詐病ですか? 大変ですわ、婚約診断書を提出いたします
「ミレーヌがご病気? 大変ですわ。では診断書を拝見しても?」
私がそう申し上げた瞬間、婚約者のヴィクトル様は、まるで私が王宮の噴水に毒でも流したかのような顔をした。
「レティシア。君は本当に冷たいな」
いつもの言葉だった。
私は微笑んだ。
もう、慣れていた。
「冷たいのではなく、確認しているだけですわ」
「確認、確認、確認。君はいつもそればかりだ」
ヴィクトル様は額に手を当て、深くため息をついた。
見せるためのため息だった。
王宮の小広間には、私とヴィクトル様のほかに、数名の侍女と、招待客が3組。
そして、入り口の柱のそばに、黒髪の青年が一人立っていた。
銀縁眼鏡をかけた、王立医療法院の監査医。
ルシアン・ヴァロワ卿。
3年前、王立図書館で1度だけ言葉を交わした方だ。
私が礼法書と医療法典を同時に抱えて転びかけたとき、片手で本を受け止め、もう片方の手で私を支えてくださった。
そのとき彼は、無表情でこう言った。
「重いものを一人で抱える癖は、早死にの一因です」
褒め言葉ではなかった。
けれど、私の胸には妙に残った。
今日の彼も、同じ無表情だった。
ただし、なぜか少しだけ楽しそうにも見えた。
「ヴィクトル様」
私は婚約者へ視線を戻した。
「本日は私との婚約式の打ち合わせです。けれど、先ほどからミレーヌ様のご容体を理由に、3度も中座なさいました」
「だから、それがどうした」
「3度のうち2度は、ミレーヌ様ご本人が庭園でマカロンを召し上がっておいででした」
「病弱な子だって菓子ぐらい食べる」
「はい。お菓子は構いません。ただ、発作の直後に5段積みのマカロン塔を完食できる病名を、私は存じ上げません」
小広間の隅で、侍女が小さく咳き込んだ。
たぶん笑いを堪えたのだと思う。
ヴィクトル様の顔が赤くなった。
「君は性格が悪い!」
「性格ではなく、消化器の話です」
「そういうところだ!」
私は扇を閉じた。
ぱちり、と乾いた音が響く。
「では伺います。ミレーヌ様の主治医はどなたですか」
「……それは」
「診断名は」
「君には関係ない」
「婚約者である私との公式予定を破る理由に使われております。関係はございます」
「彼女は繊細なんだ!」
「繊細と病弱は、同義ではございません」
また、沈黙。
ヴィクトル様は、昔からこうだった。
自分が優しいと思いたい相手には、とても優しい。
けれど、その優しさを支えるために誰かを踏むことを、優しさの勘定に入れない。
私は5年、婚約者だった。
13歳で婚約してから18歳の今日まで、私は彼の予定を整え、領地視察の資料を作り、王宮行事での失言を未然に防ぎ、ミレーヌ様が倒れたと聞けば馬車も医師も手配した。
それでも彼は、私を冷たいと言った。
ミレーヌ様の手を握る自分は優しく、医師を呼ぶ私のことは冷たい女だと。
面白い。
そろそろ笑ってしまいそうだった。
「レティシア」
ヴィクトル様は私を睨んだ。
「君がそうやってミレーヌを責めるなら、僕は考えなければならない」
「何をでしょう」
「婚約の継続をだ」
小広間が静まり返った。
私は一度だけ瞬きをした。
それから、丁寧に頭を下げた。
「承知いたしました」
「……は?」
ヴィクトル様が間の抜けた声を出した。
「今、承知いたしました、と申し上げました」
「いや、普通は止めるだろう」
「なぜですか?」
「なぜって……僕が婚約を考え直すと言っているんだぞ」
「はい。ですから、考え直すための書類を提出いたします」
私は侍女に目配せした。
侍女は銀盆を持って進み出る。
その上には、白百合の押し花を挟んだ1枚の書類があった。
王立医療法院指定。
婚約診断申請書。
貴族同士の婚約において、病気・障害・長期療養・介護義務・看病義務を理由に一方の権利が著しく侵害される場合、婚約者または後見人は第三者診断を申請できる。
もちろん、本来は病弱な婚約者本人を守るための制度だ。
だが、病を理由に別の婚約者を振り回す者を止めるためにも使える。
制度とは、正しく読めば、弱い者だけでなく、黙らされていた者も守る。
「こちらへご署名を」
「何だ、これは」
「婚約診断書です」
「そんなもの、聞いたことがない!」
「でしょうね。ヴィクトル様は、契約書も礼法書も、署名欄以外はあまりお読みになりませんもの」
また侍女が咳き込んだ。
ルシアン卿が、柱のそばで眼鏡を押し上げた。
その口元が、ほんのわずかに上がっていた。
「レティシア!」
「はい」
「僕を侮辱するのか!」
「いいえ」
私は、彼の前へ書類を差し出した。
「ご安心くださいませ。医療法院の監査医も、本日いらしております」
その瞬間、ヴィクトル様の視線が柱のそばへ飛んだ。
ルシアン卿が一礼した。
「王立医療法院監査医、ルシアン・ヴァロワです。本日はオルグレン公爵家より、婚約診断に関する事前調査を拝命しております」
「なぜ医療法院が!」
「ご病気と伺いましたので」
ルシアン卿は穏やかに言った。
「王国の医療に関わることです。喜んで」
喜んで。
その言い方があまりにも真顔だったので、小広間の空気が妙な方向へ揺れた。
ヴィクトル様は一歩退いた。
「ミレーヌは本当に弱いんだ!」
「なるほど」
ルシアン卿は手帳を開いた。
「では、症状をお聞かせください」
「胸が苦しくなる」
「発症時刻は」
「……僕がレティシアと予定を入れているときが多い」
「興味深い」
「何がだ!」
「選択性が高い」
ルシアン卿は真面目な顔で記録した。
「婚約者と被申請者が会話する予定に対してのみ高頻度で発作を起こす。舞踏、観劇、菓子摂取、深夜の庭園散歩では症状が軽快する」
「嫌味か!」
「診断です」
「まだ診断していないだろう!」
「予診です」
駄目だった。
私は扇で口元を隠した。
笑ってはいけない。
婚約者が怒っている。
病弱な幼馴染の話である。
笑ってはいけない。
けれど、ルシアン卿の真顔があまりに強い。
「ヴィクトル様」
私はどうにか声を整えた。
「ミレーヌ様のためにも、正しい診断を受けましょう。もし本当にご病気なら、王立医療法院から療養支援が出ます」
「ミレーヌは見世物じゃない!」
「診断は見世物ではございません」
「君は、彼女が嘘をついていると言いたいのか!」
「私は一度もそう申しておりません」
私は、書類の白百合の押し花に触れた。
白百合。
病室に置かれる花。
清らかさの象徴。
けれど、私は昔から少し苦手だった。
白すぎるものは、汚れを他人に押しつけるとき、とても便利だから。
「私はただ、記録を確認したいだけです」
ヴィクトル様は書類を睨みつけた。
その目には怒りがあった。
だが、少しだけ焦りもあった。
「……分かった。署名すればいいんだろう」
「ありがとうございます」
「これでミレーヌが本当に病気だと分かったら、君は彼女に謝れ」
「もちろんです」
私は微笑んだ。
「その場合は、私が公的に謝罪いたします」
ヴィクトル様は勝ち誇った顔で羽ペンを取った。
さらさらと署名する。
彼はいつも、署名が早い。
中身を読まないからだ。
ルシアン卿が、書類を受け取った。
「確かに。では、これより正式調査に入ります」
「すぐ終わるだろう」
ヴィクトル様は鼻で笑った。
「ミレーヌは繊細なだけだ。病名なんてなくても、僕には分かる」
「病名がないのに病人扱いをなさったのですか」
ルシアン卿が首を傾げた。
「それは、わりと危険な発言です」
「何がだ」
「医療詐称、または未診断者への不適切介入です」
「……何だそれは」
「平たく申しますと」
ルシアン卿は少し考えた。
「善意の顔をした迷惑です」
今度こそ、侍女がはっきり噴き出した。
ヴィクトル様が怒鳴る前に、扉が開いた。
薄桃色のドレスを着たミレーヌ様が、小走りで入ってくる。
頬は薔薇色。
唇は艶やか。
腕には、庭園で摘んだばかりらしい白百合が抱かれていた。
「ヴィクトル様!」
彼女は胸を押さえた。
「苦しいの……レティシア様が、また怖いことを……」
「ミレーヌ!」
ヴィクトル様はすぐに彼女へ駆け寄った。
私は時計を見た。
発症まで、約3秒。
なかなか優秀な反応速度だ。
ルシアン卿も時計を見ていた。
「発作発生。誘因、レティシア嬢の沈黙」
「沈黙も駄目なのですか?」
私が尋ねると、ルシアン卿は真面目に頷いた。
「かなり重篤です」
「やはり」
「ええ。通常、沈黙で発作は起きません」
ミレーヌ様がこちらを見た。
初めて、私ではなくルシアン卿を見た。
「どなた……?」
「医者です」
「お医者様?」
「はい」
その瞬間、ミレーヌ様の顔から薔薇色が少し引いた。
「診察いたします。まず、脈を」
「い、今は少し落ち着きました」
「では、落ち着いた直後の脈を」
「いえ、あの」
「胸痛の部位は」
「えっと」
「痛みは刺すような痛みですか、締めつけるような痛みですか、ヴィクトル様がこちらを見ると強くなる痛みですか」
「最後のは何ですの!?」
「症例確認です」
ミレーヌ様は困ったようにヴィクトル様の袖を握った。
「怖いわ、ヴィクトル様」
「ルシアン卿、彼女を怯えさせないでくれ!」
「医師を見て怯える病人はおります。ですが、質問を聞いて怯える病人は、質問の内容に心当たりがあることも多い」
「決めつけるな!」
「決めつけてはおりません」
ルシアン卿は、無表情で手帳を閉じた。
「ですので、正式診断を行います。3日後、王立医療法院にお越しください。検査項目は心拍、呼吸、血色、既往歴、摂食記録、歩行持久力、舞踏耐性、ならびに虚偽申告耐性です」
「最後の何ですの!?」
私も少し気になった。
ルシアン卿は淡々と答えた。
「質問に対して矛盾なく答えられるかの検査です」
「それは病気の検査なのか?」
ヴィクトル様が言うと、ルシアン卿は頷いた。
「嘘をつき続けるには体力が要りますので」
ミレーヌ様の白百合が、かさりと揺れた。
私はその音を聞きながら、静かに思った。
もう、始まったのだと。
3日後。
王立医療法院の診察室は、白い壁と青い硝子窓でできていた。
私は申請者として立ち会った。
ヴィクトル様はミレーヌ様の隣に座り、私をずっと睨んでいた。
ミレーヌ様は白百合の刺繍が入ったショールを肩に掛けている。
病弱な少女。
守られるべき幼馴染。
それが彼女の役割だった。
「では、確認いたします」
ルシアン卿の隣には、眼鏡をかけた書記官が座っていた。
名をベルナールというらしい。
彼は紙束を整え、無表情で羽ペンを構えた。
ルシアン卿が質問する。
「ミレーヌ・ロゼ嬢。あなたは過去1年間、発作により予定を中止したことがありますか」
「はい……たくさん」
「具体的には」
「覚えておりません」
「では、こちらの記録を読み上げます」
ベルナール書記官が紙をめくった。
「春月12日、ヴィクトル様とレティシア様の婚約衣装合わせ中、発作。春月20日、両家夕食会中、発作。夏月1日、レティシア様の誕生日茶会中、発作。夏月3日、ミレーヌ様、湖畔舞踏会にて7曲連続で舞踏。発作なし」
「7曲」
ルシアン卿が呟いた。
「健康ですね」
「たまたまです!」
ミレーヌ様が叫んだ。
「夏月10日、ヴィクトル様とレティシア様の慈善式典中、発作。夏月11日、ミレーヌ様、乗馬会参加。障害柵3つ越え。発作なし」
「馬にも勝つ心臓」
「言い方!」
ヴィクトル様が机を叩いた。
「彼女を侮辱するな!」
「侮辱ではありません。丈夫さの確認です」
私は膝の上で指を組んだ。
おかしい。
怒っていたはずなのに、少し笑ってしまいそうになる。
だが、笑いの奥に、冷たい疲れもあった。
私の誕生日。
父の命日。
公爵家の大事な式典。
そのたび、私は一人で頭を下げてきた。
ヴィクトル様が来られない理由を説明し、周囲の同情を受け、裏で笑われた。
婚約者に選ばれない令嬢。
病弱な幼馴染に嫉妬する冷たい女。
そう呼ばれても、私は反論しなかった。
なぜなら、反論より先に、次の予定を整えなければならなかったから。
「レティシア嬢」
ルシアン卿の声で、私は顔を上げた。
「こちらの白百合の栞は、あなたのものですね」
彼の手元には、私が申請書に挟んだ白百合の押し花があった。
「はい」
「法典の第14条に、同じ栞が挟まれていました」
私は少し驚いた。
「ご覧になったのですか」
「申請資料でしたので」
「そうでしたね」
第14条。
病名を理由とする婚約上の義務変更には、医師2名以上の署名と、双方の合意を要する。
私は何度も読んだ。
何度も、何度も。
けれど使う日が来ないようにと、願ってもいた。
「ミレーヌ嬢」
ルシアン卿は彼女へ向き直った。
「あなたの主張は、発作によりヴィクトル様の介助が必要だった、ということで間違いありませんか」
「そうですわ」
「では、発作時に最も必要だった処置は?」
「そばにいていただくことです」
「医薬ではなく?」
「心が弱る病なのです」
「診断名は?」
「……それは」
「主治医は?」
「遠方に」
「名は」
「忘れました」
「病名も主治医も忘れたが、ヴィクトル様の予定だけは正確に把握し、その予定中に発作を起こす」
ルシアン卿は一拍置いた。
「高度な病です」
「だから!」
ヴィクトル様が立ち上がった。
「彼女を馬鹿にするな!」
「馬鹿にはしておりません。むしろ、かなり知的な運用だと」
「運用!?」
ミレーヌ様が泣きそうな顔をした。
私は彼女を見た。
本当に泣きそうだった。
少なくとも、今の恐怖は本物だと思う。
けれど、それは病の恐怖ではない。
剥がされる恐怖だ。
「もういい!」
ヴィクトル様は私を指さした。
「レティシア、君の望み通りだ。婚約は破棄する!」
診察室が静まった。
ベルナール書記官の羽ペンだけが、かりかりと動く。
「今の発言は記録しました」
「何?」
ベルナール書記官は顔も上げずに言った。
「婚約破棄宣言。場所、王立医療法院診察室。証人、王立監査医ルシアン・ヴァロワ。理由、被申請者ミレーヌ・ロゼ嬢への診断追及を不服として」
「お、おい」
「なお、医療調査中の婚約破棄宣言は、調査妨害の疑いが発生します」
「待て!」
ヴィクトル様の声が裏返った。
「僕はそんなつもりで」
「署名済みの申請書により、本件は正式調査中です」
ルシアン卿が告げた。
「また、あなたは先ほど、診断名不明のミレーヌ嬢を病人として扱い、婚約者であるレティシア嬢の予定を1年間で27回破棄したことを認めました」
「27……」
私も思わず呟いた。
数えたことはあった。
けれど、他人の声で聞くと、多かった。
多すぎた。
「さらに」
ベルナール書記官が別紙を出した。
「こちらはミレーヌ嬢よりヴィクトル様へ宛てられた手紙の写しです」
ミレーヌ様の顔が白くなった。
白百合より白かった。
「なぜ、それを」
「ロゼ男爵家の侍女より提出されました」
「侍女が?」
「はい。未払い賃金3か月分と引き換えに」
ルシアン卿が静かに言った。
「賃金は払いましょう。健康以前の問題です」
ベルナール書記官が読み上げる。
「『明日はレティシア様との衣装合わせでしたわね。胸が苦しくなりそうです』」
室内が凍った。
続けて、もう1枚。
「『次の茶会はレティシア様のお誕生日でしょう? わたくし、きっと寂しくて倒れてしまうわ』」
さらに1枚。
「『ヴィクトル様が来てくださらないと、わたくし、病気になってしまいます』」
ベルナール書記官は淡々と言った。
「以上、発作予告3通。発作後報告6通。なお、同時期に菓子店への注文書17通。白百合の花束代、未払い4件」
「白百合も未払いなのですか」
私は思わず言ってしまった。
ルシアン卿が頷いた。
「花屋が最も怒っていました」
ミレーヌ様が泣き出した。
「違うの! わたくし、ただヴィクトル様が好きで!」
ヴィクトル様が彼女を見た。
その顔は、先ほどまでの正義の騎士のものではなかった。
何かを理解し始めた男の顔だった。
遅い。
けれど、理解しないよりはいいのかもしれない。
「ミレーヌ……君は」
「だって!」
ミレーヌ様は叫んだ。
「ヴィクトル様は、レティシア様といると難しい顔ばかりなさるんですもの! わたくしといると笑ってくださるのに!」
「それは……」
「レティシア様は何でもできるじゃない! 資料も、挨拶も、領地のことも、全部! 少しくらい、わたくしに譲ってくださってもいいでしょう!」
その言葉に、私は初めて眉を動かした。
「譲る?」
「そうよ!」
「婚約者との約束を?」
「だって、あなたは強いもの!」
ああ。
私は、ゆっくり息を吐いた。
強い。
便利な言葉だ。
泣かない者には、いくらでも押しつけていい。
怒鳴らない者には、いくらでも我慢させていい。
倒れない者には、倒れるまで支えさせていい。
そして倒れたとき、きっと言うのだ。
あなたが倒れるなんて思わなかった、と。
「ミレーヌ様」
私は静かに言った。
「強い者にも、予定はございます」
彼女は言葉に詰まった。
「強い者にも、誕生日はございます」
私はヴィクトル様を見た。
「強い者にも、父の命日はございます」
ヴィクトル様の顔が、さらに青くなった。
ようやく思い出したのだろう。
去年の父の一周忌。
彼は、ミレーヌ様が胸を押さえたからと、式を欠席した。
あの日、彼女は夕方には劇場にいた。
私は知っていた。
知っていて、黙っていた。
もう、その沈黙も終わりだ。
ルシアン卿が書類を閉じた。
「診断を申し上げます」
ミレーヌ様が肩を震わせた。
「ミレーヌ・ロゼ嬢に、現時点で心疾患を示す所見はありません」
ヴィクトル様が唇を噛んだ。
「一方で、虚偽の病状申告により、婚約者間の権利を侵害した疑いは濃厚です」
「そんな……!」
「ヴィクトル・エルダン卿については、未診断者を病人として扱い、婚約義務を不当に放棄した記録が27件。さらに、調査中の婚約破棄宣言」
ベルナール書記官が続けた。
「エルダン侯爵家へは、オルグレン公爵家に対する慰謝料、および式典損害金が請求可能です」
「待ってくれ、レティシア!」
ヴィクトル様が私を見た。
今さら、ようやく。
「僕は騙されていたんだ!」
ミレーヌ様が息を呑む。
私は首を傾げた。
「騙されていた?」
「ああ!」
「私が何度も、診断書を確認した方がよいと申し上げました」
「それは、君の言い方が冷たくて」
「医療法典は温めても内容が変わりません」
ルシアン卿が小さく咳をした。
たぶん笑った。
「僕は、君のことを誤解していた!」
「はい」
「君は冷たい女じゃなかった!」
「ありがとうございます」
「だから、婚約破棄は取り消す。僕たちはやり直せる」
私は少しだけ目を伏せた。
不思議なほど、心が動かなかった。
怒りもない。
悲しみも、もう遠い。
5年かけて冷めたものは、一言では戻らない。
「ヴィクトル様」
「何だい」
「破棄の取り消しには、私の同意が必要です」
「なら、同意してくれ」
「いたしません」
彼の表情が止まった。
「なぜ」
「私が、もう望んでおりませんので」
「レティシア!」
「それに」
私は、白百合の栞を見た。
押し花になった白百合は、もう病室の花ではない。
証拠になった。
「私、強い女ですから」
静かに微笑む。
「自分を大切にしない方との婚約を続けるほど、弱くはございません」
ヴィクトル様は、崩れるように椅子へ座った。
ミレーヌ様は泣いていた。
けれど、もう誰も彼女の涙に飛びつかなかった。
それが、最も残酷な罰に見えた。
1週間後。
王宮の小広間で、正式な婚約解消の確認が行われた。
エルダン侯爵家は、オルグレン公爵家へ慰謝料を支払うことになった。
ミレーヌ様のロゼ男爵家には、医療詐称による社交停止処分。
ヴィクトル様は侯爵家の継承順位を1つ下げられ、当面は北部の帳簿整理係として送られるらしい。
帳簿。
彼に最も向かない職だ。
けれど、向かないことを学ぶのも教育の一つだろう。
式の後、私は王宮の回廊で一人立ち止まった。
窓の外には、白百合の庭が広がっている。
花は悪くない。
悪いのは、花を病人の証にして、他人を黙らせようとした人たちだ。
「レティシア嬢」
背後から声がした。
ルシアン卿だった。
今日は医療法院の黒衣ではなく、夜会用の深紺の礼服を着ている。
似合っていた。
少し、困るくらいに。
「ルシアン卿。本日はありがとうございました」
「仕事です」
「それでも、助かりました」
「仕事で助けられる範囲を、3年前から広げておきました」
私は瞬きをした。
「3年前?」
ルシアン卿は、懐から小さな本を取り出した。
王立医療法典。
そして、その第14条には、白百合の栞が挟まれていた。
私のものではない。
少し古い。
けれど、同じ白百合だった。
「王立図書館で、あなたが最初に読んでいた条文です」
声が出なかった。
「婚約者の予定放棄。病名不明の幼馴染。繰り返される発作。あなたはあの日、法典を読みながら、3度、同じところで手を止めていた」
「そんなことを、覚えて……」
「はい」
ルシアン卿は、当然のように頷いた。
「あなたが本を抱えすぎて転びかけたことも、法典の角で手を切ったのに、先に本の汚れを確認したことも、私が差し出したハンカチを返すために、洗って香りを抜いてから届けてくださったことも」
胸の奥が、かすかに揺れた。
「なぜ」
「気になったので」
「3年間も?」
「はい」
「それは、少し……」
「怖いですか」
「いえ」
私は首を振った。
怖くはなかった。
ただ、知らなかった。
誰にも見られていないと思っていた。
私が黙って頭を下げた日。
一人で式典を整えた日。
父の命日に、空席の婚約者席を白い花でごまかした日。
誰も気づかないと思っていた。
気づかれなくて当然だと思っていた。
「レティシア嬢」
ルシアン卿は、静かに言った。
「あなたが冷たい女だと言われていたのは存じています」
「はい」
「けれど、冷たい人は、相手のために医師を呼びません」
私は手を握った。
「冷たい人は、相手の失言を減らすために予定表を作りません」
指先が震える。
「冷たい人は、自分をないがしろにした相手の幼馴染に、療養支援が出る制度を調べたりしません」
「……ルシアン卿」
「はい」
「もう、やめてください」
声が震えた。
それは、ひどく情けない声だった。
今日まで一度も泣かなかったのに。
怒らなかったのに。
崩れなかったのに。
こんな回廊で、たった数行の言葉に、胸がいっぱいになる。
「申し訳ありません」
「謝らないでください」
私は白百合の庭を見た。
花が滲んで見える。
「誰かに、そう言ってほしかっただけなのです」
ルシアン卿は、しばらく黙っていた。
それから、そっと一歩だけ近づいた。
近すぎず、遠すぎない距離。
私が逃げられる距離。
私が、逃げなくてもいい距離。
「では、何度でも申し上げます」
彼は真面目な顔で言った。
「あなたは冷たくありません」
私は唇を噛んだ。
「あなたは、正確です」
「そこは、少し褒め言葉として変では?」
「では、温かく正確です」
「医療器具のようですわ」
「王立医療法院では最高評価です」
私は、つい笑ってしまった。
涙が残ったまま。
ルシアン卿は、その笑いを見て、ほんの少しだけ目元を緩めた。
その顔が、とても優しかった。
「レティシア嬢」
「はい」
「本日は、医師としてではなく、一人の男として申し上げても?」
「内容によります」
「では、まず診断から」
「結局、医師ですのね」
「安心するかと思いまして」
「少しだけ」
ルシアン卿は、白百合の栞を私へ差し出した。
「レティシア・オルグレン嬢。あなたは5年間、不要な我慢を続けました。症状は、自己軽視、疲労、過剰責任、および婚約者運の悪さ」
「最後の項目、正式な診断名ですか」
「今、作りました」
「でしょうね」
「治療法は一つです」
彼は、少しだけ緊張した顔をした。
初めて見る顔だった。
「あなたを冷たいと言わない人間のそばで、よく眠り、よく笑い、好きなだけ確認すること」
私の胸が、また揺れた。
「その治療には、医療法院の紹介状が必要ですか」
「いいえ」
ルシアン卿は、私をまっすぐ見た。
「私が立候補いたします」
回廊の向こうで、ベルナール書記官が何かの紙束を抱えて歩いていた。
彼はこちらを見て、眼鏡を押し上げた。
「失礼。告白中でしたか」
「ベルナール」
ルシアン卿の声が低くなる。
「業務報告です」
「後にしろ」
「重要です。ヴィクトル卿が北部行きを拒み、『胸が苦しい』と申しております」
私は思わずルシアン卿を見た。
ルシアン卿は、完璧な無表情で言った。
「発作ですね」
ベルナール書記官が頷いた。
「はい。診断名は」
「帳簿性拒否反応」
「承知しました」
「治療法は」
「北部で3年、帳簿を読むこと」
「妥当です」
私は口元を押さえた。
駄目だ。
今度こそ笑ってしまう。
ベルナール書記官はさらに続けた。
「なお、ミレーヌ嬢も『胸が苦しい』と訴えております」
「原因は」
「花屋から未払い請求書が届いたためと思われます」
「そちらは請求書性現実発作です」
「治療法は」
「支払い」
「妥当です」
もう無理だった。
私は声を出して笑った。
回廊に、私の笑い声が響いた。
自分でも驚くほど軽い声だった。
ヴィクトル様の前では一度も出なかった声。
ミレーヌ様に奪われたわけではない。
私が、自分で閉じ込めていただけの声。
ルシアン卿は、私を見ていた。
とても静かに。
とても嬉しそうに。
「レティシア嬢」
「はい」
「今の笑顔は、記録しても?」
「医療記録ですか」
「個人的記録です」
「それは、少し恥ずかしいですわ」
「では、心に保存します」
「保存期間は?」
「終身」
私は扇で顔を隠した。
頬が熱い。
白百合の庭から、風が吹いた。
押し花になった白百合の栞が、私の手の中で小さく揺れる。
もう、病弱さの証ではない。
もう、誰かの嘘を飾る花でもない。
それは、私が私を守るために挟んだ栞で。
そして今、私を見つけてくれた人が、もう一度差し出してくれたものだった。
「ルシアン卿」
「はい」
「私、確認が多い女です」
「存じています」
「予定表も細かいです」
「拝見したいです」
「間違いは訂正します」
「ありがたいです」
「可愛げがないと、言われることも」
「その方の語彙が貧しい」
私はまた笑った。
そして、少しだけ勇気を出した。
「では、確認いたします」
「はい」
「あなたは、私に同情しているのですか」
「いいえ」
即答だった。
早すぎて、胸が跳ねた。
「あなたを尊敬しています」
ルシアン卿は言った。
「あなたを好ましく思っています」
一歩、近づく。
「あなたが笑うと、私は診断名のつかない状態になります」
「それは大変ですわ」
「ええ。発症条件は、あなたが笑うこと。症状は、心拍上昇、判断力低下、予定外の発言増加」
「重症ですの?」
「治す気がありません」
私は、白百合の栞を胸元に抱いた。
「それは、医師としていかがなものかと」
「一人の男としては、かなり正直です」
沈黙が落ちた。
けれど、もう怖い沈黙ではなかった。
誰かの発作を待つ沈黙でもない。
私を責めるための沈黙でもない。
言葉を選んでくれている沈黙だった。
「レティシア嬢」
「はい」
「今日すぐに答えをいただこうとは思いません」
「はい」
「ただ、次に白百合を見たとき、病室ではなく、今日のことを思い出していただけたら嬉しい」
私は、庭の白百合を見た。
風に揺れる花は、思ったより可愛らしかった。
「では、まず一つだけ」
「はい」
「来週、お茶をご一緒してくださいませ」
ルシアン卿の目が、わずかに見開かれた。
「私から誘う予定でした」
「予定表は早い者勝ちです」
「なるほど。勉強になります」
「それと」
私は、彼から受け取った白百合の栞を、彼の法典へ戻した。
第14条ではなく、白紙の最後のページに。
「ここから先の予定は、これから書きましょう」
ルシアン卿は、ゆっくりと微笑んだ。
本当に、珍しい笑顔だった。
「はい」
彼は私の手を取らない。
抱きしめもしない。
ただ、隣に立った。
それが今の私には、何より心地よかった。
遠くでベルナール書記官の声がする。
「ルシアン卿、ヴィクトル卿が『レティシアに会わせてくれ』と申しております」
ルシアン卿は、白百合の庭を見たまま答えた。
「診療時間外です」
「『もう一度だけ話したい』とも」
「予約が必要です」
「予約希望日は本日」
「空きは?」
「ございません」
「では不可能です」
私は笑いを堪えた。
ベルナール書記官が淡々と記録する。
「拒否理由、予約満了」
「いいえ」
私は口を挟んだ。
「拒否理由は、治療完了です」
ルシアン卿がこちらを見た。
ベルナール書記官も、眼鏡の奥で少しだけ目を細めた。
「承知しました」
彼は紙に書きつける。
「レティシア・オルグレン嬢、旧婚約に関する治療完了。再診不要」
白百合が揺れる。
私はもう一度、ルシアン卿を見た。
「来週のお茶ですが」
「はい」
「白百合は飾らないでくださいませ」
「お嫌いですか」
「いいえ」
私は微笑んだ。
「しばらくは、私自身が白百合を見るたび笑ってしまいそうですので」
ルシアン卿は真面目に頷いた。
「では、菓子はマカロンにします」
「5段積みですか」
「発作の有無を確認できます」
「誰の?」
「私の」
「発作が起きたら?」
「あなたにそばにいていただきます」
私は、扇で彼の腕を軽く叩いた。
「仮病はいけませんわ、ルシアン卿」
「では、本病にします」
「何の病ですの?」
ルシアン卿は、少し考えた。
それから、とても真面目に言った。
「レティシア嬢がいないと、少し寂しい病です」
あまりに静かな声だった。
あまりに不器用な告白だった。
だから私は、今度は隠さず笑った。
「それなら、診断書は不要ですわ」
「なぜです」
「私にも、同じ症状が出そうですから」
ルシアン卿は、完全に固まった。
ベルナール書記官が遠くで呟く。
「相互感染確認。治療方針、婚約を推奨」
「ベルナール」
「業務外でした」
私は、白百合の栞を指先で押さえながら、前を向いた。
冷たい女と呼ばれた私は、もう誰かの発作に振り回されない。
厳しい女と呼ばれた私は、これからも確認する。
契約も、診断も、予定も、そして自分の幸せも。
間違えたら訂正すればいい。
嘘なら暴けばいい。
本物なら、大切にすればいい。
白百合の咲く回廊で、私は初めて、自分の未来に栞を挟んだ。
そのページには、ルシアン卿の几帳面な字で、たった一文だけ書かれている。
――次回、茶会。2名。発作の予定なし。
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