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はじめての悪行(ノゾキ)は牛糞の香りでした。

白い。

ただ、白いだけの空間。

光でも霧でもない。

輪郭が曖昧で、上下も前後も存在しない。


桑野慶喜は、その中に浮いていた。


身体の感覚がない。けれど、意識だけははっきりしている。

目を開けたつもりも、閉じたつもりもないのに、光だけが流れ込んでくる。


「……死んだのか。」


自分の声が、反響もせずに消えた。


次の瞬間、空間がぐにゃりと歪んだ。

白が金色に変わり、重力のようなものが背中を押す。

身体が吸い上げられる感覚。

地上に置いてきた痛みと熱だけが、薄皮のように残っていた。


音もない空に、突如、声が響いた。


「おめでとう、桑野くん。

でもあいつより先に君が来るとはなぁ。」


声の主は、ソファに寝そべるように宙に浮いていた。

真っ白なスーツに、サングラス。

その顔を見た瞬間、慶喜の呼吸が止まった。


「お前は…!」


父のバンド仲間。

ニュースで“堕ちた芸能人”として報じられていた男。

その顔が、神々しい光を背に笑っていた。


「違う違う。俺は“盗撮の神”だよ。

ほら、知ってるだろう? 同姓同名の人間が失踪したって話。

あいつが海外の雑誌で持ち上げられすぎてさ、結果、神としての僕が産まれたんだ。」


神。

ふざけた口調だが、空気が変わる。

言葉の一つ一つが、心臓を撫でるように重く響いた。


「盗撮の……神?」


「そう。見ること、覗くこと、暴くこと。

それは“真実を愛する”行為でもあるんだよ。

君、正義が好きだろ? だから選ばれた。」


桑野は言葉を失った。


「んで能力の説明をしちゃうよ。」


淡々とした口調で神は語った。


それは「絶対視力サプライズ・マレスター」という能力らしい。

盗撮の神の名にふさわしい、どうしようもなくゲスな力だった。


・見たいものが見れる(=覗き・盗撮が必ず成功する)

・その代わり、然るべき報いを受ける


――それだけ。


(異世界転生特典これだけかよ……)


そこへ、別の声が割り込んできた。


「……話が早すぎる。」


静かで、何の印象も残らない声。

振り返ると、黒いスーツの男が立っていた。

顔が、ない。

いや、輪郭も髪型もあるのに、“印象が残らない”。


「私は“ナ・ロウ”。

すべてのイセカイを監視する者だ。」


盗撮の神が舌打ちをした。


「出たよ、つまんねえ奴。」


「桑野慶喜。キミに与えられる能力は“絶対視力サプライズ・マレスター”。

キミのイセカイ生活をより良いものにするだろう。

だが注意しろ。君たちの神の名前は、現実世界に“実在する人物の名前”と同一だ。

イセカイでその名を口にすれば、“キヤクイハン”としてセカイ自体が“破滅”する。」


「破滅……?」


盗撮の神が肩をすくめた。


「神ってのは別の“現実世界”の人間にそっくりだからな。

名前を言うと“キヤクイハン”になるらしい。

もう何回も聞いたよ、ミミにタコができるほど。」


「そう。宇宙の法に触れる。

私は“サクジョ”を執行しなくてはならない。」


盗撮の神は鼻で笑う。


「でも気にすんな。言わなきゃいいだけの話だ。」


「剣と魔法の文明――いわゆる“チュウセイ”というタイプ。

だが、一般人もモンスターも異様に弱い。

それが、キミが転生する“ナーロッパ”というセカイだ。

このセカイには複数の“転生者”が存在する。

彼らは神と契約し、互いを殺し合い、契約した神の“神格”を高める。

神格が上がれば、神からの“ご褒美”も増える。

それが、システムだ。」


桑野は、未だに要領を得なかった。

なんで自分がラノベの主人公みたいになっているのか。

なぜ父のバンド仲間が神になっているのか。

雑誌の人気投票で神が生まれるなら、自分だってワンチャンあるのでは?

……そんなことを考えていた。


盗撮の神が立ち上がる。


「ま、細かいことは地上で学べ。行け。」


「え?」


「転生だよ。おまえの新しい舞台。」


神の笑顔が視界を埋めた瞬間、腹に蹴りを受けた。


視界が裏返る。

落下。

風圧。

叫ぶ暇もなく、地面が迫る。


――ドンッ。


衝撃。

全身がすっぽりと藁に包まれる。

ぬるりとした感触。

強烈な牛糞の匂い。


「……えっ……」


目を開けると、牛舎の中だった。

全身が湿って、温かい。

クソまみれ。


「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」


叫んだ声が、牛に反響する。

涙と糞が混ざり、顔を伝う。


そのとき、扉が開いた。


「誰だおめぇ。」


日焼けした農夫が立っていた。

麦わら帽子。のんきな笑み。


「えっとここは…。」


「ここかぁ?“つーせい”の“なぁろっぱ”んだぁ。」


意味はわからない。

多分「チュウセイのナーロッパ」と言いたいのだろう。

恐ろしいほどテンプレな村人Aだ。


「おめぇ臭っせぇなぁ。風呂入れぇ?」


牛舎の裏手に、小屋のような風呂場があった。


早く風呂に入りたい一心で駆け込む。


だが、ドアの向こうから女の鼻歌が聞こえた。


慶喜は、その瞬間に思い出した。

自分の能力。


絶対視力サプライズ・マレスター”。

覗きが必ず成功する能力。


せっかく手に入れた能力だ。

俺が悪いんじゃない。

能力が悪いんだ。


「……試してみるか。」


壁の向こうに、意識を向けた。


視界が伸びる。

輪郭が透け、肌の色が現れ――


「うわっ……」


言葉が凍った。

そこにいたのは、半魚人のような見た目をした、

どう見ても農夫よりガタイのいい女性だった。

湯に浸かり、歌いながら背中を洗っている。


脳が拒絶した。

吐き気と目眩が同時に襲う。


「違う、こんな……こんなはずじゃ……!」


次の瞬間、背後から声。


「いやぁ!ヘンタイ!わだすの裸おかずにされちまうだァーーッ!!」


ドゴッ。


拳が飛んできた。

再び地面に転がる。


桑野は、全身の汚物なんか気にならないくらい、

惨めな気分になった。


泣きながら、声が出た。


「ごめんなさい……ぼくが悪いんです……」


農夫が音を聞きつけて駆けつける。


「いっげね、ウチのが先風呂入ってんだったわ。

すまね……ケガねえが!?」


その言葉を聞くと、心にチクリとした罪悪感が湧いた。


桑野は、ぼろぼろのまま風呂に入った。

湯が肌に染みる。

糞の匂いが薄れていく。

だが、罪悪感は洗い流せなかった。


掌を見つめる。

自分の指が動く。

心臓が動いている。


「……生きてる。」


ぽつりと呟く。


桑野の人生で初めての“悪行”。

それは、異世界で、牛糞の香りに包まれて幕を開けた。

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