表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/9

逃避行

走って逃げて、着の身着のままで汽車に乗った。文乃は息を切らせながら、汽車の座席に崩れ込んだ。身体中が痛かった。縄で縛られていた手首は赤く腫れ、足も痺れている。

「大丈夫?」

 直樹が心配そうに覗き込んできた。

「ええ……何とか」

 文乃は小さく頷いた。窓の外を見ると、景色が流れていく。遠ざかっていく。あの納屋も、阿部も、全てが遠くなっていく。本当に、逃げてきてしまった。文乃の胸に、複雑な感情が渦巻いていた。解放感と、罪悪感。希望と、不安。

「水、飲む?」

 直樹が先ほど買った水を差し出した。

「ありがとうございます」

 文乃は受け取って、一口飲んだ。冷たい水が、渇いた喉を潤す。

「ゆっくり休んで。もう安全だから」

 直樹は優しく微笑んだ。でも、文乃の心は落ち着かない。阿部の顔が、脳裏に浮かぶ。斜め下を見て、目を閉じていた阿部。あんな表情を、見たことがなかった。あの人は、いつも強くて、冷静で、何があっても動じなかった。でも、あの時は違った。傷ついていた。深く、深く。私のせいで。自分がかつて人から傷つけられてきたように、阿部を傷つけた。芽生えかけていた何かを壊した

「聞いている?」

 直樹の声に、文乃は我に返った。

「え、ええ。いえ、ごめんなさい。聞いてなかったわ」

 文乃は正直に答えた。

「きみは僕と逃げて幸せになるんだよ」

 直樹は力強く言った。

「新しい土地で、新しく始めるんだ。二人で」

「あなたと逃げて、どうして幸せになれるの?」

 文乃は直樹を見た。

「仕事も何もない。あなたは結核患者で、私は看護婦なのよ」

 現実的な問題が、次々と頭に浮かぶ。お金は? 住む場所は? 食べていけるの?

「ああ、それは……」

 直樹は少し困ったように笑った。

「別に僕は入院しなくても良かったって知ってるだろ? 遊びすぎて父親に半ば監禁されてるようなものでね。だから、この際だから自由になろうと思って」

 直樹は軽く言ったが、文乃は複雑な気持ちになった。

「それと、お金のことなら心配ない」

 直樹は胸を張った。

「大きい賞を取ったんだ。文学賞でね。大金が入る」

「え、本当に?」

「ああ。僕は小説家なんだよ。売れない作家だったけど、ついに認められたんだ」

 直樹の目が輝いていた。

「その賞金で、しばらくは生活できる。それに、今度は原稿料も入るようになるだろう」

 文乃は少し安心した。でも、まだ不安は消えない。

「でも、それがなくなったら?」

「その時は、記者でもするよ」

 直樹は笑った。

「何とかなるさ。僕は文章を書くのが得意だから」

「そうね。私も働くし何とかなるでしょう」

 文乃は窓の外を見た。でも私はあなたを愛していないの。その言葉が、喉まで出かかった。でも、言えなかった。今、この人に頼るしかないのだから。それに、本当に愛していないのだろうか?文乃は自分の心が分からなくなっていた。阿部のことを思うと、胸が痛い。

でも、直樹といると、安心する。どっちが本当の気持ちなのか。

「文乃」

 直樹が文乃の手を取った。

「僕は、君を幸せにする。絶対に」

 その目は、真剣だった。

「信じて」

 文乃は、直樹の手を見つめた。温かくて、優しい手だけれど細くてきゃしゃ。力仕事を全くしてこなかったお坊ちゃんの手だ。荒事に慣れた阿部の手とは、全然違う。比べてはいけない。もう、阿部とは終わったのだから。

「……はい」

 文乃は小さく答えた。

「信じます」

 そう言いながら、文乃の目から涙がこぼれた。

「どうして泣くの?」

 直樹が驚いて、文乃の涙を拭った。

「嬉しいの? それとも、怖い?」

「分からないの」

 文乃は首を振った。

「嬉しいような、悲しいような、怖いような……全部混ざってて、分からないの」

 文乃は泣き続けた。 直樹は、ただ黙って文乃を抱きしめてくれた。汽車は走り続ける。二人を乗せて、新しい未来へと。でも、文乃の心の中には、まだ阿部の姿がある。あの哀しげな顔が、消えない。

「着いたら、まず宿を探そう」

 直樹が明るく言った。

「それから、ゆっくり今後のことを考えればいい。新しい土地で、新しく始めるんだ」

「新しく始める。それはいいわね」

 汽車を降りて、直樹と並んで歩きながら、文乃はオウム返しにつぶやいた。新しく始める。新しい土地で、新しい名前で、新しい人生を。口に出してみると、すごくいいものに感じる。希望に満ちた言葉。明るい未来を約束する言葉。でも、心の奥で、冷たい声が聞こえた。本当に? 本当に新しく始められるの? 今だって流されてるじゃない。結局、直樹に引っ張られただけじゃない。幸せになるのが怖くて阿部から逃げたかっただけじゃない。

自分をあざ笑う声を、必死で打ち消そうとした。違う。これは私が選んだの。私の意志で。

「疲れた?」

 直樹が心配そうに聞いてきた。

「少しね」

「もうすぐ宿に着くから。そこでゆっくり休もう」

 文乃は、ほとんど何も持っていなかった。サナトリウムに置いてきた私物。大切にしていた物たち。全て、置いてきた。着の身着のまま。文字通り、何もかも捨ててきた。

 

そのあとは、拍子抜けするほど順調に進んだ。直樹が連れて行ってくれたのは、山間の避暑地だった。緑に囲まれた小さな温泉旅館で、客も少なく、静かだった。故郷の、つかの間、文乃が手伝いをしていた旅館を思い出させる造りが、文乃の後悔と郷愁を誘う。

「ここなら、誰にも見つからない」

 そんなことをつゆほども知らない直樹は安心したように笑った。

「しばらく、ここで過ごそう」

 旅館の女将は、二人を新婚夫婦だと思い込んでいるようだった。

「お若いのにご立派ですねえ。お幸せに」

 そう言われて、文乃は曖昧に笑うしかなかった。部屋は二階の奥にあった。窓からは、山の緑が見える。川のせせらぎが聞こえてきた。

「綺麗ね」

 窓辺に立って、外を眺めた。阿部との逢瀬は、いつも料亭の密室だった。窓の外の景色を楽しむ余裕などなかった。でも、ここは違う。開放的で、明るくて、美しい。

「気に入った?」

「ええ」

 文乃は頷いた。

「ここで、ゆっくり休もう。きみは疲れてる」

 直樹は優しい。最初の数日は、ただ休んだ。温泉に入り、美味しい食事を食べ、よく眠った。縄で縛られていた手首の傷も、徐々に癒えていった。新聞やテレビは意図的に見なかった。阿部のことを知りたくなかったから。直樹は、何も強要しなかった。ただ、そばにいてくれた。散歩に出かけて、山道を歩いた。川のほとりで、二人で座って話をした。

「ふみちゃんは、どんな未来を望む?」

 直樹が聞いた。

「分からないわ」

 文乃は正直に答えた。

「今まで、自分の未来なんて考えたこともなかったから」

「じゃあ、これから一緒に考えよう」

 直樹は微笑んだ。

「僕は、きみと一緒にずっといたい。それだけは確かだ」

 その言葉に、文乃の胸が少し温かくなって、同時に罪悪感にさいなまれた。

 一週間ほど経ったある夜、浴衣姿で部屋で涼んでいると、直樹が文乃の隣に座った。

「ふみちゃん」

 呼ばれて、振り向く。直樹の顔が、すぐ近くにあった。

「いい?」

 問いかけられて、文乃は頷いた。これも、流されてる?心の奥で、また冷たい声が聞こえた。でも、文乃はその声を無視した。直樹のキスは、優しかった。阿部のように強引ではなく、文乃の反応を確かめるように、ゆっくりと。そして、すんなりと関係を持った。阿部とは違う、直樹の身体。文乃は、その違いに戸惑った。がたいの良い阿部に比べて、直樹はひょろっとしていた。細くて、軽くて、頼りない。阿部の重みは、文乃を圧倒した。支配した。でも、不思議と安心感があった。直樹の重みは、ほとんど感じない。優しくて、丁寧で、気遣いに満ちている。父親にサナトリウムに監禁されるくらい放蕩息子なのだ。とても慣れていてスマートだった。優しく、それでいて執拗に攻められて何度も絶頂に達した。

でも、何かが物足りない。文乃は、そう感じてしまった自分に、激しい自己嫌悪を覚えた。

何を考えているの、私。この人は、私を大切にしてくれている。愛してくれている。それなのに、阿部と比べるなんて。最低だ。文乃は、涙が出そうになった。

「どうした? 痛かった?」

 直樹が心配そうに聞いてきた。

「ううん、幸せで」

 文乃は笑顔を作って嘘を吐く。それでも、確かに楽しくて幸せな瞬間もあった。朝、一緒に散歩に出かけた。露に濡れた草花が、朝日に輝いていた。

「綺麗ね」

「君のほうが綺麗だよ」

 直樹の言葉に、文乃は笑った。川で足を浸して、冷たい水に歓声を上げた。

「冷たい!」

「気持ちいいだろ?」

 二人で笑い合った。夜、浴衣姿で縁側に座って、月を眺めた。

「幸せ?」

 直樹が聞いた。

「……ええ」

 文乃は答えた。

 嘘じゃない。この瞬間は、確かに幸せだった。ふとした瞬間、心のどこかに、阿部の影があった。あの人は、今、どうしているだろう。怒っているだろうか。それとも、もう諦めただろうか。自分が選択を間違えたことに、とうに気付いていた。それでも文乃は、頑なに考えないようにした。


 そうやって、二週間ほどが過ぎたある日、直樹が深刻な顔で言った。

「そろそろ、ここを出ないといけない」

「どうして?」

「お金が……賞金は大きかったけど、旅館代と食事代で、かなり減ってしまった」

 直樹は申し訳なさそうに頭を下げた。

「ごめん。もっと計画的に使うべきだった」

「いいのよ。じゃあ、どうするの?」

「住む場所を探さないと」

「大丈夫」

 直樹は文乃の手を取った。

「僕に、つてがあるんだ」

 直樹の出版社の知り合いが、ちょうど海外取材で長期不在になるという。その人の家を、管理する代わりに借りられることになったそうだ。

「本当に?」

「ああ。ラッキーだった」

 直樹は嬉しそうに笑った。

「家賃はいらない。その代わり、家を管理して、庭の手入れとかをすればいい」

「そう……良かった」

 文乃はほっとした。これから、二人きりで暮らすのだ。本当の夫婦のように。私は、それでいいの? 心の奥で、また声が聞こえた。でも、文乃はその声を無視した。もう、後戻りはできないのだから。


「ありがとうございます」

「管理してくれるとこちらもありがたいからね」

 洒落た流行りの和洋建築の二階建てだった。門をくぐると、小さいながらも手入れの行き届いた庭が広がっていた。季節の花が植えられ、石畳の小道が玄関へと続いている。

「素敵」

 文乃は思わず声を上げた。

「だろ?」

 直樹が嬉しそうに笑った。

「持ち主は建築家なんだ。自分でデザインしたらしい」

 玄関を入ると、洋風のタイル張りの床。靴を脱いで上がると、廊下は磨き込まれた木の床だった。一階は、応接間と書斎、それに台所と浴室。応接間は洋風で、革張りのソファーとガラステーブルが置かれていた。壁には抽象画が飾られている。書斎は和室で、床の間に掛け軸がかかっていた。本棚には、建築関係の専門書がぎっしりと並んでいる。

「ここで執筆できるね」

 文乃が言うと、直樹は目を輝かせた。

「ああ! いい環境だ」

 二階には、寝室が二つと、小さな物置。寝室は洋室で、ダブルベッドが置かれていた。窓からは庭が見下ろせる。

「ここが、僕たちの部屋だね」

 直樹が文乃の肩を抱いた。

「……ええ」

 文乃は頷いた。それほど広くはないが、二人で暮らすには充分だった。何より、明るくて開放的で、文乃は気に入った。

「じゃあ、荷物を片付けよう」

 とはいえ、荷物はほとんどなかった。避暑地の旅館を出る前に、最低限の着替えと日用品を買い揃えた。それだけが、二人の全財産だった。

「明日、もう少し買い物に行こう」

 新しい生活が、始まった。

 最初の数日は、家の中を整えることに費やした。文乃は台所で料理を作った。久しぶりに、自分のために料理をする。サナトリウムでは食堂で食べていたし、旅館では出されたものを食べていた。でも、自分で作る料理は、また違った喜びがあった。

「美味しい!」

 直樹が嬉しそうに食べてくれる。それが、文乃には嬉しかった。庭の手入れもした。雑草を抜いて、花に水をやる。土に触れていると、不思議と心が落ち着いた。直樹は書斎にこもって、執筆を始めた。カタカタとタイプライターの音が、家の中に響く。これが、普通の夫婦の生活なのかもしれない。文乃は、そんな風に思った。穏やかで、平凡で、幸せな日々。でも、この頃、文乃は体調を崩しがちになった。最初は、ただの疲れだと思っていた。逃避行の疲れ。新しい環境への適応。それが身体に出ているのだろう、と。でも、違った。朝、起きると、吐き気がした。

「うっ」

 文乃は洗面所に駆け込んで、胃の中のものを吐き出した。

「文乃? 大丈夫?」

 直樹が心配そうに背中をさすってくれる。

「ええ……ちょっと気持ち悪くて」

「食べ過ぎたかな?」

「かもしれないわ」

 でも、文乃は思い当たることがあった。月の物が、来ていない。逃げ出してから、もうひと月以上経つ。でも、一度も来ていなかった。最初は、ストレスのせいだと思っていた。あんな目に遭えば、身体のリズムが狂っても不思議ではない。でも、吐き気は続いた。朝だけではなく、昼も、夜も。何を食べても、気持ち悪い。食欲がなくなった。

「文乃、ちゃんと食べないと」

 直樹が心配する。

「ごめんなさい。どうしても、喉を通らないの」

 文乃は申し訳なく思った。せっかく作った料理を、半分も食べられない。微熱も続いていた。朝、起きると、身体がだるい。熱を測ると、37度を少し超えている。

「風邪かな?」

 直樹が額に手を当てる。

「そうかもしれないわ」

 でも、咳も鼻水も出ない。ただ、熱っぽくて、だるいだけ。文乃は、だんだんと確信を持ち始めていた。これは、妊娠の兆候なのではないか。

「赤ちゃん……私の赤ちゃん!」

 文乃の胸に、温かいものが広がった。赤ちゃん。自分の、赤ちゃん。直樹との、赤ちゃん。文乃の顔から、血の気が引いた。待って。いつ?直樹と関係を持ったのは、逃げ出してから。でも、その前に……阿部。文乃は、震えた。阿部と最後に会ったのは、攫われる前の週だった。あの時、いつものように関係を持った。そして、その次の週に攫われて、逃げ出した。直樹と関係を持ったのは、その後。時期的には……どちらの可能性もある。もし、阿部の子供だったら? いや、直樹の子供かもしれない。どちらか、分からない。でも、と文乃は思った。どちらであっても、この子は私の子供だ。大切に育てたい。愛したい。自分が得られなかった愛情を、この子には与えたい。二親分の愛をまとめて、大切にいつくしんで育ててあげたい。

「私の赤ちゃん……!」

 文乃は、嬉しさのあまり、その場でくるりと回った。まるでチークダンスをするように、ゆっくりと。自分のお腹を、そっと抱きしめて。

「僕たちのだよ、文乃」

 いつの間にか、背後に直樹がいた。

「あなた……!」

 文乃は驚いて振り返った。直樹がキッチンに入ってきたのに、気づかなかった。

「まだわからないのよ」

 慌てて言い訳をする。まだ確定したわけじゃない。ただの体調不良かもしれない。

「わかるまで、また励めばいい」

 直樹がにっこりと笑った。

「もう!」

 文乃は顔を赤らめた。

 でも、心の中では、複雑な思いが渦巻いていた。僕たちの、と言ってくれたこと。文乃は嬉しかった。でも、もしかしたら、阿部の子供かもしれない。その事実を、直樹に言うべきだろうか。言ったら、どうなる? 文乃は、迷った。せっかくの幸せな瞬間を、壊したくなかった。

「ねえ、文乃」

 直樹が文乃を抱きしめた。

「絶対に幸せにする」

 その言葉に、文乃は涙が出そうになった。この人は、私を愛してくれている。それだけは、確かだ。だから、大丈夫。きっと、大丈夫。文乃は、そう自分に言い聞かせた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ