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8

封筒が二つ………


事業計画書と、婚姻届。

角が少し折れている。何度も見直した跡だ。


薫がコートの袖を通しながら言った。

「行くぞ。今週中に一次提出。修正の時間を取る。」


「わかってる。」

声が少し掠れた。

昨夜は眠っていない。だが、それでも行くしかない。



農園に着くと、冷たい風がハウスの裾を鳴らしていた。

冬の日差しが白く、空気が痛いほど澄んでいる。

作業棟の扉を叩くと、しばらくして知花が現れた。


「……篠崎さん。」

頬に土の跡。手には軍手。作業の途中だったのだろう。

驚いたように目を瞬かせる。


「急にすみません。」

俺は封筒を差し出した。

「計画書を持ってきました。確認してもらえますか。」


知花は黙って受け取り、机に広げた。

視線が数字を追う。ページをめくる音だけが、乾いた空気に響く。

薫は黙って立ち、電話で事前に説明はしていたが必要なところだけ説明を添える。


「経費の再編と出荷量の見直しで黒字転換できます。

 これで一次審査は通ると思います。

 ただ、名義が必要なんです。家族の。」


知花の手が止まった。

わずかに眉が動く。


「家族……?」


俺はもう一つの封筒を机に置いた。

婚姻届。


その瞬間、空気が止まった。

風の音も遠ざかる。


知花の視線が、封筒の上に落ちた。

触れることもできず、ただ見つめる。

やっと、小さく声が出た。


「……冗談、ですよね。」


「本気です。」

言いながら、自分でもその言葉の重さを噛みしめていた。

「一年で立て直します。その間の責任は俺が持ちます。」


知花の唇がかすかに震える。

「……そんな簡単に言わないでください。」


「簡単じゃない。」

言葉を探すより、真っすぐに出た。

「ここが、好きなんです。

 この畑の匂いも、あなたの苺も。」


知花が息をのんだ。

一瞬だけ、目が揺れる。けれどすぐに逸らした。

その頬を冬の光が照らし、涙の代わりに影が落ちた。


「……私、甘えてしまいそうで。」


「甘えてください。」

その声は、思ったより低く出た。

静かな決意と一緒に。


沈黙が落ちる。

外でビニールが鳴り、遠くでミツバチの箱の扉が風で鳴った。


知花は机の上のボールペンを取った。


ペン先を紙の上に置き、止まる。

呼吸を整え、ゆっくりと一画を書き出した。


その筆跡は、震えなかった。

でも、書き終えるまでに三度、呼吸を整えた。


俺も署名をする。

ペン先が紙を走る音だけが響く。

薫が証人欄に名前を書き、封筒を閉じた。


「このまま提出に行きます。」

短く言って、薫が出ていく。


車のエンジン音が遠ざかる。

作業棟には、静けさが残った。


知花がぽつりとつぶやいた。

「……本当は、私が守らなきゃいけないのに。」


「俺も、守りたいと思った。それだけです。」


知花は小さく息を吸い、目を伏せた。

頬をかすめた風に、少しだけ髪が揺れた。


その横顔を見て、思った。

この人は………きっと、誰かを守るために立ち続けてきた。


だからこそ、守りたかった。

この場所も、この人も。


彼女はようやく顔を上げ、かすかに笑った。

俺にはそれで十分だった。


その笑みを見たとき、

“契約”という言葉が、少しだけ温かく聞こえた。

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