのかと問われれば、即座に頷くことはできなかった。
イールは自分の生きる道を悩む若いルシファーを愛おしく思う。
不安だらけの彼の未来への道が、希望を探し出す道であることにまだ気がつかないのが、いじらしいではないか。
「私は…親になったことがないからわからないが、親にとって子供とは、自分を映す鏡のようなものかもしれないね。良くも悪くも嘘は映さない。それでいて親は美しいところばかりを見ていたいと思うんだ。…君は良い息子だよ、ルシファー」
「ありがとうございます」
ルシファーの緊張は幾分か取れはしたが、それでも、まだイールに呼ばれた意味を理解できない疑念に気が休まるわけもなかった。
お茶を飲み干したイールは、優雅な手つきでソーサーをテーブルへ置き、少しだけ溜息を吐き、ルシファーに語り始めた。
「話すべきことは君にもわかっていると思う。アーシュの事だ」
「はい」
「記憶を失ったアーシュをクナーアンに呼び込んだのは、あの子への君の想いが届いたからだろう。遅くなってしまったけれど、心からお礼を言うよ。ルシファー、ありがとう」
いきなり頭を下げるイールに、ルシファーは狼狽し、思わずカップを落としそうになった。あわててソーサーをテーブルに置き、ひどく恐縮して頭を下げた。
「い、いいえ、僕なんか…アーシュは初めから、自分が還る場所がイールさまのおられるこのクナーアンであることがわかっていたのです。記憶が無くても、彼はこのクナーアンの神、アスタロトであることは刻み込まれていたはずですから…」
「…もしアーシュがここへ来るのが遅れていたら、クナーアンの今年の冬は耐え難いものになっていた。彼がこの星を救ったのだ」
「はい」
「アーシュにはこれからもクナーアンの神として、その役割と仕事を果たしてもらうことになるが…」
「承知しています。僕もここで神官としてイールさまとアスタロトさまに仕え、精魂込めて奉仕させていただきたいと思っています」
「いや、ルシファーには神官の仕事をしばらく辞めてもらうことにする」
「え?」
「君がいると、私は君への嫉妬を抑えきれなくなるからね」
「…」
「君のアーシュへの想い同様に、アーシュもまた君を裏切ることはない。君の恋人であり、ベルやメルの親友…それ以上の関係でもある。…私には耐えられない現実ばかりだ。本音を言えば…私はアーシュを私だけのものにしていたいのだよ、共に命果てるまで…。だが、アーシュの意志を私が自由に変えれるものでもないのでね。アーシュは私の半身であり、このクナーアンにおいては誰にも邪魔されることのない恋人同士…と、いうことでなんとか折り合いを付けようというわけだ」
「…あの」
「アスタロトとしての最低限の神の役目は大地への豊穣の恵みと、戦場での勝利を決することだ。必要な時は当然居てもらわなければならないが、それ以外の時間はアーシュの自由に任せることとした」
「それは…」
「アーシュが生まれ育った場所はここではない。アーシュは彼の地へ戻り、学生の本分を果たしたいと願っている。おそらく勉強よりも青春を謳歌したいのだろうが…足元の見えない未熟な十八の子供であるならば、仕方のない話だ。ルシファーもまたそうであろう?で、あるならば、アーシュと共に、学ぶ場所へ帰りなさい。無論、このクナーアンが君の故郷であることには変わりない。時々は両親に顔を見せてあげると良い。だが、アーシュと共に私の前に現れるのは遠慮してくれ。私は私の愛する者が別の恋人を連れた場面など見たくないのだ。君の顔を見るたびに自分の愚かな嫉妬で、己を悔やみたくないのでね」
「…イールさま」
「それに…アーシュは精神力も能力も特出しているが、行動が破天荒で何をしでかすかわからない。私の目が届かない場所では、私の代わりにルシファーがアーシュの傍に居て、アーシュを見守って欲しい。そして、君の友人たちにもその役割を分けてやりなさい。あの子は…自分の目的のためには嵐の中心にさえためらいもなく飛び込んでいく性質であり、それが命運を分けることもある。多分に強運ではあるが、彼が人間として生きることを選ぶのなら、必ず『死』が待ち構えている。私は、来たるべき運命が彼の望むべき『死』であることを願うばかりなのだ」
「イールさまには…アーシュの『死』が見えるのですか?」
「運命の道はひとつではなく、それは時間ごとに移り変わるものだから、私にもはっきりと宣言できるものではないよ。ただ…アーシュには君たちが必要だ。君たちもまたアーシュを求めている。行きつく先が『死』であろうと、恐れる必要はない。怖れるべきは自分を疑うことのみであろう」
「…わかりました。イールさまの示される通りにいたします。ただ…」
「なにか?」
「僕がアーシュの傍にいることが、イールさまの苦しみを招くのなら、僕はアーシュと別れます。…僕はアーシュを愛しているけれど、イールさまを崇拝しているのです。イールさまが僕のことでお苦しみになるのが、僕には耐えられない…」
「あさましいことを言うものではない。おまえは耐えなければならない。それがアーシュを愛した責任であり、宿命だ。ルシファー、よく聞きなさい。私はおまえを憎むのではない。私の嫉妬はアーシュへの想いがそうさせるのだ。それは私の感情であり、おまえとアーシュの愛に差し障ることではないのだよ。とは言っても、げに恋は曲者。この先の君らの心変わりは知った事ではないし、運命だと己に言い聞かせて『愛』に縛られることもなかろう」
「…」
ルシファーはただ目を瞠り、イールの言葉の本心を知ろうとすべてを傾けた。
「わかるね。私はクナーアンの神ではあるが、『愛』の前ではルシファーと同じなのだよ」
突如、ルシファーの心は震えた。
イールへの畏れは然るべきではあったが、そのイールが自分とアーシュを認め、愛する者同士であると、宣言しているのだ。
畏れは次第に薄れ、イールへの感謝と喜びにルシファーの胸が膨れ上がった。
一時も早くこの喜びを感謝を誰かに伝えたかった。
それはアーシュにではない。
ベルだ。
ベルもまた、ルシファーと「愛」を競う相手でありながら、ルシファーを誰よりも理解する友であった。
「あ、ありがとうございます、イールさま。お許しを感謝いたします。僕は…僕の魔力はささやかなものでしかないけれど…命を賭けてアーシュを、守ることを…誓います」
涙に濡れる声を震わせ、低頭したまま跪くルシファーに、イールはそれ以上言葉をかけなかった。
運命だとは言え、人間と同じ立場を選んだことに、イールのプライドは慣れなかったから、とても笑ってルシファーを受け入れることなどできなかったのだ。
イールは先に席を立ち、部屋を出た。
ルシファーはドアが閉まるのを待ち、イールの足跡が聞こえなくなるまで姿勢を崩さなかった。
イールの複雑な気持ちが、ルシファーにも僅かだが理解できた。
はしゃいではいけないと思いながら、ルシファーは立ち上がり、テーブルのカップを片づけると、喜びを分かち合うべく、すぐにベルの部屋へ向かった。
ベルはと言うと…ルシファーのようには素直にイールの好意を受け取る気にはならなかったが、取り敢えずアーシュと共に自分の故郷へ帰れる喜びに安堵したのだった。
翌日、朝早くから禊を終え、礼服に着替えたイールとアーシュは、互いの手を取り合い十二の階段を昇り、奥に繋がる広間へ入り、白木戸を押して光の洪水の中へ足を踏み入れた。
幾たびか経験済みであるが、イールにとってもこうして生まれ変わったアーシュと共に昇殿することに、胸が高鳴った。と、同時に不安がないわけではない。
もう随分長い間、天の皇尊を拝顔したことがなかった。
天の皇尊が溺愛したアスタロトは勝手三昧で、御方が作り上げたアスタロトはすでに現実には存在しないのである。
アーシュがアスタロトの生まれ変わりとは言え、彼は厳密には天の皇尊の祝福を受けてはいない。
それを無視した形で、イールはアーシュにクナーアンの神としての役割を与え、それを成し遂げてしまった。
(もっと早くに昇殿すべきだったのだが…)
そうは思っても、クナーアンの冬は早く、アーシュの豊穣の神としての仕事は多忙を極めていた。しかも、もし天の皇尊の怒りを買い、アーシュに何か差し障りがありでもしたら…
と、ここのところイールの気がかりのひとつであった。
(ただの杞憂に終わればよいが…)
「イール、どうかしたの?」
淡い彩りに輝く行く手の眩しさに目を細めながら、傍らのアーシュがイールの顔を覗き込む。
「いや、なんともない。アーシュ、私の手を離してはいけないよ」
「わかってる」
アーシュの鮮やかな微笑は心を強くする。
(なるようにしかなるまい。光は我が前にある。怖れることなどあるものか)
時間も次元も超越した場所にふたりは居た。
目の前には白髪の眩い青年の姿をした者が立っている。
イールには慣れ親しんだ姿だ。
「ミグリ、お久しぶりです」
イールはミグリに丁寧に頭を下げ、傍らのアーシュを紹介した。
アーシュはイール以外の人ではない人形を興味深く見つめていた。
きらびやかな石の鎖で飾られた長い白髪と銀色の瞳、長く裾を引く白いローブも輝くように純白だ。
だが何よりも驚いたのは今までに見たこともない程の美を極めた精悍な美貌であった。
(俺も美貌を得た者だと思っていたけれど、やっぱり人でない美しさってすげえな~。天の皇尊の使者でこれじゃあ、本人はいかほどか…見当もつかないじゃん)
アーシュはミグリに愛想よく笑ってみせた。しかし、ミグリはアーシュを振り向きもしないで、イールを見つめている。
「イールよ、いかなる理由においても、人間をこの天上に入れることはまかりならぬと知っておろう」
「アーシュはアスタロトの生まれ変わりであり、遺伝子もその能力もすべて受け継いでおります。彼はクナーアンの神としての務めも落ち度はありません。私は彼をクナーアンの神として、天の皇尊に祝福して頂きたいのだ」
「…数年前、イールはここへ来て、我が主に奏上申し上げたな。『死』を賜りたいと。そして『ミセリコルデ』を頂いたはず…」
「ここに持参しています。…あの時、私はアスタロトを失った悲しみに耐えきれず『死』を願いました。ですがこの『ミセリコルデ』を胸に抱き、アスタロトへの想いを繋いで、生き延びることができたのです。アスタロトは自分に魔術をかけ、人間として生まれ変わりました。それが傍らにいるアーシュです。アスタロトとしての記憶はありませんが、私はアーシュを私の半身として愛し、これから共に生きていきたいのです」
「この人間の『死』が、同時にイールの『死』であることを承知しているのだな」
「はい。それが私とアーシュの意志です」
「そのような勝手を、天の皇尊が承知されようか」
「…」
(まるで神話の世界だな…。生きてる次元が違い過ぎるよ)
アーシュはふたりのやり取りを、映画の映像のように見つめていた。なんだか夢のような浮かれた気分になって、思わず忍び笑いを漏らした。
ミグリは笑うアーシュを睨みつけた。
アーシュは負けずに微笑んだ。
「ミグリさん。俺、精一杯頑張るよ。絶対に失望させませんから、イールを困らせらないでね」
アーシュの言葉に、ミグリは口唇を尖らせ、プイと白を切った。
あくまで人とは口を利かぬらしい。
しかし、天の皇尊は人の為にそれぞれの星に神をこしらえたのではなかったか?
その神人が人と口を利くことを嫌がるとは、まったくもって理解不能だと、アーシュは首を捻った。




