Brilliant Crown 3
3.
君の名を呼ぶ
眠り姫のように目を閉じたまま
手を伸ばしても届かない君を
僕は(私は)呼び続ける
ねえ、どんなに時が経とうとも
僕らの(私たちの)生きた時間は
思い出にはならないんだ…
「すげえ!風波ってこんなに激しく打つの?知らなかった~。うわ、飛沫が気持ちいいっ!」
激しく岩を打つ渚を、岩場のてっぺんで眺めるアーシュは、感嘆の声を上げる。
「あまり近づくと足をすくわれるぞ」
繋いだ手を精一杯伸ばし、岩の先端から身を乗り出して下を覗くアーシュを気遣うイールだが、本気で心配などはしていない。
海もまた神の領域であり、もし波にさらわれたとしても、アーシュが危険に冒される事態にはならないとわかりきっている。
「俺、こんなに近くで海を見るのって生まれて初めてかもしれない。あ、海龍の影が見えたっ!挨拶に行ってもいい?」
アーシュはイールの返事も聞かずに、繋いだ手を振り切って、そのまま荒れ狂う海の中へ飛び込んだ。
しばらくすると、激しい波しぶきに煽られ、海龍の背に乗ったアーシュが海の中から飛び出てきた。
「うわあ!イールっ!海って滅茶苦茶しょっぱいんだよっ!不思議だ!」
冬も近い冷たい海水にずぶ濡れになりながら、子供のようにはしゃぐアーシュに、イールも呆気にとられる。
「…」
(何者をもその背に乗せることはないと伝えられる海龍に、容易く跨っているおまえの方がよっぽど不思議だろうな)
怖れを知らないとはいえ、アーシュの奔放な好奇心に、イールも呆れるばかりだが、そんなアーシュが愛おしくてならない。
イールは自分に問う。
アスタロトもまたアーシュと同じように海龍と戯れ、こうして感嘆の声を上げていたのだろうか…と。
今まで「天の王」学園内だけで生きてきたアーシュには、ヒナが巣を飛び立ち、初めて外の世界を見下ろしていると同じなのであろう。
クナーアンの何処へ足を運んでも、初めて見るものばかりで、目に映るもの何もかもが驚きと感動の連続だった。
しかも、彼はこの世界では民衆の信仰の宗主たる神であり、アーシュにとっての社会科勉強は世作りの為の行幸でもあるのだ。
「ねえ、イール、俺は自分の育った街のしくみも良く理解できてないけどさ、このクナーアンのそれぞれの土地は誰が仕切っているの?政治の規律とか税の仕組みとかさ」
「その土地で多少違いがあるだろうが、税の負担も民の稼ぎによって異なる。払えなければ公共の工事などで働けばよいし、貨幣でなくても作物でも製品でも構わないんだ。大方の政治は神官たちが管理している」
「神官って、神殿の?」
「神殿にいる神官は僅かなものだよ。神官は神殿に従事するだけではないんだ。神殿の裏門を出ると沢山の建物があるだろう?あれらは学問所だよ。最初は親が居ない子供や捨てられた子供の世話をしていたのだが、成長して神官になりたがる者が多くてね。神に近い場所で暮らすことになるから、精神も正しく導かれる。だから彼らに教育者になってもらい、クナーアンの色々な都市や町の管理をさせているんだ。もし何かあったら、彼らの意思疎通も簡単にできるからね」
「イールが?」
「そうだよ。アーシュの星では魔力を使う者は多いと聞いたが、このクナーアンにはあまり存在しない。ルシファーは珍しい能力者だったね。だからアーシュが彼を選んだのだろうけれど…」
「うん」
「神官たちも私たち神に見守られているから、強い誘惑や悪行にも染まらないんだ。…アスタロトは暇を見つけては神官たちの様子を見守る為に、地上へ降りていたが、この何百年、神殿で育った者が悪行をした形跡はない。だが、いつの時代にも彼らが万全に揃っているわけではない。彼らの管理がその土地に行き届かなくなると、戦争が起きる。それもまた人間世界の宿命だともいえる」
「人々が殺されていくのを、神さまは見てるだけなの?」
「彼らが望むものが戦いであるなら、やむを得ない。しかも人間はそれを本能で楽しんでいるのだからな。愚行ではあるが、必要悪なのかもしれない…」
「必要悪か…戦争が歴史を変えるとは言うけれど、多くの死によって良い方向へ導くのなら、『悪行』だとは言えない…ってことだよね」
「歴史とは善悪ですらない。ただ足跡が残るだけ。美しいかそうでないか、見る者が決めるのだ…アーシュが私に残した言葉だった…」
無意識に放たれる言葉の数々が、アスタロトのものであり、イール自身それを口にすることで、また新たにアスタロトを失った寂しさを感じるのだ。
「…さみしい?アーシュが居ないと」
暗い顔を見せたイールを気遣うアーシュを心配させる自身が嫌になる。
(生きた年月を比べようもない程幼いこの子に、私が気を遣わせてどうする。この子を導くのが私の果たす役目ではないか)
「大丈夫だよ、アーシュ。今はおまえが居てくれる。私は満ち足りている」
ふたりの旅が日々を追うごとに、段々と秋は深まっていく。
山に海に平地に、豊穣の恵みを与えつつ、イールとアーシュはお互いの愛をより深めることを求めた、
色とりどりの落ち葉が重なった森の木陰に寝転がり、ふたり重なったまま、ゆらめいた翳を落とす光の模様を楽しんだ。
お互いの肌を指先で触れ、余すことのない肉体で確かめ、愛していると何度も告げ、ふたりはゆるぎない愛を確認する。
イールとのアーシュの愛は快楽を伴わなければならない。
交わり、繋がり、求め、昂揚し、満ち足りなければならない。
境界線がわからなくなるほど、狂わなければならない。
冬眠に備えて餌を求める動物たちは、神の愛撫を覗き、見惚れ、愛の空間に漂う。
彼らは幸福の観念を知るのだ。
身体を繋ぎ、愛欲を貪るふたりを咎めるものは、このクナーアンには存在しないのだから。
クナーアンの惑星に、冬が近づく。
収穫が終わった大地には、天の衣が白く覆いかぶさる。
だが人々も大地も寒さに恐れおののいたりはしない。
凍てついた大気は、心を凍らせるものではなく、春に芽吹くための養分を保つ為に、深い眠りを誘っているのだ。
森林もまた裸になった木の肌を冷気に晒し、積雪に白く輝く土を見守り、生き物も春を夢見て眠りにつく。
寒さをしのげる縦になった洞穴にもぐり、イールとアーシュは一夜を過ごすことにした。
アーシュの豊穣の神としての初めての仕事も終わりに近かった。
この頃になると神殿から遠く離れたクナーアンの僻地へ向かう事が多く、一日、二日での往復は難しく、神殿を発って四、五日帰らない時もあった。
「携帯魔方陣を使えば、楽に帰れるじゃん」と、理にかなった事を言うアーシュは馬鹿だ。
「私とおまえの愛の行幸でもあるのだ。余韻も味わえないテレポートなんてつまらない」
イールはつくづくロマンチストだとアーシュは笑う。
だが、イールにはアーシュと過ごす一瞬一瞬がなにか大切な時のような気がするのだ。だから例えただ空を飛ぶだけだとしても、アーシュの様々な表情を一瞬たりとも見逃したりしたくはないのだった。
ふたりは十分愛し合った後、寄せ合った身体をマントで包み、互いの身体を温めあうように枯葉のベッドに横になった。
「この旅が終わればアーシュの仕事もひと段落だよ。豊穣の神としてよく役目を果たしてくれたね。クナーアンのすべてを代表して心からお礼を言う」
「こんな状態で改まって礼なんか言わないでよ。俺はやらなきゃならないことを為しただけだよ。それも全部イールの教えがあったからこそできたわけじゃん」
「それでも礼を言わせてくれ。おまえの魔力のおかげでクナーアンのすべての生あるものが満ち足りた歓喜の声を上げている。…春が来るのが待ち遠しいと胸を躍らせている」
「生きるものもあれば死ぬものもあるけどね…」
アーシュはしんみりと答えた。
アーシュが旅で見たものは人々の喜ぶ顔だけではない。
生き延びるための弱肉強食の様をアーシュは目の当たりにした。動物園にさえ行ったことのないアーシュは生と死のひしめく場面に凍りついた。生きるもの、死に絶えるものの前には、アーシュの恩恵など関係ないように思えた。
「人の死も初めて見たよ。人の死と獣の死の違いはなんだろうね」
「違いはないよ。死はこの世から消えることだからね」
「…」
ふたりは互いを見つめたまま黙り込んだ。
「死」は、ふたりをそれぞれの想いへ誘うキーワードとなる。
「…でも、良かったよ。…俺は、何の為に特別な力を持って生まれたのかを、今までずっと問い続けていたんだ。神として生まれたなんて、まるで御伽話だけど、まるで信じられないことだらけだけど、イールがいたから信じられた。できることをやってのけた。でもまだこれで終わりじゃないってわかっている。俺は死ぬまでクナーアンの神なんだから」
「アーシュ、おまえは…これからどうするつもりなのだ?」
「え?」
アーシュの巻き毛を指に絡めるのはイールの癖だ。彼は一本ずつ指を互い違いにしながら絡め捕って楽しむのだ。
「春が来るまでは私たちの仕事もひと休みだ。クナーアンの神としての務めも一年中忙しいわけではない。役目を果たせば、おまえが何をしようと自由だ」
「俺はもうお払い箱ってこと?」
「ばか、そうじゃない。私は…いや、おまえの意志を聞いているんだ。ルシファーやおまえの大切な友人や向こうで待っている人たちはおまえを求めている。勿論私もだよ。だが私は、アーシュの意志を聞きたいんだ。誰かの為ではなく、アーシュ自身の為に生きる道を、聞かせて欲しい」
「俺自身の為に生きる道?」
「そうだよ。アーシュはクナーアンの神という責任を負っている。それだけでも重責なのに、人の為にとばかり動いていないか?確かに秀でた魔力で人を救うことは意義がある。だが、私はおまえに自分の幸せを考えてもらいたいのだ」
「俺、自分が不幸だなんて思ったことないし、自分がやってることが救済だなんておこがましいし…全部自分の為だよ。自分のやりたいことだよ。セキレイやベルやメルを幸せにしたいって事も、イールとこうしてセックスしてることも全部俺が選んでいるんだ。好きな人の為に、精一杯尽くすことは役目じゃないよ。俺の意志だよ」
「…」
「イールだってアスタロトの為に生きてきたし、俺のために一緒に死ぬって言ってくれたじゃん。それを選んでいるじゃん。それは間違っているの?イール自身の為にアスタロトを愛しているんだろう?」
アーシュの誠実な言葉は心を打つ。それは、イールの心を抉るような強烈さで打ちのめすのだ。
「アーシュ、私は…今更ながら考えることがある。私のアスタロトへの愛が…彼の重荷になったかもしれない…と。私はね、この二カ月間、おまえとクナーアンをくまなく旅して、とても楽しかったのだ。この上もなく嬉しかったのだよ…私はアスタロトとこのような時を過ごしたことはなかった。千年以上もの間、愛し合い信頼した者同士だ。相手を倦む時もあるだろう。だが、私はアスタロト…アーシュだけを求め続けた。それが重荷になることを知らなかったわけじゃない、だが私は…」
イールは上半身を起こし、裸のままの肩に上着を羽織った。
アーシュは横になったまま、イールを仰ぎ見た。イールは安心させるようにアーシュの頬を撫で、微笑んだ。
「すべては私の精神が脆弱だったからだ。昔…私とアーシュが神の役割を果たす時から、私にはアーシュが憧れだった。彼が私の恋人であることが何よりも幸福であり、すべてだった。アーシュは民に愛される神であったから、私は逆の立場を取り、畏怖される神であることを選んだ。…いや、そうじゃない。私はただアーシュが好奇心に溺れて、他の者に目移りするのを見るのが嫌だっただけだ。嫉妬心にかられた私を見られたくなかっただけだ。アーシュは純粋に私を愛してくれていた。…あんなに私を愛してくれていたのに、私はアーシュの苦しみを理解していなかった。もっと傍にいて、色んなものを見て、共に楽しめば良かった。アーシュが死を求めずにいられるほどに、心を慰めてやれば良かったんだ…私は自分が情けない。私の愛がアーシュを苦しめ、そしてまた生まれ変わったおまえまで、がんじがらめにしようとしているんだ…」
自分を詰り、悔し涙を落とすイールの手を取り、アーシュは強く握りしめた。その腰にしがみつき。両腕で抱きしめた。
「イール、俺、少しもきつくない。イールがどんなに俺を縛り付けても、俺は知ってるもの。それがあなたの『真の愛』ってことをね。アスタロトも一緒だ。だって俺がアスタロトなのだから」
「…アーシュ」
「俺は愛されるのが好きなんだ。絶対幸せにしてやるって心に決める。全部だ。そう全部…。イールも強くならなきゃ駄目だ。アスタロトはあなたを本当に愛していたんだから」
「…」
「ねえ、俺、向こうでアスタロトの友達に会ったよ。アルネマール伯爵っていうとっくに亡くなった幽霊なんだけどさ。彼はアスタロトをレヴィと呼び、伯爵が死ぬまでよく会いに来てたって」
「伯爵の話は、アーシュからよく聞いていた。気前よく私にも色々と贈り物をくれたものだ。ふたりの仲が良すぎて妬いたこともあったが…幽霊とは死んだ者の霊なのだろう?よくおまえに会えたものだな」
「伯爵はベルの先祖なんだよ。え~と五代前ぐらいかな。どことなく似ている感じはする」
「だからアーシュもベルが気に入ったのだな」
「そうかもしれないね。で、その伯爵の幽霊が言うのさ。アスタロトは恋人のイールに相当にいかれているって」
「…」
「俺はその時初めてイールの存在を知った。運命の恋人であるあなたの存在…すごく興奮したよ。『イール、イール』と、あなたの名前を何度も繰り返した。繰り返すたびに心が震えた。もし、俺がアスタロトの生まれ変わりで、長い間、この人を待たせているとしたら、どんなに寂しがっているだろう。一刻も早く会いに行かなければならないって…決意したんだ。アスタロトの生まれ変わりでなければ、イールの存在なんて俺は何も思わなかっただろう。…俺はアスタロトの想いを受け取っていると思う。アスタロトは今でもあなたを愛している、絶対に」
「…そうだな」
腰に抱きつくアーシュの顔を、両手で支え、イールは深く口づけた。
アーシュは満足げに笑った。
「アスタロトはきっと後悔しているよ。イールを俺に捕られてさ」
その夜、イールは懐かしい声に眠りから覚め、横に眠るアーシュを置いて、洞穴から抜け出した。
冴えた二つの満月が、雲一つない夜天の頂上に白く輝いていた。
「イール、やっと会えたね」
「アーシュ…」
別れた時と変わらぬ笑顔で、アスタロト…アーシュは月光に浮かんだ姿をイールに見せた。