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封筒が二つ………
事業計画書と、婚姻届。
角が少し折れている。何度も見直した跡だ。
薫がコートの袖を通しながら言った。
「行くぞ。今週中に一次提出。修正の時間を取る。」
「わかってる。」
声が少し掠れた。
昨夜は眠っていない。だが、それでも行くしかない。
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農園に着くと、冷たい風がハウスの裾を鳴らしていた。
冬の日差しが白く、空気が痛いほど澄んでいる。
作業棟の扉を叩くと、しばらくして知花が現れた。
「……篠崎さん。」
頬に土の跡。手には軍手。作業の途中だったのだろう。
驚いたように目を瞬かせる。
「急にすみません。」
俺は封筒を差し出した。
「計画書を持ってきました。確認してもらえますか。」
知花は黙って受け取り、机に広げた。
視線が数字を追う。ページをめくる音だけが、乾いた空気に響く。
薫は黙って立ち、電話で事前に説明はしていたが必要なところだけ説明を添える。
「経費の再編と出荷量の見直しで黒字転換できます。
これで一次審査は通ると思います。
ただ、名義が必要なんです。家族の。」
知花の手が止まった。
わずかに眉が動く。
「家族……?」
俺はもう一つの封筒を机に置いた。
婚姻届。
その瞬間、空気が止まった。
風の音も遠ざかる。
知花の視線が、封筒の上に落ちた。
触れることもできず、ただ見つめる。
やっと、小さく声が出た。
「……冗談、ですよね。」
「本気です。」
言いながら、自分でもその言葉の重さを噛みしめていた。
「一年で立て直します。その間の責任は俺が持ちます。」
知花の唇がかすかに震える。
「……そんな簡単に言わないでください。」
「簡単じゃない。」
言葉を探すより、真っすぐに出た。
「ここが、好きなんです。
この畑の匂いも、あなたの苺も。」
知花が息をのんだ。
一瞬だけ、目が揺れる。けれどすぐに逸らした。
その頬を冬の光が照らし、涙の代わりに影が落ちた。
「……私、甘えてしまいそうで。」
「甘えてください。」
その声は、思ったより低く出た。
静かな決意と一緒に。
沈黙が落ちる。
外でビニールが鳴り、遠くでミツバチの箱の扉が風で鳴った。
知花は机の上のボールペンを取った。
ペン先を紙の上に置き、止まる。
呼吸を整え、ゆっくりと一画を書き出した。
その筆跡は、震えなかった。
でも、書き終えるまでに三度、呼吸を整えた。
俺も署名をする。
ペン先が紙を走る音だけが響く。
薫が証人欄に名前を書き、封筒を閉じた。
「このまま提出に行きます。」
短く言って、薫が出ていく。
車のエンジン音が遠ざかる。
作業棟には、静けさが残った。
知花がぽつりとつぶやいた。
「……本当は、私が守らなきゃいけないのに。」
「俺も、守りたいと思った。それだけです。」
知花は小さく息を吸い、目を伏せた。
頬をかすめた風に、少しだけ髪が揺れた。
その横顔を見て、思った。
この人は………きっと、誰かを守るために立ち続けてきた。
だからこそ、守りたかった。
この場所も、この人も。
彼女はようやく顔を上げ、かすかに笑った。
俺にはそれで十分だった。
その笑みを見たとき、
“契約”という言葉が、少しだけ温かく聞こえた。




