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病魔

 文乃が倒れたのは、突然だった。その日、直樹は出版社との打ち合わせで外出していた。新作の企画を通すための大事な会議だ。

「夕方には帰るから」

 そう言って、直樹は朝早く出かけた。

「気をつけてね」

 文乃は玄関まで行けず、ベッドから直樹を見送った。朝から吐き気がして、何も食べられなかった。水を飲んでも、すぐに吐いてしまう。文乃は無理をして、台所に立った。夕飯の支度をしなければ。直樹が帰ってくるまでに。包丁を握って、大根を切り始めた。でも、手に力が入らない。めまいがした。視界が、ぐらぐらと揺れる。

「あれ?」

 文乃は額に手を当てた。熱い。いつもより、ずっと熱い。身体が、重い。立っているのが、辛い。

「ちょっと、座ろ」

 文乃は椅子に座ろうとした。でも、その前に。足が、もつれた。ガクン、と膝が折れる。

「あ」

 文乃は床に崩れ落ちた。包丁が、カランと音を立てて転がっていく。意識が、遠のいていく。暗闇に、引き込まれ、そのまま気を失った。


 直樹が帰ってきたのは、夕方六時過ぎだ。

「ただいま!」

 明るい声で玄関を開ける。でも、返事がない。

「ふみちゃん?」

 おかしいな、と思いながら、直樹は家に上がった。

 静かすぎる。いつもなら、台所から「おかえりなさい」と文乃の声が聞こえるはずなのに。

「ふみちゃん、いる?」

 応接間を覗いても、誰もいない。書斎も、空っぽだ。直樹の胸に、嫌な予感が広がった。

「ふみちゃん!」

 台所に駆け込んだ。そして、目に入ったものに、直樹は凍りついた。文乃が、床に倒れていた。横向きに倒れて、微動だにしない。床には、包丁が転がっている。大根が、半分切られたまま、まな板の上にある。

「ふみちゃん! ふみちゃん!」

 直樹は文乃に駆け寄った。抱き起こすと、文乃の身体は熱かった。でも、冷たい汗をかいている。顔は蒼白で、唇は紫色だった。

「起きて! ふみちゃん!」

 直樹は必死で揺さぶった。文乃の瞼が、かすかに動いた。

「う……ん……」

 か細い声。でも、意識は戻らない。いや、倒れ込んだまま眠っているのだ。直樹は、パニックになりかけた。どうしよう。どうすればいい。タクシー。タクシーを呼んで、病院に連れて行かなければ。直樹は文乃を抱き上げた。驚くほど軽かった。こんなに痩せていたのか。文乃を抱えたまま、直樹は玄関に走った。靴も履かずに外に出て、大声で叫んだ。

「タクシー! 誰か! 助けて!」

 幸い、通りかかったタクシーが止まってくれた。

「病院に! 一番近い病院に!」

 直樹は半狂乱で叫んだ。

「奥さん、どうされました?」

 運転手が心配そうに聞く。

「分からないんです! 倒れてて! お願いします、早く!」

 直樹は文乃を抱きしめながら、何度も名前を呼んだ。

「ふみちゃん、頑張って。もうすぐ病院だから。頑張って」

 でも、文乃は反応しなかった。ただ、浅い呼吸を繰り返しているだけ。病院に着くと、直樹は文乃を抱えて駆け込んだ。

「助けてください! 妻が倒れて!」

 看護師たちが駆け寄ってきた。

「ストレッチャー!」

 文乃はストレッチャーに乗せられ、診察室へと運ばれていった。

「あなたは、ここで待っていてください」

 看護師に制止されて、直樹は待合室に残された。一人、椅子に座って、直樹は頭を抱えた。どうして。どうして、こんなことに。 文乃は、ずっと体調が悪そうだった。でも、妊娠のせいだと思っていた。だから、安心していた。まさか、こんなことになるなんて。時間が、恐ろしく長く感じられた。一時間。二時間。やっと、医師が出てきた。

「ご家族の方ですか?」

「はい! 妻は、妻はどうなんですか!」

 直樹は医師に詰め寄った。

「まず、落ち着いてください」

 医師は冷静に言った。

「奥様は、今、眠っています。点滴をしていますので、しばらくすれば意識が戻るでしょう」

「よかった……」

 直樹は安堵の息をついた。

「でも……」

 医師が深刻な顔をした。

「いくつか、検査をさせていただきました」

「はい」

「まず、妊娠の可能性を疑ったのですが……」

 医師は言葉を選びながら言った。

「妊娠は、していませんでした」

「え……?」

 直樹は目を見開いた。

「でも、妻は、妊娠したかもしれないって……」

「恐らく、体調不良を妊娠の兆候と勘違いされたのでしょう」

 医師は静かに言った。

「吐き気、食欲不振、微熱……これらは、妊娠の症状にも似ていますが」

「じゃあ、何なんですか! 何が原因で!」

 直樹の声が、大きくなった。

 医師は、深くため息をついた。

「奥様は……結核に感染している可能性があります」

 その言葉に、直樹の世界が止まった。

「けっ、結核……?」

「はい。レントゲン検査で、肺に影が見つかりました。かなり進行しています」

「そんな……」

 直樹は、その場に崩れ落ちそうになった。結核。自分が持っていた病気。それが、文乃にうつった。

「僕のせいですか……?」

 直樹は震える声で聞いた。

「僕が、妻にうつしたんですか?」

「それは……断定できません」

 医師は慎重に答えた。

「奥様がサナトリウムで看護師として働いていたとのことですので、そこで感染した可能性もあります」

「でも……」

「いずれにせよ、原因を特定することよりも、今は治療が大切です」

 医師は直樹の肩に手を置いた。

「幸い、特効薬が最近開発されました。ストレプトマイシンという薬です」

「それで、治るんですか?」

「可能性は、あります。特に若い方は、回復率が高い」

「じゃあ、ふみちゃんは……」

「全力を尽くします」

 医師は力強く言った。

「ただし、入院が必要です。長期になるかもしれません」

「分かりました。お願いします」

 直樹は深く頭を下げた。力強い医師の言葉が張り詰めていた直樹の心を溶かす。良かった。文乃は死なない。安堵と不安、油断はできないと気持ちを引き締めようとする理性と、わが身と文乃への不幸を呪いたい感情が直樹を泣き笑いのような複雑な顔をさせた。そんな自分の姿を誰にも見せたくなくて直樹は背もたれに身体を預け天を仰いだ。信仰心などいままでなかったが、いまこそ神に縋りたい。

 しばらくして、文乃は病室に移された。直樹が面会に行くと、文乃はベッドに横たわっていた。点滴の管が、腕につながっている。顔は相変わらず蒼白だったが、目は開いていた。

「直樹……さん……」

 か細い声で、文乃が呼んだ。

「文乃!」

 直樹は駆け寄った。

「よかった……目が覚めて」

「ごめんなさい……心配、かけて……」

「謝らないで。きみは何も悪くない」

 直樹は文乃の手を握った。

「赤ちゃん……居ないんですって」

 文乃の目から、涙がこぼれた。

「お医者様から、聞いたの」

「……うん」

「私……勘違いしてたのね……」

「仕方ないよ。症状が似てたんだから」

 直樹は文乃の手を握りしめた。

「でも、治療すれば治る。先生がそう言ってた」

「本当……?」

「ああ。新しい薬があるんだって。それで治るって」

 文乃は、小さく笑った。

「よかった……」

 でも、その笑顔は、すぐに涙に変わった。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

「何で謝るの?」

「私、役立たずで……赤ちゃんもできなくて……病気になって……」

「そんなこと言うな」

 直樹は強く言った。

「ふみちゃんは、何も悪くない。悪いのは……僕だ」

「え……?」

「僕が、ふみちゃんに病気をうつしたんだ」

 直樹の目から、涙がこぼれた。

「僕のせいで……君が……」

「違うわ」

 文乃は首を振った。

「私、サナトリウムで働いてたもの。そこで感染したのかもしれない」

「でも……」

「誰のせいでもないわ。運が、悪かっただけ」

 文乃は直樹の手を握り返した。無言で手を握り合う。窓の外では、夕日が沈んでいく。長い影が、病室の床に伸びる。いいえ、これは阿部を裏切った罰かもしれない。心の中で文乃は思った。そしてどこかホッとしていた。悪いことをしたのだから、私は幸せになってはいけないの。 

 文乃の入院生活が、始まった。最初の一週間は順調に見えた。特効薬の投与が始まり、医師は「若いから回復も早いでしょう」と楽観的だった。直樹も文乃も、これで助かると信じていた。

 しかし二週間目から、文乃の容態は急変した。

「咳が、止まらないの」

 文乃は苦しそうに身体を丸める。ハンカチで口を押さえると、赤い血が滲んでいた。

「先生! 文乃が……!」

 直樹が慌てて看護師を呼ぶ。医師が駆けつけ、診察するが、首を傾げるばかりだった。

「おかしいな。薬は効いているはずなのに」

 三週間目。文乃の体重は目に見えて落ちていった。頬はこけ、腕は細く、骨が浮き出ている。食事もほとんど喉を通らない。

「文乃、食べないと」

「ごめんなさい。気持ち悪くて……」

 か細い声で謝る文乃を見て、直樹の胸は締め付けられた。

「僕が悪いんだ。僕が病気をうつしたんだ」

「違うわ。あなたのせいじゃない」

 文乃は弱々しく笑ったが、その笑顔にはもう昔の輝きはなかった。

 四週間目。文乃はほとんど眠っているような状態になった。意識が朦朧として、直樹の顔も認識できない時がある。

「ふみちゃん、僕だよ。直樹だよ」

 治療費は日に日にかさんでいった。直樹が賞金で得た大金は、ずっと前に底をついていた。執筆どころではなく、原稿料も入らない。病院からは、治療費の支払いを催促された。

「何とか、何とかしなければ……」

 直樹は頭を抱えた。貯金はゼロ。売れるものも何もない。

 意を決して、直樹は実家に電話をかけた。

「もしもし、父さん? 僕だ」

 電話口から聞こえてきたのは、冷たい声だった。

「お前か。何の用だ」

「実は……お金を貸して欲しいんだ」

 沈黙。

「……女の病気の治療費か」

 父は既に事情を知っているようだった。

「ああ。頼む。命に関わるんだ」

「断る」

 即答だった。

「お前は家を出ると言った。自分で何とかしろ」

「父さん! 人の命がかかってるんだぞ!」

「知ったことか。お前が選んだ道だ。自分で責任を取れ」

 ガチャン。電話は切れた。

 直樹は受話器を握りしめたまま、その場に崩れ落ちた。

「くそ……くそっ!」

 他に頼れる人間はいない。友人たちは既に借金を申し込んで断られている。出版社も、売れない作家に前借りはさせてくれなかった。絶望の中、直樹の脳裏に一人の男の顔が浮かんだ。阿部。あの男なら、金はある。阿部の住所は以前、文乃を探す時に情報屋に聞いていた。ただ男のプライドとして、絶対に頼りたくない相手だった。それでもそんなちんけなプライドを捨てなければいけない時がきたのだ。

 直樹は、深呼吸をした。プライドを捨てろ。文乃のためだ。直樹は、受話器を取った。番号を回す。指が、震えた。呼び出し音。一回、二回、三回。七回目でやっと、電話に出た。

「もしもし」

 低く、警戒した声。間違いない。阿部だ。

「もしもし、阿部さんですか?」

 直樹の声も、震えていた。

「……誰だ」

 阿部の声が、さらに低くなった。

「直樹です。文乃の……」

 直樹は言葉を選んだ。何と言えばいい? 文乃の恋人? 夫? いや、ダメだ。

「文乃と一緒にいる、直樹です」

「ああ、お前か」

 阿部の声は、氷のように冷たかった。

「何の用だ」

 拒絶の色が、ありありと感じられた。直樹は、唾を飲み込んだ。言わなければ。プライドを捨てて。

「文乃が……文乃が結核で入院しています」

 電話の向こうで、阿部の息遣いが変わった。

「……何?」

「治療費が払えなくて……助けてください」

 直樹は、必死で頭を下げた。電話越しだが、本当に頭を下げていた。

「お願いします! 文乃が死にそうなんです!」

 沈黙。長い、長い沈黙。直樹は、耐えられなくなって言葉を続けた。

「僕が、悪かったです。文乃を連れて逃げたのは、僕です」

「……」

「でも、文乃には罪はありません。文乃を、助けてください」

「俺に頼むのか」

 阿部の声が、低く響いた。

「お前が連れて逃げたんだろう」

「はい……」

「俺から奪ったんだろう」

「はい……」

「それなのに、俺に助けを求めるのか」

 阿部の声には、怒りと、何か別の感情が混じっていた。

「お願いします」

 直樹は、もう一度頭を下げた。

「僕の、プライドなんてどうでもいいんです。文乃を、文乃だけは助けてください。治療がうまくいかなくて、もう時間が……」

 また、沈黙。直樹は、息を殺して待った。やがて、阿部がため息をついた。

「……どこの病院だ」

「え?」

「文乃が入院している病院だ。どこだ」

 直樹の胸に、希望が灯った。病院名を告げると阿部は短く答えた。

「わかった。そっちへ行く」

「本当ですか! ありがとうございます!」

 直樹は、思わず声を上げた。

「礼を言うな」

 阿部の声は、相変わらず冷たかった。

「俺が行くのは、お前のためじゃない。文乃のためだ」

「はい……」

「それから」

 阿部が続けた。

「お前には、会いたくない。病院には来るな」

「……わかりました」

 直樹は、唇を噛んだ。

「文乃を、頼みます」

 阿部は、何も答えずに電話を切った。ツー、ツー、という無機質な音だけが、受話器から聞こえてくる。直樹は、受話器を置いた。そして、その場に座り込んだ。やった。阿部が、来てくれる。文乃を、助けてくれる。でも、同時に、激しい屈辱を感じた。敵に頭を下げ、助けを求めた。男として、これほどの屈辱があるだろうか。でも、仕方ない。文乃の命には、代えられない。直樹は、顔を両手で覆った。そして、声を殺して泣いた。情けなさと、安堵と、複雑な感情が入り混じって、涙が止まらなかった。


 一方、電話を切った阿部は、受話器を握りしめたまま、動かなかった。文乃が、結核。 文乃が、死にかけている。阿部の拳が、震えた。あの女は、俺から逃げた。別の男を選んだ。それなのに、助けるのか? 何のために? 阿部は、自問した。でも、答えは決まっていた。行く。文乃のところへ。どんなに裏切られても、どんなに傷つけられても。文乃を、見捨てることはできない。本気で愛した女なのだ。彩乃の娘だからではない。文乃だから愛していた。阿部は、立ち上がった。上着を羽織り、鍵を手に取る。そして、夜の闇の中へと、歩き出した。文乃のもとへ。最後かもしれない、文乃との時間へ。

 

 翌日、阿部が病院に現れた。ちょうど廊下で阿部と直樹は出くわした。黒いスーツに身を包み、鋭い目で直樹を見据える。

「来るなと言ったはずだ」

「すみません、まさかこんなに早く来られると思わなくて」

 直樹は阿部を文乃の病室へ案内した。廊下を歩く。文乃の病室の前に立つ。ドアに、「鈴木文乃」と書かれた札がかかっている。阿部は、一度、深呼吸をした。直樹は脇にどいて、阿部に入るように促した。阿部は、静かにドアを開けた。個室だった。窓際に、一台のベッド。そこに、文乃が横たわっていた。阿部はその姿を見て、息をのんだ。文乃は、もう人形のようだった。いつ見ても美しかった文乃。凛として、芯の通った白百合のような文乃。その面影は、もうなかった。頬はこけて、骨が浮き出ている。唇は紫色で、血の気がない。呼吸は浅く、苦しそうだ。閉じられた瞼の下で、眼球がかすかに動いている。腕は細く、点滴の針が刺さっている。白いシーツの上に置かれた手は、骨と皮だけのようだった。阿部は、ゆっくりとベッドサイドに近づいた。足音を立てないように。文乃を起こさないように。

でも、心の中では、叫びたかった。何だ、これは。これが、あの文乃なのか。あんなに美しかった、文乃なのか。こんな短期間でここまで悪化するなんて。

 阿部の胸に、激しい怒りが湧き上がった。あの男だ。直樹が、文乃をこんな目に遭わせたんだ。俺のそばにいれば、こんなことには……阿部は自分の考えを否定した。違う。文乃を追い詰めたのは、俺だ。強引に奪った。脅した。無理やり関係を持った。文乃が逃げたくなるのも、当然だ。阿部は、ベッドサイドの椅子に座った。文乃の顔を、じっと見つめた。

 やつれていても、文乃は美しい。病に侵されても、その美貌は失われていなかった。

 阿部は、文乃の手を取った。驚くほど、軽かった。冷たかった。でも、かすかに温もりがある。まだ、生きている。阿部の目から、涙がこぼれそうになった。この女が幸せになるならと、諦めたんだ。それがこんな。阿部は歯を食いしばって、こらえた。泣くな。今、泣いてどうする。

「文乃」

 阿部の声が、ほんの少しだけ震えた。自分の動揺に自分で驚く。文乃の瞼が、かすかに動いた。ゆっくりと、目が開く。焦点の合わない目が、阿部を見た。

「……阿部、さん……?」

 か細い、かすれた声。

 でも、確かに文乃の声だった。

「ああ。俺だ」

 阿部は、文乃の手を握った。

「迎えに来た」

「え……?」

 文乃の目に、かすかに驚きの色が浮かんだ。

「どうして……ここが……」

「お前の男が、電話をかけてきた」

 阿部は、淡々と言った。

「助けてくれと、頭を下げてきた」

「直樹さんが……?」

 文乃の目から、涙がこぼれた。

「ごめんなさい……迷惑を……」

「謝るな」

 阿部は、文乃の涙を拭った。

「お前は、何も悪くない」

「でも……私……」

 文乃は、言葉を続けようとして、咳き込んだ。激しい咳。身体が震える。阿部は、文乃の背中をさすった。

「無理に話すな」

 咳が収まると、文乃は疲れ切った様子でベッドに沈んだ。

「ごめん、なさい……」

 また、謝罪の言葉。

「何を謝っている」

「あの時……嘘を……」

 文乃の声が、さらに小さくなった。

「神社で……あなたを……陥れて……」

 阿部は、息をのんだ。あの日のことだ。雨の夜。神社のお堂で。文乃が、「襲われた」と叫んだ日。

「いい。もう、その話はするな」

「でも……」

「許す」

 阿部は、きっぱりと言った。

「俺は、お前を許す」

「どうして……」

「お前は、追い詰められていた」

 阿部は、文乃の手を強く握った。

「お前を追い詰めたのは、俺も同じだ」

「そんな……」

「もういい。過ぎたことだ」

 阿部は、文乃の額に手を置いた。

「今は、治療に専念しろ」

「本当は……」

 文乃の涙が、止まらなくなった。

「本当は……あなたを……愛して……」

 その言葉に、阿部の身体が固まった。

「何?」

「私……本当は……あなたのこと……好きだった……」

 文乃の告白に、阿部の胸が締め付けられた。

「直樹さんは……優しくて……いい人だけど……」

「文乃……」

「でも……心の中には……いつも……あなたが……」

 文乃は、苦しそうに息をした。

「あなたの……顔が……消えなくて……」

 阿部は、文乃を抱き寄せた。壊れそうなほど、脆い身体。

「俺も、お前を愛している」

 阿部は、初めてはっきりと言葉にした。

「ずっと、愛していた」

「ありがとう……」

 文乃は、阿部の胸に顔を埋めた。阿部は、文乃の背中をさする。

「治って、俺のところに戻ってこい」

「でも」

「あの男のことは、俺が何とかする」

 阿部は、強い口調で言った。

「お前は、治ることだけを考えろ」

 文乃は、小さく頷いた。二人は、しばらく抱き合っていた。窓の外では、冬の日差しが弱々しく差し込んでいた。やがて、文乃の身体から力が抜けていった。

「文乃?」

 阿部が呼びかけると、文乃は目を閉じていた。でも、呼吸は続いている。眠ったのだ。阿部は、文乃をそっとベッドに寝かせた。そして、文乃の額にキスをした。

「待っていろ」

 阿部は、小さく呟いた。

「必ず、お前を救う」

 阿部は、病室を出た。

 廊下で、医師を呼び止めた。

「鈴木文乃の治療費は、全て俺が払う」

 医師は、驚いて阿部を見た。

「あなたは……」

「金額は、いくらでもいい。最高の治療をしてやってくれ」

 阿部は、財布から名刺を取り出した。

「請求書は、ここに送れ」

 医師は、名刺を受け取った。

「わかりました。全力を尽くします」

「頼む」

 阿部は、深く頭を下げた。そして、病院を後にした。廊下に直樹がいたが無視した。玄関を出て、阿部は空を見上げた。灰色の空。今にも雪が降りそうだ。

 こんなことになる前に、もっと優しくしてやればよかった。もっと、言葉で伝えてやればよかった。後悔が、阿部の胸を締め付けた。でも、今は後悔している場合じゃない。文乃を、救わなければ。何としても。阿部は、車に乗り込んだ。運転手に指示を出す。

「戻るぞ」

「はい」

 車が動き出す。阿部は、窓の外を見つめた。文乃の言葉が、耳に残っている。

「本当は、あなたを愛していた」

 その言葉が、阿部の心を温め、同時に、激しく痛めつけた。愛していた、と過去形で言った文乃。もう、俺を愛していないのか。それとも、死を覚悟しているから、過去形なのか。阿部は、その答えを考えたくなかった。文乃は、死なせない。絶対に。阿部は、決意を新たにした。何があっても、文乃を救う。それが、俺にできる唯一の贖罪だ。車は、冬の街を走り続けた。


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