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世界最高峰と呼ばれるスイーツコレクショングランプリ――その舞台で優勝してから、もう四年になる。
篠崎大樹―30歳。
「パティスリー・シノザキ」のオーナー兼パティシエ。
フランスでの修行を経て、二十七歳の時に自分の店を構えた。
以来、世界中にファンを持つスイーツブランドとして成長し、毎日注文が入る。
名声。繁忙。責任。
それでも、厨房の熱気と甘い香りだけは変わらない。
仕事が終わっても、
手に残るバニラとカカオの香りが、自分の原点だと思っている。
――この場所だけは、嘘がつけない。
ステンレスの作業台の上には、試作途中のガトー。
クリームの角度、温度、香り。
細部にこだわるその集中を破るように、
扉のベルが軽く鳴った。
「おーい、働きすぎの天才さん。まだ仕込み中か?」
五条薫が入ってきた。
スーツの上からコートを脱ぎ、
馴れた手つきでカウンターの端に腰を下ろす。
「……薫か。午前の打ち合わせは?」
「無事終了。ネット販売の新規サイトも軌道に乗りそうだ。ほら、見てみろ。提案書、通ったぞ」
そう言って、薫はタブレットを差し出す。
画面には「全国展開スイーツブランド・オンラインプロジェクト」の文字。
物流と製造ラインを再編する大型企画だ。
「すぐ動かすつもりはないが、話題にはなるだろう」
「お前が有名だからな。放っといてもメディアが寄ってくる」
大樹は短く息を吐いた。
「……放っといてほしいんだがな」
薫が笑う。
「そう言うなよ。
それだけ注目されてるってことだ。
それに――」
言葉を切って、彼は少し声を落とした。
「……いい苺農園を見つけた。
ただな、なかなか販売してくれない」
その一言に、
大樹の手が止まる。
「苺?」
「ああ。地元の小さな農園だ。
赤字経営で娘があとを継いでる。
父親が怪我して、なかなか今現場に出られないらしい。いい実を作ってるのに、
“昔からのお客さんを大切にしたい”って言って、
新しい取引を断ってるそうだ」
薫はタブレットを軽く叩く。
「……もったいないだろ?」
その画面に映るのは、
冬の陽射しに光る真っ赤な苺。
どこか懐かしい香りが、目を通してでも伝わる気がした。
大樹は静かに言った。
「……場所は?」
「高速で三十分。『里見農園』って名前だ」
薫が軽く笑い、
「次の休み、行こうぜ」
と告げたその瞬間――
大樹の胸の奥で、何かが小さく鳴った。