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赤い椿

 阿部が病院を後にして数日が経った。文乃が一向に良くならないことに、不信感を持った直樹が、衝撃的なことを発見した。文乃が薬を飲んだふりをして、捨てていたのだ。

「ふみちゃん、どうして」

 文乃は、顔を背けた。

「そんなことをしたら治るものも治らないじゃないか」

「……ごめんなさい」

 文乃は、ただ謝るだけだ。

「なんでだよ! いつからだよ!」

 直樹が怒鳴るが、本当の理由を、文乃は誰にも言えなかった。阿部に、多額の治療費を払わせている。直樹にも、迷惑をかけている。そして、自分はどちらの男も裏切った。阿部を傷つけ、直樹を巻き込み、結局、誰も幸せにできなかった。こんな自分が、生きていていいのだろうか。罪悪感が、文乃を蝕む。体調の悪さを理由に飲食を拒み、薬を拒んだ。点滴は看護師の目を盗んで途中で針を外し、液を捨てて調節し何食わぬ顔で刺し直す。もともと看護師だからこそできる芸当だった。

「……もしかして、入院した時からか? だから医者が首をかしげるほど急に悪化したのか」

 文乃は沈黙で返す。

「なんでだよふみちゃん。なんでっ……!」

 直樹の目から涙があふれる。文乃がなぜ治療を拒むのか、わからなかったし、わかりたくなかった。しかし、治療して生きようとしないということは、自分との未来を拒否しているということだけはわかる。それは直樹にとって受け入れがたい事実だった。

 直樹は文乃があまり飲食をしていないこと、薬を捨てていたことを医師と看護婦に告げ、協力を仰いだ。医師たちは文乃を拘束し、強制的に栄養剤と結核の治療薬と、向精神薬を点滴することを選んだ。文乃はほとんど何もしゃべらず、従順になった。治療の成果も少しずつ出てきた。

 しかしその二週間後。文乃は、別の病気を併発した。

「肺炎です」

 医師が深刻な顔で告げた。

「結核で弱っている身体に、肺炎が重なりました。非常に危険な状態です」

「そんな……」

 直樹は愕然とした。

「最近まで治療を拒否されていたのが、致命的です」

 医師は厳しい口調で続けた。

「このままでは……」

 言葉を濁したが、意味は明らかだった。死ぬ、ということだ。直樹は、その夜、自分の実家、父親に電話をかけた。

「父さん、一生のお願いだ。助けてくれ」

「……」

 返ってきたのは沈黙。直樹は構わず続ける。

「俺たちの話、全部伝わってるんだろ? 頼むよ」

「聞かん」

 即答だった。

「まだ何も言ってない」

「また女のために金を出せということじゃないのか。お前が連れて逃げた女だろう。自分で面倒を見ろ」

 直樹の父は、冷たく言った。

「これからは心を入れ替えて働く。それからふみちゃん……文乃が良くなったのを見届けたら別れて、父さんの言う通りの女と結婚する。これからは全部言うとおりにする。だから金をくれ」

「……本気か」

「ああ」

「お前の執筆活動は、どうする」

「諦める」

 直樹は、きっぱりと答えた。文乃がなぜ治療を拒否したのか、直樹にはその理由がわからない。だがもう自分の出る幕では無いことは、痛いほどわかった。結局、幸せにできなかった。今の文乃のために直樹ができること。治療して元気になったら開放してやることだった。直樹にとって文乃は単なる可愛い田舎娘で、退屈な日常をちょっとだけ刺激的にするためのお愉しみの相手だった。それがいつの間にか本当に大切にしたいと思った唯一の女性になっていた。

「文乃の命に比べたら、俺の夢など、どうでもいい」

 文乃と二人で過ごした日々は、直樹にとってかけがえのないもので、本当に本当に幸せだったのだ。治療を拒否していたことが発覚し、しばらく心穏やかには居られなかった。何日も悩み、苦しみ、出した結論。それは文乃を愛しているというシンプルなものだった。本当に愛しているからこそ、自分と一緒に居て、幸せになれないなら、文乃が心の底から望む結末に導いてやろうと思ったのだ。あの時阿部が身を引いたように。今は阿部から治療費を出してもらっている状態だ。回復した文乃が阿部のもとへ戻る選択をするなら、血反吐を吐くほど悔しいがそれでもいい。だがもし自由になりたいなら、治療費が文乃の足かせにならないように出してやりたかった。

 直樹の父は、長い沈黙の後、ため息をついた。

「……わかった」

「父さん」

「金はやる。だが、条件がある。お前も二度と戻ってくるな。お前はもう居ないものとする」

「……はい」

「それから、女の治療費は、お前が働いて返せ」

「はい」

「本当に、それでいいのか」

 父の問いに、直樹は頷いた。

「はい。文乃が生きてくれるなら、それでいい」

「……馬鹿な息子だ」

 父は、そう言って電話を切った。この話を明日、文乃にすれば少しは生きる希望を持ってくれるだろうか? どうか。どうか。直樹は祈った。でも、その祈りは、あまりにも遅かった。

 翌朝、病院の廊下の長椅子にうなだれた阿部が座っていた。その様子からただならぬ雰囲気を感じ取った。

「7時前に文乃の容態が、急変したそうだ。最期を、看取るように電話が来た」

 阿部は、低い声で話し出す。時刻は8時。電話を受けて阿部は飛んできたようだ。肩で荒い息をしていた。

「は? で? なんで病室に入らないんですか?」

「怖いんだ」

「え」

「お前は文乃が」

 阿部はそこまで言って立ち上がった。

「ダメだ。行ってはダメだ」

 もう直樹に話しかけているというより、独り言だった。ふらふらと病室に吸い込まれる阿部の背中を、直樹も慌てて追いかけた。

 文乃は、ベッドに横たわり、一人眠っていた。呼吸は、浅く、不規則で、時々いびきのような音がする。こんな音は文乃に似つかわしくない。聞きたくない。直樹は無性に腹が立った。文乃を起こそうと思って、枕元による。ふわっと呼気に混じって奇妙に甘い匂いがした。

 阿部は、そんな直樹の反対側に立った。二人の男が、文乃を挟んで向かい合う。かつて、文乃を奪い合った二人の男。今は、ただ文乃の最期を看取るために、そこにいた。

「文乃、聞こえる?」

 直樹が、文乃の手を取った。文乃の瞼が、かすかに動いた。ゆっくりと、目が開く。

「……直樹、さん……」

 か細い声。

「ああ、僕だよ」

「ごめん、なさい……」

「謝らないで」

 直樹は、文乃の手を握りしめた。

「ふみちゃんは、何も悪くない」

「私……あなたを……愛せなくて……」

 文乃の目から、涙がこぼれた。

「いいんだよ」

 直樹は、優しく笑った。

「ふみちゃんが、幸せなら……それでいいんだ」

「私……本当は……」

 文乃は、阿部を見た。

「阿部さんのこと……ずっと……」

「文乃……」

 阿部が、文乃の手を取った。

「好きだった……ごめんなさい……直樹さん……」

 直樹は、唇を噛んだ。でも、責めることはできなかった。文乃の心が、どこにあったか。

それは、もうわかっていたことだから。

「いいんだよ、文乃」

 直樹は、涙をこらえて笑った。

「ふみちゃんの気持ちは、わかってた」

「ありがとう……優しくして、くれて……」

「こちらこそ、ありがとう」

 直樹は、文乃の額にキスをした。

「ふみちゃんと過ごせて、幸せだった」

 文乃は、微笑んだ。そして、阿部を見た。

「阿部さん……」

「ああ」

「ごめんなさい……あなたを……傷つけて……」

「いい。もう、その話はするな」

 阿部は、文乃の手を強く握った。

「私……本当は……あなたと……一緒に……なりたかった……」

「文乃……」

「でも……怖くて……逃げて……」

「わかっている」

 阿部の目が、潤んだ。

「俺も、悪かった。お前を、追い詰めた」

「違う……私が……弱くて……」

 文乃は、咳き込んだ。激しい咳。呼吸が、乱れる。

「無理に話すな」

 阿部が、文乃の背中をさすった。咳が収まると、文乃は疲れ切った様子で、ベッドに沈んだ。

「阿部さん……私を……許して……」

「許す。何度でも言う。俺は、お前を許す」

「ありがとう……」

 文乃は、安堵したように目を閉じた。そして、小さく呟いた。

「幸せ……だった……二人とも……愛してくれて……」

 直樹と阿部は、無言で文乃を見つめた。文乃の呼吸が、さらに浅くなった。

「お母さん、が……呼んでる……」

 文乃が、虚空を見つめて呟いた。

「文乃!」

 阿部の声が、病室に響いた。

「お母さん……待って……もう少し……」

 しかし、文乃の目は、もう焦点を結んでいなかった。医師が駆けつけ、処置を始めた。

 でも、文乃の呼吸は次第に弱くなっていった。阿部と直樹は、ベッドの両側に立ち尽くす。阿部も直樹も、文乃に必死に声をかけ続け、医師や看護婦たちも慌ただしく動き回っていた。そのすべてが文乃にとって遠くなっていく。

「あ、りが、とう……」

 ごめんね。最後の言葉は、誰に向けられたものかわからなかった。文乃自身にも

 父に? 母に? 阿部に? 直樹に?それとも、全ての人に? 文乃の手から、力が抜けた。心電図が、長い音を立てた。ピーーーーーー。その音が、文乃の死を告げる。

 阿部は、文乃の手を握ったまま、動かなかった。直樹は、文乃の名を呼び続けた。

「文乃……文乃……!」

 でも、文乃は答えなかった。もう、二度と。医師が、時計を確認した。

「午前八時三十二分、ご臨終です」

 静かな声が、病室に響いた。しばらくして、阿部がゆっくりと立ち上がった。文乃の額に手を置き、うっすらと開いた目を静かに閉じさせる。

「……安らかに」

 低く呟くと、阿部は直樹を見た。

「お前のせいだ」

 静かだが、怒りのこもった声。

「……ああ、そうだ」

 直樹は否定しなかった。

「俺が、文乃を幸せにできなかった」

「お前だけじゃない。俺もだ」

 阿部は拳を握りしめた。

「俺が、文乃を追い詰めた。俺が、文乃を苦しめた」

「……」

「お前も、俺も。文乃を殺したんだ」

 その言葉に、直樹は顔を覆った。そして、声を殺して泣いた。阿部もまた、文乃の額に手を置いたまま、動かなかった。その肩が、小刻みに震えていた。二人の男が、一人の女を失った。愛した女を。そして、二人とも、その女を幸せにできなかった。明るい朝の陽ざしが場違いに照らす。文乃自身、完璧ではなく、何度も致命的な間違いを犯してきた。生い立ちとその美貌故と言っても、許されることではなかった。

 それでも死に化粧をされた文乃は、穏やかな顔をしていた。もう、苦しまなくていい。

 もう、誰にも縛られなくていい。もう、選ばなくていい。文乃は、ようやく自由になった。


 阿部は、封筒を直樹に渡した。

「葬儀代だ。最後までお前が面倒を見ておけ」

「……ありがとうございます」

 直樹は、受け取った。

「礼を言うな。お前に渡したんじゃない。文乃に渡したんだ」

 阿部は、文乃に向かって深く頭を下げた。

「すまなかった、文乃」

 そして、病室を出て行った。背中は、かつてないほど重く見えた。直樹は一人、文乃のそばに残された。

「ごめん……ごめんよ、文乃……」

 直樹は文乃の手を取り、額を押し当てた。涙がとめどなくあふれた。自責の念が、直樹を押しつぶした。文乃の笑顔。文乃の声。文乃の温もり。全てが、もう二度と戻らない。もしもっと違う出会い方をしていたら。もっと自分がまじめに生きていたら。全ては違ったんだろうか?

 その夜、直樹は文乃と過ごした家に戻った。空っぽの家。文乃の笑顔が残像のように見える。窓の外では、雪が静かに降り始めていた。文乃の故郷も、今頃は雪だろうか。あまり故郷や生い立ちについて語ることはなかった文乃だが、珍しく饒舌だった日があった。駆け落ちして数日、旅館に居た時だ。その旅館の造りが、故郷で働いていた旅館と似ていて、椿の話にもなった。冬に咲く珍しい椿。その椿は、今も咲いているだろうか。赤い椿。文乃が愛した、母の椿。

 直樹は、自分がこれからどう生きていけばいいのか、わからなかった。ただ一つわかることは、自分の人生は、あの日、文乃と一緒に終わったということだった。


 雪は、静かに降り続けた。全てを、白く覆い隠すように。まるで、何もなかったかのように。でも、直樹の心には、文乃の記憶が刻まれていた。消えない、深い傷として。それは、一生、癒えることはないだろう。阿部もまた、同じだった。車の中で、阿部は一人、文乃のことを想っていた。

「俺も、お前を愛している」

 あの時、言った言葉。でも、遅すぎた。もっと早く、言ってやればよかった。もっと、優しくしてやればよかった。後悔が、阿部を苦しめた。でも、もう遅い。阿部は、窓の外を見た。雪が、降っている。文乃と自分の故郷と、同じ雪。椿の赤が、雪の白に映えるだろう。文乃が好きだった、あの椿。

「文乃」

 阿部は、小さく呟いた。涙が、頬を伝う。阿部は、それを拭おうともしなかった。ただ、泣いた。声を殺して、泣き続けた。愛した女を失った、男の涙。それは、雪のように冷たく、そして、雪のように静かだった。



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