呪われた椿
故郷の冬は長く白い。朝とも夜とも似つかない薄くぼんやりとした夜明け前、白い深い雪の中に唯一咲いた赤い山椿が、文乃にとって希望の象徴で、呪いでもあった。
まだほかの花々も木々も目を覚まさない緑が死に絶えた季節にきりりと鮮やかな赤。辛い冬が終わりに近づいてきた合図だった。母が好きだった椿は、思い出の証だ。母が死んでからも椿は変わらず咲く。
文乃、十歳。三年前に身重の母が事故で死亡。文乃の父は農家の一人息子で、祖父母と三人で米農家をしていた。まだ幼い文乃は父の弟にあたる親戚へと預けられたのだ。表立って虐められることはなかったが、肩身が狭くいつも気を使っていた。文乃自身ただでさえ、あまり身体が丈夫なほうではなくすぐ熱を出してしまう子どもだったから、良い顔はされない。迷惑をかけぬよう、うるさくして怒られないよう、息をひそめて春を待つ。古い家の茶の間の裸電球の下、おばが夜遅く自分の子供たちの破れたズボンを繕う姿を思い出す。文乃は熱に浮かされて眠れずふすまの隙間からそれを見るともなしにみていた。農家の仕事は忙しく、家の子供達もほったらかしに近い。それでもまっすぐに甘えられる相手がいることが文乃はとても羨ましかった。
そんな生活も文乃が家事を出来るようになった時に終わりを告げた。文乃は家に帰りたくて必死で家事を覚えた。覚えれば覚えるほど、親戚の家でも重宝がられ、もっと居て良いと言われたのだが、文乃の祖父母はそれを断った。家事が出来るならと、文乃は家に戻されたのだ。それでも理由をつけてよく手伝いには行かされていたが。
その日は、寒かった。お年夜の晩で、文乃は神社へお神酒の奉納へと向かった。毎年十二月十七日はお年夜といい氏神様の神社での祭りがある。来年の五穀豊穣の祈りと、一年のお礼をする日、と文乃は聞いていた。お神酒のほかに餅や菓子、するめなどを奉納し、最後は氏子の飲み会がある。村の男たちの冬の数少ない楽しみだ。
本来ならば家の主、つまり父か祖父の仕事だ。しかし文乃の父は酒蔵から戻らず、祖父は腰を壊して寝ていた。その後の酒飲みを楽しみに、ぎりぎりまで行こうとしていたのだが、お堂までの急で長い階段をこの腰で登るのは誰がどう考えても無理だった。だが、家からは誰かが行かなければいけない。
今年の当番で、寒く凍えるお堂で旧式のストーブを焚いたり、するめをあぶったりする仕事もあるのだ。文乃に白羽の矢が立った。
当番の仕事は順調とは言い難かった。鍵を開けるのに苦労をしたり、旧式のストーブを真ん中にひきずりだすのも大変だった。凍える手で操作するものの、ストーブが上手くつかない。泣きそうになっていたら男の声がして、隣に誰かがしゃがみこんだ。
「どれ、変わってやる」
「え」
ふわりと男物の香水の匂いが文乃の鼻先をくすぐる。顔は見えないが、大柄の男性だった
「これでいい」
男性は手慣れた様子でダイヤルを回し、火の芯を調整する。ほどなくして火がついて、文乃はほっとした。
「ありがとうございます。助かりました」
笑顔でお礼を言うと、男が目を瞬かせた。
「彩乃?」
「いいえ、違いますが」
かすれた声で聞かれ、文乃はなんてこともないように軽く否定した。否定してすぐ、思い出した。
「彩乃は母の名前です。母と知り合いなんですか?」
男が何か言う前に、文乃が無邪気に問いかける。
「いや、まあ、そうだな」
男はとっさに否定してから、ゆっくりと肯定した。
「そうか、あいつと彩乃の娘か」
男は目を細めて文乃を見つめる。
「父のことも知っているんですか?」
「まあな。きみは文乃とよく似ているな」
「そうですか?」
自然と顔が緩んだ。
「嬉しいです」
自分と母がそっくりというのは、確かに母が生きた証拠のようだと思った。
「あいつはどうした? 普通男が来るものだろう?」
「父は今年帰れなくて、祖父は腰を痛めていて……でも当番なので私が代わりに来たんです」
「そうか」
「もう少しで皆さんが来るんですよね? ストーブにやかんをかければいいですか?」
「そうだな、ほら」
男性は、言葉少なく文乃の手伝いをしてくれた。優しい人だな。でもこの人は誰だろう?
助けてもらってほっとしたが、正直誰だか分らなかった。ここは村の神社で、村の人間の顔はほとんど覚えている。誰か、都会に出ていた人だろうか。文乃が手を止めてまじまじと見ていることに気づき、男性は、なんだ? というように眉をあげた。
「あの、どこのおうちなんですか?」
「ああ、俺はここのものじゃないんだ。ちょっと今日はここの神主に用があってきただけだ。明かりがついていたからこっちにいるかと思ってきた」
「そうだったんですか、お客様なのにすみません。じゃあやり方を知らないですよね」
「いや、どこもたいてい同じだ。それに大したことはしていないからいい」
男は言葉を切って、
「母が居なくて大丈夫なのか? 辛くはないか?」
と聞いてきた。
「え?」
「あいつ、杜氏だろう。冬は親戚に預けられていると聞いた」
「ええ、まあそうです」
踏み込んだことを聞かれ、戸惑ったが文乃はため息とともに肯定した。狭い村の中で、特殊な立ち位置にいるのだ。噂が知れ渡っていてもおかしくない。普段は、強がって笑顔で辛くはないと答える。他人は口だけで、好奇心だけで話しかけることがよくわかっていた。でも男の視線に、文乃を本気で心配するような光を見た。もしかしたらこの人なら、私を助けてくれる? いつもどこか、身の置き場の無さを感じて、良い子を演じなければいけないこと。そうすれば楽になることもわかっているのだけど、時には思うままにわがままを言って、親戚の子供のように母親を困らせたいこと。困りながらも、しょうがない子ねと肯定してもらいたいこと。でもそもそも母のいない文乃にはそんなことができないとわかっているのだが。
「辛くはない、と言えば嘘になりますけど」
男の目を見て、思い切って言ってみる。続きを促すように男は顔を傾ける。
「……でも、私はまだ子供で誰かの世話になる必要がありますから」
一瞬悩んで、やはり強がることにした。家事が出来るようになって、文乃は親戚に頼りにされるようになった。ここに居ても良いと認められた気がして嬉しかったし、もっと家事を覚えれば家に帰れるかもしれないのだから。
「そうか。私が世話をすると言ったらどうする?」
「え?」
思いがけないことを言われて、面食らった。
「彩乃の忘れ形見だろう。知らぬ仲ではない」
自分越しに誰かを見つめるような、まぶしいものを見るような視線がどうも落ち着かない。
「おじさんは、私の親戚か何かですか?」
「おじさんという歳でもないんだが。まあそうだな、お前くらいの年頃から見ればそうだろうな」
「あの、すみません?」
「歳の割には老けて見えるとよく言われるんだ」
「そ、それは失礼しました」
「いやいい」
阿部が実際にどのくらい歳が離れているのか、文乃にはわからなかった。ただ自分に関心を持ってくれた大人、という意味で若干の好意は抱いていた。洋物の香水をつけた、都会の大人の男性に自分の世界との違いを感じながら。それから時々、阿部を見かけることがあり、何度か話すようになった。二言、三言。文乃にとっては年上のおじさんで、顔見知り程度の存在だ。文乃は、旅館にお手伝いに行くようになり、宴会によく阿部が来ていた。阿部は年上だし、そんなに愛想の良い人間ではない。無口で口下手だ。でも嫌いではなかった。
宴会の騒ぎの中、静かに日本酒を飲んでいる。よほど強いのだろう。酔った様子を見たことが無かった。時には菓子のお土産を渡してくれることもあった。
「これはどこのお菓子なんですか?」
「オーストリアだ。菫の砂糖漬けだと書いてある」
「へぇ」
英語でもない、文乃には読めない言葉で書かれた外国語のお菓子をもらって、文乃は少し恐縮した。この男はどうしてここまで私に優しくしてくれるんだろう? 両親の知り合いだからだろうか。よくわからないまま、申し訳なく思う気持ちと、素直にうれしく思う気持ちがどちらもあった。ただ薄々は気づいていた。阿部の好意の重さに。
文乃はそれとなく父に尋ねる。
「お父さん、結婚ってどう?」
「は?」
文乃の父は、飲んでいた酒を誤飲して、咳を何度もした。
「誰か好きなやつがいるのか? 学校の男か?」
「ううん、違うんだけど」
文乃はこの時初めて、阿部の話を父親にした。親戚でない阿部が文乃と関わる方法は結婚だけだろうと、文乃なりに考えたのだ。
「あの男は絶対にダメだ。ふみ、あいつはお前をあやの代わりにしたいだけだ」
「お母さんの?」
「ああ」
父が話してくれたのは、恋敵として母を取り合った話だ。なんだ、私が好きなんじゃないんだ。そんな失望が文乃の中に広がった。年上の裕福でハンサムな男から好意を寄せられることは、文乃にとってはそこまで悪い気分でもなかった。自分に価値があるように感じてむしろ誇らしいとさえ思えた。もしかしたら、阿部が無理強いをしなかったのも良かったのだろう。それなのに、父から事情を聞き、急速に失望が広がった。
「とにかく、まだ早すぎる。馬鹿なことを考えるな」
「私はお母さんの代わりなんですか?」
次に阿部と会った時、文乃は単刀直入に聞いた。
「父親から聞いたのか?」
「はい」
「どこまで聞いた?」
「お父さんとお母さんを取り合ったことです。私はお母さんの代わりなんですか?」
もう一度同じ言葉を繰り返す。阿部は自分の顔を左手で覆うと、空を仰いだ。
「タバコを吸っていいか?」
文乃に隣に座るようにうながし、大きくため息をついた。
「初めて会った時、あやに似ていて、すぐにわかった。だが、あやの娘だからといって、身代わりにするつもりはない」
「じゃあなんでですか? 私のことが好きで結婚したいってことですか?」
文乃は阿部から感じる好意に名前と根拠をつけたかった。家族からあまりもらえていない愛情を存分にもらえる相手なのか、知りたかった。
「それは……」
阿部は言いよどみ、たばこの煙を深く吸って、ゆっくりと吐き出した。
「どうしてですか? どうしてこんなに優しくしてくれるんですか?」
阿部はなぜ高価なお土産をくれるのか。自分とどんな関係になりたいのか。知りたかった。
「お前は俺を怖がらないだろう」
「え?」
「今もまっすぐに俺の目を見て話す。だからだ」
「そ、そんな理由で?」
「ああ」
馬鹿じゃないの? この人、大人なのに変だわ。文乃は阿部の答えが理解できなかった。それは態度に出ていたのだろう。阿部は肩をすくめた。
「お前は子供でわからないだろうが、大人にはいろいろあるんだ」
「そうなんですか?」
「ああ。そうだな。いつかお前が俺を好きになって、嫁になってくれたら嬉しい。
だがそれは今じゃなくて、お前が大人になったらだ」
「え? 私が大人になる頃なら、おじいさんになりませんか?」
「失礼だな。そこまで年上じゃないぞ」
「え?!」
阿部は自分と文乃が9つしか離れていないと説明した。しかし文乃にとっての9つはかなり年上だ。おじさんじゃないか、と思ったが、失礼だと思って我慢した。
何がきっかけになったのかはわからないが、たぶんあの打ち明け話をした日から。阿部との関係が変わり始めたのかもしれない。文乃は阿部と自分を隔てる見えない壁が薄くなるような不思議な感覚がした。阿部がほんの少しだけ歩み寄りを見せ、肩の力を抜いて話すようになった気がしたのだ。それに嫁にとは言われたが、阿部は文乃が不安になるほど、積極的になることもなく、紳士的な態度を貫いてくれる。そのため文乃は阿部に心を許していった。
うだるような夏の昼下がりに文乃が学校から一人帰っていると、ちょうどひと気の無い場所で、一台の車が文乃の前に停まった。
「文乃、今帰りか」
阿部が車から声をかける。阿部は運転手付きの黒塗りの車に乗っている。乗れ、というようにドアが開けられ、文乃はおびえることなく車に乗り込んだ。隣に座るとスーツ姿の阿部の香水の香りがする。車内はひんやりと涼しい。
「こんにちは。お仕事中ですか?」
「ああ、出先から戻るところだ」
阿部はそう言いながら文乃にハンカチを渡した。
「汗をかいてるぞ。顔も赤い」
「え、あ。ありがとうございます」
ハンカチを受け取り、素直に汗を拭く。拭きながら、汗臭い自分と、上等なスーツで整髪料と香水の香りのする阿部があまりにちぐはぐな気がして、恥ずかしくなった。
「すみません、汗臭くなっちゃいますから洗って返しますね」
「別に返さなくてもいい。そのまま捨てろ」
「そんなわけには」
明らかに高そうな素材のハンカチで、文乃は口ごもる。買って返そうにも、自分の小遣いで足りるだろうか。どうしよう。
「子供は気にしなくてもいい」
阿部は文乃の迷いを見透かしたように、文乃の手からハンカチをもぎ取った。
「気に病むようなら、家政婦に洗わせるから気にするな」
「……ありがとうございます」
会話は途切れ、しばらく沈黙。車は文乃の家のほうへと進んでいく。なんでこの男は私を嫁にもらおうとするんだろう? 本当にどこがいいんだろう? 文乃は阿部の横顔を盗み見た。
「今度、飯を食いに行くか。家まで迎えに行く」
「お父さんから怒られちゃいますよ?」
「そうだろうな。だが別に構わない」
「私が困ります。私も怒られちゃうから」
「でも俺と会っているだろう?」
くすっと阿部が笑った。問われて初めて文乃は自分が父親に逆らっていることに気づいた。父から止められた相手と自分の意志で会っている。
「人の成長は早い。お前はもうすぐ子供ではなくなる」
「ええ、と」
それは。見つめられて息をのむ。
「だからその時が来たら、俺との未来を考えてくれ」
「はい」
小さく返事をする。
静かで単調な生活が崩れたのは文乃が十四のときだ。春の夜、文乃は件の親戚の家に泊まっていた。法事の前日で、朝から手伝いをしていてすごく疲れた。お盆に料理のせて運んでいる時、急に通せんぼされた。
「お前、良い体つきをしてきたよな」
文乃の従兄弟である良夫だ。無遠慮な行為と言葉に、文乃の顔はこわばっる。
「どれ」
遠慮なく文乃の尻に伸ばされた手を、文乃はさっとかわす。良夫は懲りずににじり寄る。「どれだけ成長したか、確かめてやるよ」
「料理を運ばないといけないので」
最小限の動きで、良夫から離れ、距離を取る。顔は笑顔で、警戒しながら。文乃は小走りに良夫から逃げた。良夫の視線におびえつつ、文乃は一日中働いた。真夜中、布団の中で何かの気配を感じて目を覚ました。隣に誰かが潜り込んでいる。
「文乃」
良夫の声だった。良夫は文乃の背中を抱きしめる。首筋に酒臭い息がかかった。
「やめて」
小さく言ったが、良夫は聞かなかった。
「気持ちいいことをしてやるよ」
「お断りします」
文乃は布団から抜け出そうとしたが、腕を掴まれた。
「嫌がるなよ。ちょっと我慢してたらすぐ終わるからさぁ」
良夫の手が文乃の肩に這う。文乃は必死で振り払い、布団から転がり出た。
「やめてください!」
声を荒げると、良夫の顔が歪んだ。
「声を出すな。みんな起きるだろ」
「起きてもらったほうがいいわ」
文乃は部屋を飛び出した。良夫は追ってこなかったが、廊下で途方に暮れてしまった。
文乃は誰にも言えなかった。言ったらどうなる? 良夫が怒られる? それとも自分が誘ったと思われる? 文乃は結局黙っていることを選んだ。それが良夫を増長させることになってしまった。隙あらば手を出そうとしてくる良夫を避けるが、良夫もしつこかった。
初夏、雨の夜。
文乃が一人で帰っていると、良夫が待ち伏せしていた。
「文乃」
「良夫さん?」
文乃の心臓が跳ねる。
「なあ、おい。いつまでじらすんだよ。どうせ俺たちは結婚するんだぞ」
「え? そんなことは」
「母ちゃんたちが言ってた。年頃だしちょうどいいって」
「私は、その」
「だからさ、ちょっと味見してもバチは当たんねぇんだよ。そこでさ、ほら」
良夫が一歩近づく。文乃は後ずさる。
「ごめんなさい」
文乃は踵を返して走り出した。雨が強くなり、視界が悪い。足元がおぼつかない。
「待てよ!」
良夫が追ってくる。文乃は必死で走った。気づいたら神社の境内にいた。階段を駆け上がり、お堂の影に隠れる。息が切れて、心臓が破裂しそうだった。雨音に紛れて、足音が近づいてくる。
「文乃、どこだ?」
良夫の声。文乃は息を殺した。
「いるんだろ? 出てこいよ」
文乃は震えた。どうしよう。このまま見つかったら。そのとき、別の足音が聞こえた。
「文乃?」
阿部だった。阿部は雨に濡れ泣きながら小さく隠れる文乃と、追いかける良夫を見て、何かを察したようだ。
「お前、何をしているんだ?」
阿部が歩き回る良夫に声をかける。
「あ、いや、その」
良夫は言葉に詰まった。
「帰れ。こんな雨の中、危ないぞ」
阿部の低い声。良夫は何か言いかけたが、結局何も言わず去っていった。文乃は影から出られなかった。阿部に見られたくない。このずぶ濡れの惨めな姿を。
「出てこい」
後ろを見ずに阿部が言った。
「いるのは分かっている」
文乃は観念して影から出た。
「……ずぶ濡れじゃないか」
阿部は上着を脱いで文乃の肩にかけた。
「ありがとうございます」
文乃の声は震えていた。寒さのせいか、恐怖のせいか、自分でも分からなかった。
「何があった?」
「……何も」
「嘘をつくな」
阿部の声は優しかった。それが文乃の心を崩した。
「私、どうしたらいいか分からないんです」
涙があふれた。雨と涙で顔がぐちゃぐちゃになる。泣きながらぽつりぽつりと今までのことをすべて話した。
「……どこにも居場所がなくて、誰も私を守ってくれなくて」
「俺が守る」
阿部が言った。
「お前が望むなら、俺が守ってやる」
その言葉が、文乃の最後の理性を壊した。
「じゃあ、私を抱いて」
文乃は自分でも信じられない言葉を口にした。
「は、おい? 何を言っている?」
「抱いてください。お願いします」
文乃は阿部にしがみついた。
「もう何もかも嫌なんです。誰かに必要とされたい。誰かに欲しいと言われたい」
「落ち着け」
阿部は文乃を引き離そうとしたが、文乃は離れなかった。
「お願いします。私を抱いて。私を欲しいって言ったじゃないですか」
「お前は子供だ」
「もう子供じゃありません」
文乃は阿部の胸ぐらをつかんで引き寄せると、阿部の唇に自分の唇を重ねた。阿部は一瞬固まった。そして、ゆっくりと文乃を抱きしめて、キスを深める。雨音だけが世界を満たしていた。無言のままお堂の中へ入ると、阿部は着ていたスーツを脱いで床に敷いた。そこに文乃がそっと横たわる。ブラウスのボタンをはずす。ネクタイを緩めながら阿部が文乃にのしかかった。
その時、お堂の戸が開いた。
「文乃!」
父の声だった。おじとおばも一緒だ。良夫もいた。良夫は家に駆け戻り、みんなを連れてきたのだ。
「なんだこれは!」
父が阿部を睨む。
「お前、文乃に何をした!」
「良夫というものがありながら! 母親譲りの淫売が!」
おばが文乃を罵った時、文乃は咄嗟に叫んだ。
「ち、違います。襲われたんです!」
みんなにあられもない姿を見られた恥ずかしさと、自己保身。絶対に言ってはならない一言を口走ってしまい、阿部の顔が凍りついた。
「この人に襲われました!」
出してしまった言葉を引っ込められず、文乃は泣き叫んだ。自分が何を言っているか分かっていた。でも止められなかった。
「お前……」
阿部が文乃を見た。その目には、深い失望と怒りがあった。
「許さん!」
父が阿部に殴りかかろうとしたが、おじが止めた。
「警察に突き出してやる!」
「待て」
阿部が低い声で言った。大きくため息をつき、阿部は文乃から離れた。
「示談にしよう。金は払う」
「金で済む問題か!」
「娘さんの将来を考えろ。こんなこと、噂になったらどうなる?」
父は歯ぎしりをした。
「いくら出す?」
「希望額を言え」
そこからのやりとりはよく覚えていない。金額が決まり、阿部は去っていった。罪悪感が胸を締め付ける。私は何をしたんだろう。あの人を、あんなに傷つけて。でも、真実は言えない。良夫のことも、自分から誘ったことも。文乃は膝を抱えて泣いた。
秋が深まり、冬が来た。
「東京の看護学校?」
文乃の一件は、結局、村中に噂が広がり、居づらくなってしまった。しかも文乃が阿部とみだらな関係を持っていたという噂に変換されていたのだ。阿部だけではなく、お金をもらって男と寝る女だとまことしやかにささやかれた。おばも文乃に対し、嫌悪感を隠さなくなったし、良夫も興味を失ったように違う娘を追い回すようになった。
祖父母も父も文乃を腫れ物扱いし、看護学校へ行きたいという文乃の意見を尊重してくれた。一九六四年六月。文乃は故郷を出た。「行ってきます」と祖父母に挨拶すると、「そのまま戻ってこなくてもいい」とぼそっと呟かれた。1年間の座学を経て、文乃は系列のサナトリウムに勤務しながら勉強することになった。自分の犯した罪の重さに、文乃は一人耐えていた。




