Brilliant Crown 5
5、
されば愛とは…
岩清水のように純粋に溢れ、癒し、浄化させ、乾いた心を潤す源…
だが水だけは腹が満ち足りぬように、人は愛だけに生きることはできない
飢死を望む者はいない。
しかし、人は愛を求む。
清らかに気高きものへの憧れと渇望に生きる。
アスタロトを消した満月を見つめ、イールは諦めきれぬように、「アーシュ」と幾たびか呼んでみた。
凍るような夜の森にイールの声が風に鳴る小枝のように響いた。
だが、消えてしまった恋人はイールの呼びかけに応えるはずもない。
凍える身体を抱き、イールはとぼとぼと洞窟へ戻った。
洞窟の奥には、アスタロトに出会うまでは身体を繋げていたアスタロトの生まれ変わりであるアーシュが、安眠を貪っている。
イールはその傍らに立ち、アーシュを見下ろした。
(この子は私のアーシュではない。彼の生まれ変わりに過ぎない。…そうだ。私が愛した者ではない。アーシュにはああ誓ったが…私はこの子をアーシュのように愛せるだろうか…)
腰を下ろし、アーシュの傍らに添い寝をした。そして、洞窟の穴から漏れる微かな月の光に浮かぶアーシュの寝顔をじっと見つめた。
幻であったアスタロトとは違い、触れば存在する柔らかな温もり。
今のイールには、それが悲しかった。
イールの指に柔らかく巻きつくアーシュの黒髪の感触を味わった。
影を落とす長い睫を指で撥ね、その存在を確かめた。
アーシュはう~んと声を上げ、そして、むずがる幼子のようにイールの胸に身体を預け、また静かに寝息を立てた。
マントを包ませただけのアーシュは、イールの温もりを探ろうと、裸の身体をぴたりと合わせ、両腕をイールの腰に巻きつけて離さない。
その寝顔は安心しきった子供のそれと同じだ。
(愛とは不思議なものだな。同じ恋人であるはずの、アスタロトへの愛とこの子への愛の違いを、私は知っている。
…私はこの子が愛おしい。
私とアスタロトはクナーアンの神だ。神は定められた半身しか愛せない。そして、たったひとつの「愛」を、育て、繋ぎ、永遠のものとするはずだった。
だが、今や私はアスタロトとは違う愛でこの子を愛している。
それは「真の愛」なのだろうか…
そしてこの子を本当に愛してしまった時、私はアスタロトへの「愛」を失うのだろうか…
それでも…
アスタロトは言うだろう。
怖れながらも、愛を注げ…と。
ならば、私も覚悟を決めよう。
全身全霊でこの子を、愛し、そして見守ろう。
アスタロトへ注いだ想いではなく、新しいアーシュへの恋心を育ててみよう。
この子へのジレンマや嫉妬に苛まされ、自分の愚かさを嘆いたとしても、「愛」がそうさせるのなら、それも甘んじよう。「愛」の前に神も人間も区別はない。
クナーアンの神とは、人間の為に作られたものでもあるのだから…)
イールはしがみつくアーシュの背中を優しく抱いた。
波打つ柔らかい髪に頬を当て、人の親が愛児の幸福を祈るように、アーシュの幸福な未来を祈った。
「…イール?…起きてたの?」
もそもそと顔を上げ、眠たげな両眼をイールへ移したアーシュは、大きく息を吸い身体を伸ばして、再び甘えるようにイールの胸に寄り添った。
「ああ、夜天の麗しさに惹かれてね。洞窟を抜けだして、散策していたのだ」
「…足が冷たいね」
「歩き回ったからな」
「…なんだか…艶っぽい顔をしているね。…浮気でもしてたみたいに」
「おまえの中のアーシュが、私に別れを言いに来たのだよ。おまえをよろしく頼むと…ね」
「アスタロトが?」
「ああ」
イールに言葉にアーシュは一瞬顔を歪ませ、言葉に詰まった。
イールから身体を離し、目を閉じたまま、仰向けになった。
何故か涙が出そうになるのをあくびで誤魔化し、スンと鼻をすすった。
「そうか…イールはアスタロトに会えたんだね」
アーシュはゆっくりと目を開け、洞窟の屋根の隙間からこぼれる月の灯りを見つめ、ほっと息を吐いた。
「…今まで何も知らずに、独りぼっちを嘆いたこともあったけれど…俺は幸せだったのだなあ。アスタロトは俺と共に、いつも、いてくれてたんだね。そして、遠く離れた星で、孤独に苦しみながらもイールは俺を生かしてくれていた。…俺への愛を信じて」
「孤独が真の愛を教え、育てるのかもしれない。おまえはこれからも己の孤独に苛むだろうが、それは愛を知る者の権利でもあるのだよ。私も同じだ。おまえがクナーアンを去っても、私は嘆きはしないよ。私の愛はおまえに注がれ、私の孤独もおまえの愛故だと思えば、悲しくはない」
「イール…それじゃあ…」
「おまえが生まれ育った彼の地へ帰りなさい。おまえを想う大事な者たちと共に…。これからのおまえの人生をクナーアンだけに縛ることを私は望まない。勿論、クナーアンの神の仕事をしてもらわねばならない。だが、本来のおまえは、未熟な学生なのだろう?仲間と共に色々な勉学も遊びも経験するべき年頃なのだからね」
アーシュはイールの覚悟を知り、少し驚いた。
クナーアンでの仕事を終え、すべてが落ち着いたら、サマシティに戻るためにイールを説き伏せねばならないと思っていた。だが、イールの気持ちを思うと、アーシュは気が重かった。
それでなくても長年イールを一人ぼっちにさせていた後悔や、今やイールに惹かれて止まないつのる恋心もある。
「俺がここから居なくなってもイールは大丈夫?」
アーシュの心配そうな言い方に、イールは爽やかに笑った。
「大丈夫じゃないが、辛抱するよ。それもおまえへの愛の痛みであれば耐えられるし、再会を待つ喜びにもなるだろう」
「そう、なの?…俺はまだ、イールみたいになれない…イールと別れると思うだけで、涙が止まらないよ」
言葉通りにアーシュの両目は、瞬く間に涙が溢れ、零れ落ちた。
我ながらバカのように素直な泣き虫になったのだと、泣きながらアーシュは思った。
きっと本気で甘えられる存在が、居てくれるからだろう。
トゥエでもルシファーでもベルでもない、まぎれない命を分かち合った相手が…
「おまえの半身である私はここに居る。いつでもおまえを想っている。おまえが居る事で、私もまた愛に生き、生きがいを知り、活力となり、クナーアンの神としての責務を果たしていける。…生きる意味を知ることとなる」
「俺はもっと…根本的に…イールに触れられないのが…すごく嫌なんだけど、な…」
しゃくりながらアーシュはイールの身体にしがみつき、イールを誘った。
アーシュの幼い甘えも震える程の色香も、イールはたまらなく愛おしいものに思える。その感情はアスタロトと似ているようで、違うものだろう。
イールは安心した。
この子をこの先もずっと愛していけるのだと、確信した。
「おまえが満足するまで、果てなく酔わせてあげるよ、アーシュ。私だけの恋人…」
イールは涙で濡れたアーシュの頬を拭き、アーシュが泣きやむまで深い接吻を何度も繰り返した。
夜が明けるまでふたりは快楽の根源までを互いの愛で埋め尽くそうと没頭した。
寒くはなかった。愛の焔は熱く、だが、焼き焦がす破壊的なものではなく、互いの心を調和させる慈しみの愛であった。
ふたりはこれから来る飢えや寒さを慰めるための印を、互いの身体に残そうと、懸命に温めあった。
「さあ、夜が明ける。最後の仕事を終えて、神殿へ帰ろう。そして昇殿するのだよ。『天の皇尊』に挨拶しなくてはね。私の新しい半身であるアーシュを」
「うん、言うとおりにするよ。イールの導きに間違いはありはしない」
イールとアーシュは仲よく手を取り、朝焼けの森に立った。
クナーアンの新しい一日を祝福するために、二神は手を繋ぎ合わせ、微笑んだ。
イールとアスタロトの幸福は、クナーアンの星に満ち足りた時を齎す。
アーシュの豊穣の神としての最後の仕事を終え、夕刻、ふたりが神殿に戻った。待ちかねた神官たちは、すべての仕事をやり終えたふたりを諸手を挙げて歓迎した。
ささやかなパーティだった。
テーブルを囲み、手の込んだ温かい料理を並べ、ふたりの神を精一杯にもてなす神官たちを、アーシュは初めて家族のようだと感じた。
彼らのこうした気負いの無さが、神という遠い存在を身近な憧れの概念にさせている。
彼らにはイールとアスタロトへの清らかな愛しかない。
彼らのエゴは少なく、己の保身や野心もない。
ただ二神に仕えることを、生きがいに日々を生きている。
それはクナーアンでは、豊かな人生になるのだろう。
(クナーアンはこれでいい。俺のアスタロトの神としての役目はこの人々の精神を守る事だ。そして、俺はクナーアンだけに生きる者でもない。アスタロトが望んだ人間に生まれ変わった俺は、自分の生まれ育った街で、俺の運命を選ばなきゃならないのだから)
アーシュは自分の決意をイールに話そうと隣に座るイールを見た。
イールは黙って頷いた。
「明日早くには潔斎をし、身支度を整え、昇殿しよう。彼の御方は気難しく、なかなか御姿を拝ませてはもらえないが、本心では誰よりもアーシュを見たいと心待ちにおいでになろう」
「…マジで?」
「多分…な」
実際のところ、イールにも「天の皇尊」の思惑などは知った事ではない。
むしろ、彼の御方の執拗な愛情など、アーシュに届かぬ方が良いのだ。
その夜、アーシュが早めに寝入ったのを幸いに、イールはこっそりとルシファーを図書室の一室へ招き入れた。
ルシファーにとってイールとアーシュの留守中は、毎日のようにベルと共に学習に励んでいる学習室は自室のように慣れ親しんでいる。
だが、イールに呼ばれた理由がなんであれ、信仰する神の呼び出しに、ルシファーも緊張も否めない。
「疲れている君を、こんなところに呼び出してすまなかったね。どうしても昇殿の前に、ルシファーに話しておかねばならなかったのだよ」
イールはゆったりとした肘掛け椅子に座り、両肘を肘掛けに置いたまま、跪くルシファーを眺めた。
「いいえ、おふたりに比べれば、僕の仕事など些細なものでしかありません。どうぞ、お気になさらずに、遠慮なくお命じ下さい」
「そう…では、今、ここで、今までの君への嫉妬心をさらけ出してしまおうか?」
「…」
ルシファーは思わず顔を上げ、蝋燭に照らし出されたイールの顔を崇めた。
したたかなイールの笑顔もまた、なんと美しいのだろう…と、ルシファーは言葉の意味も考えずに、ただ見惚れていた。