私語厳禁
「うわっ! これ! おいし——」
客が咽を鳴らして麺を啜ると、感嘆の声を上げた。
旨い。声を上げずにはいられない。思わず漏れた、そんな驚きの声だ。
「うるせぇっ! 黙って食いやがれ!」
だが、それを皆まで言わせず、店の主が怒鳴りつけた。耳まで真っ赤な形相だ。それこそ顔で麺でも茹でられそうだ。
「『私語厳禁』の張り紙が、目に入らねぇのか!」
薄汚れたラーメン店に、店の主の怒号が響き渡る。夫婦二人で切り盛りする店だ。
味にこだわるこの店の主は、その邪魔になる客のおしゃべりが許せなかった。すぐに頭にくる。その為雑談はおろか、感想すら許さない。
「す、すいません……」
客は思わず頭を下げる。
確かに無言で食べろと、事前に注意を受けていた。店のあちこちに、『私語厳禁』の張り紙もしてある。だが思わず声が出た。
「うるせぇーってのが、分からねぇのか!」
主はそう叫ぶや否や、カウンターをくぐって客席に向かう。主は謝罪すら許さない。
「お代はいらねぇ!」
と、主は悲鳴すら上げるその客を追い出してしまった。
他の客は互いに目配せし、無言で笑いあって、小さく肩をすくめた。
「お父さん。謝ってる人にまで——」
「あぁん」
店じまいの後、妻の衷心からの意見を、主は途中で遮った。『私語厳禁』だけは、どうしても譲れないからだ。
「おいしいって、言ってるだけだよ。あんた」
「俺のラーメンは、旨いに決まってんだろ! 食ってる時に、私語なんてする暇あるかっての。全身全霊で味わいやがれってんだ!」
「そんな…… お客さんが可哀想だよ」
「可哀想? こちらの指示が守れねぇなら、味わってくれなくって結構だ! あの常連さんを見習いやがれって! あれこそ客の鑑だね! あの客一人で満足だ! 俺はよ!」
主はそう言うと、一人の常連客を思い出した。主と年も近そうな老紳士だ。
いつも無言で入ってきて、静かに席につく。黙ってメニューを指差して注文すると、一言も発せずに食べ切り、喜色満面で静かに会釈して出ていく。主の理想の客そのものだ。
「客ってのは、ああでなくっちゃな!」
「でも。おかげで孫も店に寄りつきませんし」
「ま、孫? そりゃ…… おめぇ……」
孫の話を出されては、さすがに主も言い淀んでしまう。主はバツが悪そうに、顔をそらした。
ある日の閉店間際。残り一食というところで、例の老紳士が来店した。
妻は店を主に任せ、買い物に出かけてしまった。店には主と、老紳士が残された。
老紳士は今日もまた、黙って麺に舌鼓を打っている。その姿に主はついつい頬が緩む。
この紳士に、主は友人のような親近感を持ち始めている。常連客でも、話しかけるということはしないので、実際のところ親しい客はあまりいなかった。
老紳士は、今日もいい笑顔で食べきった。満足という言葉が、顔にでも書いてあるかのような、そんな食べっぷりだ。
だから珍しくもつい、主は老紳士に自分から話しかけた。
「お客さん。いや失礼。突然話しかけて申し訳ない。『私語厳禁』だ。『うるせぇ』『黙って食え』なんて、日ごろ散々偉そうにしている私が、この店で話しかけては示しがつかねぇ。範を示せねぇ。軟弱者だと、怒られるとは思います。ですが、今日ばかりはご容赦を。いえね。つれあいの奴がうるさくってね。黙って食えなんて、何様だ。お客さんが可哀想だ。孫も寄りつかない。頑固一徹をはき違えている。そう言うんですよ。ですがお客さんは初めての来店以来、ずっと『私語厳禁』を貫いて下さっている。私の思いを分かって下さっている。ですんでここは敢えて、あなたにお聞きしたい。私はあなたの食べっぷりにも、ほれ込んでいましてね。ええ、あなは、私の味を分かって下さっている。声に出さずとも、うまいと言って下っている。言ってみれば誰よりも雄弁だ。ありがたいお客様だ。いや同志だ。そう頑固一徹な同志と見込んで、ちょいと一つ意見を聞かせて下さいませんか? やっぱり『うまいうまい』と言いながら、食べたいもんですかね。お客さんは?」
老紳士はニコッと微笑んで、財布から古びた紙片を取り出した。何度も人に見せている。そんな感じの紙面には、こう書いてあった。
『今日は。失礼。私は口が不自由でして』
主は翌日『私語厳禁』の紙を破いて棄てた。




