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冬の朝、街はまだ薄い靄に包まれていた。

薫の車に乗り込み、高速を三十分ほど走る。


窓の外に流れる景色がビルの立ち並ぶ街から畑、そして白いビニールハウスへと変わっていく。


「着いたぞ。ここが“里見農園”」

薫が車を止めると、

目の前には陽の光を受けて光るハウスが並んでいた。


ビニール越しに見える赤い果実。

その奥で、ひとりの女性がしゃがみ込み、

ポニーテールを揺らしながら苺を摘んでいる。


「……あれが、娘さんか」

「多分な」


薫が運転席から降り、声をかけた。

「すみませーん、里見さん!」


女性が顔を上げた。

陽光に照らされたその髪は紅茶色に透け、

瞳もまた、同じ色をしていた。


「はい……どちら様ですか?」


その声はやわらかく、寒い空気の中にあたたかい湯気のように溶けた。


「都内のパティスリー・シノザキの者です。

 今日はお話を伺いたくて」


「あ……そうなんですね。すみません、

 どんなお話でしょうか?」


彼女は困ったように笑いながら、

摘んだ苺を小さな籠に集めていた。


ビニールハウスの中は、

冬の陽射しを受けてほんのりと暖かかった。

足元からは温床線のぬくもりがじんわりと伝わる。

風の音だけが、遠くの山の方で微かに鳴っている。


薫が名刺を差し出す。


「…五条薫さん?あっ里見農園の里見知花さとみちはるです」と知花は慌てて頭を下げる。


その素直な姿に俺はつい頬が緩んだ。構わず薫は慣れた調子で話を切り出す。


「うちの店で、こちらの苺を使わせていただけませんか?糖度も香りも申し分ない。流通ルートを確立すれば、農園としても安定します」


知花は手にしていた籠を置き、少しだけ視線を落とした。


その表情はやわらかく、けれどはっきりとした意志を宿していた。


「……申し訳ありません。

 今はちょっと、新しいお取引を増やす余裕がなくて」


「今は、というのは?」

薫が身を乗り出す。


「父が怪我してから出荷も、管理も全部わたし一人でやっているんです。

 今年は温床線も何度か切れてしまって、

 実を守るのに精一杯で……」


その言葉に、

大樹の目がほんの一瞬、彼女の指先へ向いた。


小さな手。

土で荒れた肌。

爪の隙間には、赤い苺の果汁が滲んでいた。


「それでも、毎年お世話になっている

 小売のお客さんたちが待っていてくれるので……

 その人たちの分を減らしてまで、

 他に出すのはちょっと……」


彼女の声は小さかったが、

どの言葉にも迷いがなかった。


(……筋が通ってる)

薫は苦笑しながらも、食い下がった。


「でも、それじゃ経営がもたない。

 ネット販売に切り替えれば、

 あなたの苺ならすぐに評判になりますよ」


知花は顔を上げた。

紅茶色の瞳が、陽を受けてきらりと光る。


「わたし……

 数字よりも、父が大切にしてきたものを守りたいんです」


その一言が、

まるで空気を変えた。


薫が言葉を失う中、

大樹はゆっくりと息を吐いた。


「……それなら」


その声に、二人の視線が向く。


「一パックだけ、譲ってもらえますか」


「え?」


「他のお客さんに影響が出ない分だけでいい。

 俺が家で食べる」


知花が目を瞬かせる。

「家で……ですか?」


「ええ。素材の状態を、

 味として確かめておきたいだけです」


薫が隣で苦笑した。

「おいおい……営業ってより、ただの客だな」


「素材を知らずに語れないだろ」

大樹は短く返し、

静かに知花を見つめた。


彼女はその視線に少し戸惑いながら、

息をひとつ吐き、微笑んだ。


「……わかりました。

 一パックだけ、ですよ?」


「ありがとうございます」


知花がハウスの奥に歩き、

小さな木箱を取り出した。

一粒ずつ、摘みたての苺を並べていく。

その手つきは、まるで宝石を扱うように丁寧だった。


陽の光に照らされた果実は、

透明な赤に輝いていた。


受け取った瞬間、

甘く鮮やかな香りがふわりと立ちのぼる。

大樹は箱を開けたまま、

無意識にその香りを胸いっぱいに吸い込んだ。


(……これが、彼女の作る苺の香りか)


どこか懐かしくて、

優しくて、

冬の冷たい空気の中で確かに“生きている”匂い。


心の奥で何かが静かに動き出した。







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