選択
次の会食の夜。文乃が料亭に着くと、いつもと様子が違った。玄関に見慣れない男が二人立っている。黒いスーツに身を包み、鋭い目で周囲を警戒している。
「いらっしゃいませ」
女中が恭しく頭を下げたが、その表情も緊張していた。
案内されて奥座敷に入ると、阿部が既に座っていた。いつもより表情が険しい。
「来たか」
阿部は文乃を見て、短く言った。
「はい」
文乃は座った。テーブルの上には、まだ何も料理が運ばれていない。
「食事の前に、話がある」
阿部は煙草に火をつけた。紫煙がゆっくりと立ち上る。
「はい」
文乃は緊張した。何か悪いことでも言われるのだろうか。
「少し問題が起きている」
阿部は煙を吐き出しながら言った。
「問題、ですか?」
「仕事上のもめ事だ」
阿部の声は低く、静かだ。しかしその奥に、鋭い怒りが潜んでいるのが分かった。
「お前も知っての通り、俺は高利貸しをしている」
「……はい」
「この商売は、縄張りが大事だ。どこで誰に貸すか。それが全てだ」
阿部は煙草を灰皿に置いた。
「最近、南のほうで別の組織が動き始めた。俺の商圏に食い込もうとしている」
「そう、なんですか」
文乃には、その世界のことはよく分からなかった。ただ、阿部が普段より険しい表情をしていることだけは理解できた。
「向こうも本気だ。何人か、札付きのやくざを送り込んできた」
「危ないんですか?」
思わず聞いてしまった。阿部は少し驚いたように文乃を見た。
「……心配してくれるのか」
「だって」
文乃は言葉に詰まった。
心配している? 私が、この男を?
自分でも信じられなかった。でも確かに、阿部が危険な目に遭うかもしれないと聞いて、胸がざわついた。
「俺のことはいい。問題は、お前だ」
阿部は真剣な目で文乃を見た。
「お前にも用心棒をつける」
「私に、ですか?」
文乃は目を瞬かせた。
「ああ、お前が一番危ないからな」
「はあ」
なぜ? としか思えなかった。
「私は一人では出歩きませんし、普段はサナトリウムにおりますよ」
文乃は首を傾げた。阿部が狙われるのは分かる。でも、なぜ自分が?
「分かってないな」
阿部はため息をついた。
「お前は、俺の弱点だ」
「え?」
「相手は俺を潰すために、あらゆる手を使ってくる。直接俺に手を出せないなら、俺の大事なものを狙う」
阿部の言葉に、文乃は息をのんだ。
「大事な……もの?」
「お前だ」
阿部は淡々と言った。
「お前を攫えば、俺を揺さぶれる。連中はそう考えるだろう」
文乃は信じられなかった。自分が、阿部の弱点? 大事なもの?
「でも、私なんて……」
「お前は、俺の婚約者だ」
阿部は強い口調で言った。
「それだけで、充分に狙われる理由になる」
「そんな……」
文乃は混乱していた。
「だから、用心棒をつける。お前が出勤する時も、寮に戻る時も、常に誰かが見張っている」
「そこまでする必要が……」
「ある」
阿部は遮った。
「お前に何かあったら、俺は……」
阿部は言葉を切った。珍しく、感情を露わにしかけて、慌てて隠したようだった。
「とにかく、用心棒の指示には従え。何か不審なことがあれば、すぐに知らせろ」
「はい……」
文乃は頷いた。阿部の真剣さに、反論する気が失せた。
「それから」
阿部は文乃を見据えた。
「しばらく、会えないかもしれない」
「え?」
「問題が片付くまで、俺は動き回る必要がある」
阿部は立ち上がり、窓の外を見た。
「お前と会う時間も、場所も、予測されやすい。それは危険だ」
「じゃあ、今日も」
「今日は大丈夫だ。ここは信頼できる店だ。それに、外には俺の部下が何人もいる」
阿部は文乃に近づいた。
「だが、次はいつになるか分からない」
「そう、ですか」
文乃は複雑な気持ちだった。
会えなくなる。それを聞いて、少しだけ安堵した。毎週の強制的な逢瀬から解放される。
でも同時に、小さな寂しさも感じた。
この男と会えなくなる。それが、なぜか少しだけ寂しい。
「お前、何を考えている?」
阿部が文乃の顔を覗き込んだ。
「え? いえ」
「嘘をつくな。顔に出ている」
阿部は文乃の頬に手を当てた。
「俺と会えなくて、嬉しいのか?」
「そんな……」
「それとも、寂しいのか?」
阿部の問いに、文乃は答えられなかった。どっちなのか、自分でも分からなかった。
「まあいい」
阿部は文乃の頭を撫でた。
「どちらにしても、お前は俺のものだ。それは変わらない」
そう言って、阿部は文乃を抱き寄せた。
「問題が片付いたら、ちゃんと会いに来る」
「……はい」
「それまで、大人しくしていろ」
「はい」
文乃は阿部の胸に顔を埋めた。この男の腕の中は、不思議と安心する。強引で、理不尽で、怖いはずなのに。でも今は、この腕の中が一番安全な場所に思えた。
「心配するな」
阿部が文乃の背中を撫でた。
「俺は、お前を守る」
その言葉に、文乃の胸が熱くなった。この人は自分の命が危険にさらされているのに、私を守ろうとしている。
「あなたこそ、気をつけてください」
文乃は小さく言った。
「怪我とか、しないでくださいね」
阿部の動きが止まった。
「……お前」
「はい?」
「今、俺を心配したのか?」
阿部の声に、驚きが混じっていた。
「それは……」
文乃は顔を上げた。阿部の目が、いつもより優しく見えた。
「当たり前じゃないですか」
文乃は小さく笑った。
「婚約者なんでしょう?」
その言葉に、阿部の表情が緩んだ。
「……そうだな」
阿部は文乃を強く抱きしめた。
「お前は、俺の婚約者だ」
その夜はいつもとは違う、穏やかな時間だった。帰り際、阿部は文乃にもう一度念を押した。
「用心棒の指示には、必ず従え」
「はい」
「不審なことがあれば、すぐに知らせろ」
「はい」
「それから……」
阿部は文乃の手を取った。
「無事でいろ」
その言葉に込められた切実さに、文乃は胸が詰まった。
「あなたも」
文乃は阿部の手を握り返した。
「無事で、いてください」
最初の頃のような緊張や恐怖はない。代わりにあるのは、言葉にできない複雑な感情。それが何なのか、文乃にはまだ分からなかった。でも確かなことが一つ。この男のことを、もう完全には嫌いになれない。そして、この男が無事でいてほしいと、心から願っている。
私はこのままこの男が好きなんだろうか。それともただほだされているだけなんだろうか。一人、寮の部屋で文乃は悩んだ。これ以上、優しくしないで欲しい。嫌えないから。時々見せる優しさに、どうしようもない憤りを覚えた。どうせ逃げられないなら諦めて好きになってしまうのが、一番合理的だろう、と冷めた自分が考える。でもそれでいいのかと、傷ついた子供である自分が泣いて訴える。かつて私が傷つけて報復のように関係を迫った相手なのに、このまま流されてほだされてしまうのか。そうなってもいいなと思っていたのに、直樹の言葉が頭から離れない。思えば私の人生で、自分で決めたことはあったんだろうか? 看護学校の話も、噂が広まって、あの村に居られなくなった頃に、学校の先生が勧めてくれたのだ。親戚の家に預けられたのも親たちの都合だった。自分には選択肢が無く、その時々に流されてこのまま来た。それでいいのか? 心の中で嵐が起きる。いいの。このままで。あの日、阿部を傷つけた贖罪なんだから。そう思う心と、でも自由になって、誰もいない場所で、普通の女の子として新しく人生をスタートしたいという思い。直樹とのデートは、すごく楽しかった。都会の女の子はこんな生活ができるんだと羨ましくなった。
その夜の帰り際、いつもと違った。阿部が途中でどこかに呼び出され、文乃だけ残って食事を終え、料亭の玄関で待っていた。いつもなら、阿部が手配したタクシーが迎えに来るし、用心棒が二人控えている。タクシーは時間に正確で、一度も遅れたことはなかったし、用心棒も最近は必ず入り口に立っていた。しかし今夜は、待てど暮らせどタクシーが来ないし、用心棒も居ない。
「おかしいな……」
文乃は時計を確認した。既に十五分が過ぎている。玄関の外は暗く、街灯の光が心細く道を照らしているだけだった。人通りも少ない。料亭の周りは静かで、時々遠くから車の音が聞こえるくらいだ。
「お客様、お車がまだのようですが……」
女中が心配そうに声をかけてきた。
「はい。少し遅れているようです」
文乃は笑顔で答えたが、内心は不安だった。阿部の言葉を思い出す。「お前が一番危ない」まさか、何か起きたのだろうか。
「中でお待ちになりますか?」
「いえ、大丈夫です。もう少し待ってみます」
文乃は外に出た。夜風が冷たい。
道の向こうに、黒い車が停まっているのが見えた。タクシーかと思い、文乃は少し歩いてみた。その時だ。背後から、足音が近づいてきた。
「誰ですか?」
文乃は振り返った。そこには、見知らぬ男が立っていた。背が高く、がっしりとした体格。顔は影になっていて、よく見えない。
「え?」
男が一歩近づく。文乃は本能的に後ずさりした。
「ちょっと、来てもらおうか」
男の声は低く、威圧的だった。
「誰ですか? 私は……」
「騒ぐな」
男がさらに近づく。文乃は悲鳴を上げようとした。その瞬間、背後からも別の男が現れた。文乃の口に、何かが押し当てられた。キツい臭いのするガーゼ。
「んんっ!」
文乃は必死で抵抗した。暴れて、逃げようとした。でも力では敵わない。
「大人しくしろ」
男の声が遠くなっていく。視界がぼやけて、力が入らなくなっていく。意識が薄れていく中で、文乃は考えた。阿部の言った通りだった。狙われた。用心棒は? どこに? 助けて……そこで、意識が途切れた。
次に目が覚めた時、文乃は真っ暗な場所にいた。頭が重い。鈍い痛みが後頭部に広がっている。目を開けると、かすかに月明かりが差し込んでいた。ここは……どこ? 文乃は身体を動かそうとして、できないことに気づいた。両手が、後ろで縛られている。荒縄が皮膚に食い込んで痛い。足も縛られていた。動けない。さるぐつわまでされている。声が出せない。文乃は周囲を見回した。納屋、のような場所だった。古い木の匂いがする。壁は板張りで、隙間から外の光が漏れている。真ん中に太い柱があり、文乃はその柱にもたれかかるように縛られていた。誰もいない。何の音もしない。恐怖が、じわじわと這い上がってくる。
どうしよう。ここはどこ? 誰が私を? 必死で考えた。阿部が言っていた敵対勢力。彼らに攫われたのだろうか。だとしたら、目的は?阿部を揺さぶるため? それとも……文乃はハッとして、自分の服を確認した。ワンピースは乱れていない。下着も無事だ。乱暴はされていないようだ。ほっとして、すぐに自己嫌悪に襲われた。さんざん阿部に抱かれた身体なのに、今更貞操を心配するなんて。それでも、知らない男たちに襲われるよりはマシだと思ってしまう自分がいた。文乃は縄を解こうとした。腕をよじる。手首を回す。でも、縄は固く結ばれていて、動かせば動かすほど皮膚に食い込む。痛い。文乃は力を抜いた。無駄な抵抗はやめよう。体力を消耗するだけだ。代わりに、耳を澄ませた。何か音はしないか。人の気配はないか。でも、聞こえてくるのは風の音だけだ。ここは人里離れた場所なのだろう。幸い、それほど寒くはない。でも、このまま一晩中ここにいたら、凍えてしまうかもしれない。涙が込み上げてきた。なんで私がこんな目に。必死で涙をこらえた。泣いても無駄だ。誰も助けてくれない。でも、涙は止まらなかった。さるぐつわをしているから、顔を拭くこともできない。涙が頬を伝い、顎から滴り落ちる。怖い。暗い。寒い。痛い。誰か、助けて。
文乃は驚いた。助けて欲しいと思った時、頭に浮かんだのは阿部だった。あの人は、来てくれるだろうか。私を助けに来てくれるだろうか。でも、これは罠かもしれない。私を攫って、阿部をおびき出す罠。もし来たら、危険にさらされる。来ないで。でも、助けて。文乃の心は混乱していた。時間だけが、ゆっくりと過ぎていく。文乃は、耐えるしかなかった。
待って、泣いて、泣きつかれて眠り、身体の痛みで起きる。月明かりが陰り、やがて空が白んでくる。夜が明けようとしていた。その時、遠くから物音がした。文乃は目を見開いた。
車のエンジン音。足音。誰かが来る。助けが来たのか。それとも、攫った犯人たちが戻ってきたのか。心臓が早鐘を打った。重たい音を立てて、引き戸が開けられた。鋭い光が目を刺す。朝日だ。文乃は顔をしかめながら、光の奥の人影を見た。逆光で、顔がよく見えない。
でも、その大きなシルエットに、文乃は気づいた。阿部だ。阿部が、来てくれた。
白いワイシャツが腕に張り付いている。汗をかいているのだろう。オールバックの髪が乱れている。乱闘をしたのか、殴られたような傷もある。それでも駆けつけてきたのだ。私を助けに。
「大丈夫か!」
阿部の声が、納屋に響いた。文乃は、涙があふれて止まらなくなった。阿部は文乃の猿ぐつわを外し、手足を縛る縄をほどきにかかった。心細くて怖くて、そばにいて欲しい。来てくれてありがとう。そんな可愛い言葉は出ず、文乃の口から飛び出たのは。
「なんで来たの? 危なくないの? 私をさらって、あなたをおびき出すつもりなんでしょ?」
「だからなんだ! お前のことが一番だろう!」
怒鳴られたのに、怖くはなかった。
「どうしてここがわかったの?」
「逃げるぞ。乗れ」
阿部に背負ってもらい、文乃は汗ばんだ阿部の背に頬を付けた。阿部は答えなかったが、裏の世界だし、いろいろあるのだろう。この人は不器用な人なのだ。やったことは許せないし、危険な人。でも私を助けようとしている人。
にわかに外が騒がしくなり、車が急ブレーキをかけて止まる音や、複数人の声がした。文乃は恐怖で阿部の背にギュッと掴まる。
「大丈夫だ、うちの手のもののはずだ」
安心させるように声をかけるが、乱闘しているような物音に、阿部の声もこわばった。
「念のため見てくるからここに居ろ」
文乃を背からおろし、物陰に隠そうとした。そうこうしていると誰かの駆けてくる音が近した。
「文乃! 文乃!」
若い男の声だ。引き戸が勢いよく開く。
「文乃!」
息を切らせて駆け込んできたのは、直樹だった。髪は乱れ、スーツはしわだらけ。普段の洒落た様子とは程遠い、必死な姿だった。
「は? 直樹さん?」
文乃は目を瞬かせた。何でここに? と驚いた。阿部も殴りかかろうとしていたのを止めて、直樹を見つめる。
「よかった……無事だったんだ……」
直樹は安堵の表情を浮かべた。しかしすぐに、阿部の存在に気づいて表情を変えた。
「お前……!」
阿部は低い声で唸った。
「どういうつもりだ」
「文乃を助けに来たんだ」
直樹は堂々と答えた。
「僕は文乃が心配で……サナトリウムに来なかった時点で、嫌な予感がしたんだ」
「それで、どうやってここが分かった?」
阿部の目が鋭くなる。
「僕の父親は、この辺りの地主なんだ。放蕩息子だけど、情報網はある」
直樹は阿部を睨み返した。
「あんたの商売敵が動いてるって聞いた。そして、あんたの婚約者が攫われたって噂を聞いた」
「……」
「それで、あちこち聞いて回って、ここを突き止めたんだ」
直樹の言葉に、阿部は黙った。文乃は二人を見比べていた。混乱していた。阿部が助けに来てくれた。それは分かる。用心棒をつけると言っていたし、自分を大事に思っていると言っていた。でも、直樹まで来た。患者であるはずの直樹が、病院を抜け出して、自分を探してくれた。確かに好きだって言ってたけど、この人ここまで本気だったの?
「文乃、大丈夫? 怪我は?」
直樹が文乃に近づこうとした。
「近づくな」
阿部が文乃をかばうように立ちはだかった。
「何だって?」
「文乃は俺のものだ。お前には関係ない」
「関係ある!」
直樹が声を荒げた。
「僕は文乃が好きなんだ! あんたに売られて、無理やり婚約させられた文乃を、僕が開放する」
「黙れ」
阿部の声が、納屋に響いた。
「お前に、何が分かる」
「分かるよ!」
直樹は一歩も引かなかった。
「文乃の顔を見ればわかる。あんたといて幸せそうじゃない。いつも作り笑いをしている」
「……」
「文乃は、自由になりたいんだ。あんたから、この息苦しい人生から」
直樹の言葉に、阿部の拳が固く握られた。
直樹が文乃に手を伸ばす。
「僕と逃げよう。新しい人生を始めよう」
文乃は呆然としていた。
二人の男が、自分を取り合っている。一人は、自分を強引に奪った男。でも、助けに来てくれた男。信じてくれた男。もう一人は、優しい言葉をかけてくれる男。自由を与えてくれると言う男。どちらを選べばいいのか。直樹は文乃の手を取り、自分のほうへ引っ張り寄せた。少しよろけた文乃を見て阿部が怒鳴る。
「文乃は怪我をしている。乱暴に扱うな」
「あんたが言うな! あんたこそ、文乃をずっと乱暴に扱ってきたじゃないか!」
直樹の言葉に、阿部の顔が歪んだ。図星だったのだろう。
「文乃!」
直樹が文乃の名を呼ぶ。
「僕と来るか、それともこの男のところに残るか、自分で決めるんだ!」
文乃は、ハッとした。自分で、決める。あの時、直樹が言った言葉。
「文乃」
阿部が低い声で呼んだ。文乃は阿部を見上げた。阿部の目には、複雑な感情が渦巻いていた。怒り、不安、そして……哀しみ?
「お前は、どうしたい」
阿部が聞いた。
「俺は、お前を離すつもりはない。だが」
阿部は言葉を切った。
「お前が、本当に嫌なら。お前が選んだ相手が俺で無いなら……」
その言葉に、文乃は驚いた。この男が、自分の意志を聞いている。今まで、一度もなかったことだ。阿部の声が、震えていた。
「私は、その……」
でも、何を言えばいいのか分からなかった。自分の気持ちが、分からなかった。阿部のことを、憎んでいる? いや、もう憎めない。直樹のことを、好き? 分からない。でも、嫌いではない。
「行こう!」
直樹がもう一度文乃の手を引いた。文乃はよろけて、二、三歩、直樹の方へと歩いた。
「いや、行かな……」
文乃は阿部を振り返った。阿部は、動かなかった。ただ、斜め下を見て、きつく目をつぶっていた。その姿が、酷く哀しげに見えた。
「すぐに警察が来るんだ!」
直樹が急かす。
「あんただって厄介なことになるだろう。ここから去ったほうがいい」
直樹の言葉に、文乃はハッとした。そうだ。阿部は、やくざと繋がりがある。高利貸しだ。警察が来たら、面倒なことになる。
「阿部さん……」
文乃は阿部を見た。阿部は、顔を上げなかった。
「行け」
短い一言。
「でも」
「行け」
もう一度、同じ言葉。文乃は、迷った。このまま、阿部と残るべきか。それとも、直樹と逃げるべきか。心の中で、二つの声が戦っていた。阿部のところに残れ。この人は、あなたを守ってくれる。信じてくれる。逃げろ。自由になれ。新しい人生を始めろ。文乃は、一度、深呼吸をした。そして、決めた。自分で、決めた。少しの逡巡のあと、文乃は直樹の手を強く握った。
「……行きます」
小さく、でもはっきりと言った。阿部の身体が、ビクリと震えた。でも、阿部は何も言わなかった。顔も上げなかった。
「ごめんなさい」
文乃は涙声で言った。
「本当に、ごめんなさい」
そして、直樹に引かれるまま、走り出した。自分の選択は絶対に間違っている。絶対に阿部と一緒に居るべきだった。この人こそ、私の婚約者で本当に幸せにしてくれる人だった。
そう思うのに。唐突に幸せになってはいけない気がしてしまった。一度は傷つけたこの人に甘えるのはダメじゃないかと。私は不幸にならなけば行けない。地獄に落ちるように、自分で選んだ。
それでも不思議なことに、駆け出した途端、希望が芽生えた。新しい街で、新しく生きる。こんな娼婦みたいな日々じゃなく。阿部をどうしようもなく傷つけて、それでも選んだ。走っている途中、文乃は泣いていた。同時に、笑っていた。笑って、走って、泣いて。乃は自分がどう思っているのか分からなかった。ただ、前を向いて走るしかなかった。後ろを振り返ってはいけない。振り返ったら、きっと戻ってしまう。だから、前だけを見て、走り続けた。
直樹と二人で出かけた時は、本当に楽しかった。でもそれは恋人の好意ではなくて、親しい友人同士のそれだと、文乃は気づいていた。たいして直樹は自分に好意をいだいていることも、肉欲の熱もあるということも。こうして逃げれば私は、この男とも寝ることになるのかな。ひどく冷静な自分が居た。




