Brilliant Crown 4
4.
思い通りの幻想に生き続ける世界は、夢のように幸福だろうか。
悪夢のように絶望し続けるのだろうか。
どちらにしても、俺はそれを選択しないだろう。
なんにしても、現世は面白い。
それに目を閉じるなど、勿体ないじゃないか。
凍てついた夜の森。
木々の間から漏れる月の光が、枯葉の苗床を薄らと反射し、イールの素足をも白く浮かび上がらせた。
太い楡の枝に浮いたままに腰を下ろしたアスタロトがいる。
ほっそりとした身体には、薄い絹布のようなものを付けただけで、僅かな月明かりに裸体の輪郭が透き通って見えた。
彼の顔は月明かりの陰になっていたが、曇らぬ穏やかな笑みをイールに向けている…ように見える。
イールはその楡の幹に近づき、彼の姿を仰ぎ見た。
寝る前にアーシュが喋った幽霊の話に誘われて、夢に出てきたのだろうか…と、見上げたイールは己の両の目を指でこすった。
「これは現実なのか?それとも…その姿は亡霊なのか?」
独り言のように呟くイール。
白く浮かんだアスタロトの身体がスローモーションのように落ち、枯葉の地面に立った。
「そのどちらとでも言える。現実は…君は森を彷徨う夢遊病者だし、僕はと言えば、あの子の魔力が無意識に作り出した夢の像…幻影でしかないからね」
「…」
二歩、いや三歩歩けば届く距離であるのに、イールは目の前のアスタロトの姿を安易に信じることが出来ずにいる。
イールの気持ちを知ってか知らずか、アスタロトは薄絹の端が両足に絡まるのも構わず、腕を組んでイールの目の前をうろうろと往復し始めた。
「と、言うか…イールは案外冷酷なんだよなあ。あの子がここ(クナーアン)に現れてから、僕を呼んでくれなくなったね。…この浮気者」
立ち止まり横目で睨みつけるアスタロトを懐かしむ暇も与えないほどに、イールの感情は逆撫でられた。
「君…アーシュ、おまえ…おまえ、そんなことを言う為に…私の前にその姿を現したとは言わないだろうね!おまえが居なくなって、私がどれだけ…どれだけ苦しんだと思うんだっ!」
イールは思わず掲げた己の拳にはっとした。
(こんな風に感情を吐き出すのは、何時の時以来だった?私をこんな感情にさせるのは…おまえしかいない)
イールの激昂に少し面食らったアスタロトは、正面を向き、少し黙り込んだあと、神妙な顔でイールを見つめた。
「イールが怒るのは尤もだ。全部僕が悪い。今、君の前に姿を見せたのは…なんと言うか、さ…君に謝りたかった。君を心配させ悲しませたこと、長い間ひとりにさせてしまったこと、勝手に僕ひとりが人間になってしまったこと…まあ、これについては、生まれ変わったアーシュは完璧に僕の遺伝子を受け継いでいるから大成功だ。僕は満足してる。でもまあ…記憶がねえ…生まれ変わったあの子の脳に刻まれなかったから、すぐに戻れなかったの。ごめんね」
「…」
「でも、ほら、ちゃんとイールの元に戻れて、クナーアンの神としても一応役目を果たしているし…結果オーライでいいんじゃない?」
「なに能天気晒しているんだよっ!バカアーシュ!いいわけないだろっ!」
「…イール…」
「おまえではない…あの子はおまえじゃない。私が一緒に生きてきた、愛し合ったのは…おまえだけだ…」
「…うん」
「なぜ…ひとりで人間になろうとした?すべてが…消えてしまう可能性だってあったはずだ。おまえはその危険を冒してまで自分に魔法をかけ、人間に生まれ変わってしまった。アーシュ…私がおまえを追いつめたのか?私がもっとおまえを理解し、その苦しみを分かち合ったのなら、おまえはその選択をしなかったのではないのか?」
「勘違いも甚だしい。君は僕と生きた日々を後悔しているの?僕が君に寄せた想いを疑っているの?僕の運命が君であった幸福を疑うの?…イールが悔やむことなんてひとつもないよ。僕は僕の意志で人間になることを選んだのだし、死んではいないし、生まれ変わっても君を愛していると誓うよ。僕と一緒に生きた記憶を分かち合う者が居ないのは寂しいかもしれないけどね、あの子は僕だよ。君の恋人だよ。僕らの思い出を分かち合いたいのなら、君がひとつずつあの子に語り聞かせればいいじゃないか。僕はあの子の中で、うっとりと君の話に聞き入っているからさ」
「アーシュ…」
「まあ、なんにしても、僕はちょっと損した気分なんだ。だって、確かにあの子は僕だけど、僕の意識は別物であり、あの子が君といちゃつくのを、僕は指を噛んで眺めるしかない。あの子の中で…しかも君は、意識的にはっきりと僕とあの子を振り分けているからもっと惨めになる。妬くしかないんだよ。まあ、それは僕への罰だと思って耐えることにするよ」
今の状況を楽しむかのようなアスタロトの言い方を、イールは好まない。だが、これまでだってアスタロトの生き方のすべてを気に入ったことはなかった。
それでもそんなことは、愛し続けることになにひとつ支障は無かった。
笑って見過ごすほどに、些細なものに過ぎなかった。あの頃から…
「…多少のことなら私も寛容なんだが…今は、君の天性の暢気さを心から恨むよ。今までの私の苦悩は一体なんだったんだろうね」
「そりゃ君、君が成長するための選択した道なんだよ。振り返れば変わった花が咲いているだろうね」
「…呆れた。他人事みたいに。全部おまえの所為なのに」
「真の愛への苦悩であれば、きっと可憐な花が咲く。その花にアスタロトを名づければいい。そして花に向かって恨み言を言え。それで浄化する」
「…」
全くもって呆れ果てる始末だ。
その呆れ果てた先に何が見えるのか…
それさえ楽しめと、アスタロトは言うのだ。
だが、イールにはそれが理解できた。
だからこそアスタロトを愛し続けてこれたのだ。
「ふふ、やはりアーシュはアーシュなのだな。…いつだって私は君には敵わない」
「イール…僕の方こそ、君を超えたことなど一度もないよ」
アスタロトは手を伸ばし、その指をイールの髪に絡ますような仕草をした。だが、指はイールの巻き毛を掴むこともできず、空を切ったまま握りしめられた。
「…残念だけど、実体を持たないこの身では、君に触れることも叶わないんだ。今すぐにでもこの両手で君を抱きしめ、君の口唇に触れ、君の肌の温もりを感じたいのに…」
「アーシュ…」
「ごめん、僕は欲張りすぎたんだ。身もわきまえずに全部欲しがって、周りを混乱させてしまう…ゴメン」
「…それが君なんだろうね。生まれ変わった君もまた、同じだ。物語の中心はいつもあの子だよ。でも私はあの子が大好きなんだ。…君を想うように…」
「…うん。ありがとう、イール。生まれ変わった僕を、同じように愛してくれて。だけど、人間となった僕の運命はそう長くない。その意味はわかるね?」
「…わかっている」
「君が不死を望むのなら、天の皇尊に頼めばなんとかしてくれるだろうけれど…」
「何度も言わせるな。私の命はおまえと共にある。今は生まれ変わったあの子と共にあるのなら人間としてのあの子の死が、私の死でもある。他の選択肢は一切ないし、それが私の望みだ」
「わかったよ、イール。…彼の地はこの平穏なクナーアンと違い、色々と問題も山積みで、それをあの子は一手に引き受けようとする大馬鹿者でもある。人間としての運命は短く、君と過ごす時間も短い。それでも君に頼みたい。あの子を…アーシュを見守って欲しい」
「私のすべてを賭して、アーシュを愛し続けるよ。私の永遠の恋人は、アーシュ…君なのだから」
アスタロトの肩を抱くように手を伸ばしてみても、イールの指はアスタロトの身体を通り抜ける。わかっているのにこんなに虚しいなんて…
イールは諦める事もできず、アスタロトの顔を指で、手で、見えるままの輪郭のままに撫でた。
そんなイールに、アスタロトは嬉しそうに笑う。
「…良かった。今夜君と話せて。ずっとこういう時を待っていたんだ。でもクナーアンと彼の地では離れすぎて、君を呼んでも全く届かず、しかもあの子は人間の恋人と愛し合う始末でさ。魔力の指輪もつい最近戻ってきたから、なんとかこうして君に会うことが出来たんだ。ほんとラッキーだったよ」
「…アーシュに言わなければならないことがある。私は…何度もおまえを殺そうとした。天の皇尊から頂いたミセリコルデで…この胸を刺そうとした。そうすればどこかで生きているおまえと共に死ねるはずだと…」
「そうしても良かったんだよ、イール。僕の命も君に委ねられていた運命だった。だから君が死を願えば、僕は死んでも構わなかった」
「…」
「でも、そうしなかった君を誇りに思う。あの子の為にも…礼を言うよ、イール。ありがとう、一緒に生きていく運命を選んでくれて」
「ああ、アーシュ…アーシュ」
(長年積もった私の苦しみを、アーシュは簡単に溶かしてしまう。いつだってアーシュは私を許してくれていた…私を救ってくれた…)
瞬きする度に落ちるイールの涙を、アスタロトの指が拭いた。不思議なことに涙はアスタロトの指を濡らしていた。
アスタロトは濡れた指先を自分の口唇に当て、舐めた。
「イールの涙は甘いね。僕への愛と同じだ」
「私を泣かすおまえが…憎らしい」
精一杯の意地で、イールは返した。
「ねえ、イール。終わりのない未来を恋しいと思うかい?」
あの時とは違う穏やかな笑みを浮かべて、アスタロトが言う同じ言葉を、イールもまた、あの時とは違う思いで応えることができる。
「…アーシュ、君と共にあらば、私の世界は美しくあり続けるだろう…」
ふたりは同時に衣を脱ぎ捨て、裸になり、身体を寄せあい、指を絡ませ、そっと口づけた。
幻影のそれは、温もりも実感も何ひとつない交わりであった。
だが、アスタロトのもたらすひとつひとつの愛撫が、イールの肌をそそり立たせ、得も言えぬ恍惚感に身を震わせたのだった。
ふたりは酷い陶酔感に溺れ、冷たい寝床にぐったりと横になった。
不意にアスタロトは起き上がり、疲労に沈み込んだイールを見下ろした。
アスタロトの姿は先程とは違い、半分が透き通り、腰から下は消えかかっていた。
イールは訝しり、上半身を起こした。
「アーシュ…君、身体が…」
「もう、君の前に姿を見せることはないからね」
「何故?」
「僕は…君の心の傷だからだ。残念だけど、君に刻み込まれた心の傷は、たった今、完全に浄化されてしまった。これから君は僕を思って泣くことはないんだよ」
アスタロトは足音もなく、イールを見据えたまま、その身を後ずらせた。
イールは枯葉に座ったまま、消えかかったアスタロトを目を凝らして見つめた。
イールは驚かなかった。彼がそうなることは、なんとなく予想していた。
「…だからおまえは単純だと言うのだ。…おまえへの恨みつらみが、簡単に消えるものか」
「それは、痛みじゃなくて、惚気だよ。文句はあの子に言え。僕はあの子なんだからね」
「…そうしなければならないことが…痛いよ」
「僕への甘い残像だ、嬉しいよ、イール…」
最後まで本音と冗句を重ねる悪趣味は治らないのだな…と、イールは苦笑した。
「じゃあ、ね、イール。死ぬまで君を見つめているから」
「アーシュ…愛している」
「ふふ、知ってる」
ふたつの満月に重なるアスタロトの姿は、次第に薄れ、そして消えていった。
最後までイールを見つめたまま、慈しみの笑顔のまま、アスタロトはイールの前から消えてしまったのだ。
目を覚ましたイールは冷たくなった自分の身体を抱きしめたまま、泣き続けていた。
「最後までおまえは嘘つきだなあ…。ファントムペインは消えても、涙が止まらないよ…ねえ、アーシュ、止まらないんだ…」




