はじめに
死者が統べる国は、いかにして生まれたのか
ゲノッセル大陸西部、聖暦第一千年紀の終焉直後。
この地は、後世の歴史家がしばしば「崩壊の世紀」と呼ぶ時代へと突入していた。
当時の年代記は、この混乱をしばしば終末論的な言葉で描写している。
天使と悪魔が地上で刃を交える最終戦争、あるいは神の加護を失った世界への懲罰。そうした比喩が、決して誇張とは思えないほど、レーヴェンス教徒の諸国は急速に秩序を失っていった。
この混沌の発端は、明確である。
聖暦947年、長らくレーヴェンス教世界の守護者として君臨してきたルトック王国国王ボヘルト五世の死であった。
彼の死は、単なる一王の死ではなかった。
王の威信によって辛うじて抑え込まれていた矛盾と不満、そして王家内部の対立が、一斉に噴き出したのである。三人の王子たちは、父の遺した王国を分かち合うことなく、剣によって奪い合う道を選んだ。この内戦は十年以上にわたって続き、ルトック王国の国力を決定的に疲弊させた。
最終的に、聖暦958年のアヘルの和約によって、王国は西・中央・東の三領域に分割相続される。
この時点で、ルトック王国はもはや守護者ではなく、名ばかりの大国に成り下がっていた。
だが、より深刻な問題は別にあった。
内戦を戦い抜くため、三王子はいずれも大量の異民族傭兵を雇い入れていたのである。
彼らは単なる戦力ではなかった。家族を伴い、土地を与えられ、やがて定住者となっていった。王権の統制が弱体化するにつれ、傭兵たちは次第に武装集団としての自立性を高め、現地のレーヴェンス教徒住民との軋轢を深めていく。年代記には、彼らによる暴行、略奪、違法な徴発が頻繁に記されており、それが誇張であるか否かを別にしても、当時の人々が強い恐怖を抱いていたことは疑いない。
こうして、旧ルトック王国領とその周辺諸国では、異民族勢力が急速に影響力を拡大していった。
彼らはもはや傭兵ではなく、土地を支配し、武力を背景に王に要求を突きつける存在となったのである。
聖暦984年、西ルトック王ヘンルート二世は、北方系ヴァルグ族に対し、ワルーデル地方の領有権と統治権、さらには「ヴァルグ王」の称号を公式に認める勅許状を発行した。軍役義務と貢納は大幅に緩和され、実質的に独立王国と変わらぬ地位が与えられたのである。これは前例となり、以後、同様の「独立」は脅迫と取引によって連鎖的に生じていく。
こうして聖暦千年を迎える頃、ゲノッセル大陸西部は、大小無数の新興国家が乱立する地域と化していた。
そして聖暦1003年、その中でも際立って異様な国家が誕生する。
ネクロサーン聖骸国である。
この国は、レーヴェンス教内部の異端とされるネクロ派が、中央ルトック王ボヘルト八世の認可を得て建国した国家であった。しかし、その異常性は、単なる異端国家という言葉では到底言い尽くせない。
ネクロサーン聖骸国の君主は、生者ではない。
聖者マッカのヘンダルトの死骸、すなわち聖骸こそが、かの国の主であった。
この聖骸は、いかなる保存処理も施されていないにもかかわらず、腐敗の兆しを見せず、微弱ながら聖なる光を放っていたと伝えられる。そしてその聖なる光によって焼かれず、刃によって損なわれない。その存在は、ネクロ派の人々にとって疑いようのない奇蹟であった。
ネクロサーン聖骸国の実質的な統治機関である執政評議会は、この奇蹟をもって一つの結論に至る。
すなわち、マッカのヘンダルトの魂はいまだ聖骸に宿り、その意思は完全には失われていない、という信仰である。
彼らは聖骸から漏れ出る聖なる光のあり方を解釈し、そこに聖者の意思を読み取ることで国政を行った。法律の制定、戦争と和平の判断、徴税や裁判に至るまで、すべては「聖骸の意思」に基づくとされたのである。
この体制は、当然ながらレーヴェンス教正統派教会に強い衝撃を与えた。
ネクロ派は正式に破門され、その教義と国家体制は激しく非難された。しかし、この破門は、ほとんど実効性を持たなかった。王権は分裂し、教会自身もまた政治的後ろ盾を失っていたからである。
こうして、死者が統治する国家は、誰にも止められることなく存続した。
本書は、このネクロサーン聖骸国という異様な国家について、その成立過程、統治思想、そして後世に残した影響を、同時代史料、後世の文献、さらには現代に伝わるネクロ派の教義を手がかりに読み解いていく試みである。




