12
数日後……大樹はその日は厨房を出たのは夕方だった。
いつもなら閉店後の仕込みや原価確認に追われるが、
今日は薫に任せて、久しぶりに早く帰ることにした。
車のライトが家の壁を照らす。
この時間に帰る家の灯りを見るのは久しぶりで
どこか懐かしい。
玄関を開けた瞬間、
鼻をくすぐる焦げた匂い。
「……焦げ臭いな。」
呟くと同時に、
キッチンから慌てた声が返ってきた。
「ちょ、ちょっと待って! いま消すから!」
コンロの火が消える音。
続いて、換気扇の唸るような低い音が響く。
湯気と煙の混じった空気の中に、知花が立っていた。
エプロンの胸元には、薄く焦げた跡。
右手にはフライ返し。
左手には焼きすぎた魚の皿。
「……やっちゃった。」
額の汗を拭いながら、
困ったように笑う。
篠崎は思わず苦笑した。
「やっぱり料理苦手か…」
「うるさいです。今日こそ上手く焼けると思ったのに……」
その姿が妙に愛しかった。
焦げた魚を見ても、
呆れるよりも先に、
作ってくれたという気持ちが胸を満たす。
「一緒に食べよう。」
大樹は荷物をおいて準備を手伝い始めた。
知花の焼いた魚は香ばしいというより、苦味が強い。
けれど、笑って言った。
「うん、美味しいよ」
知花は呆れたように目を細め、
「……無理しなくていいです」と笑う。
二人でテーブルにつく。
焦げた魚と味噌汁と知花の作る野菜の漬物。
それだけの夕食なのに、
どこか穏やかで温かかった。
そのとき、
玄関のチャイムが鳴った。
「……こんな時間に?」
知花が箸を置き、
スリッパの音を響かせて玄関へ向かう。
ドアを開けた瞬間、
彼女の声が止まった。
「……紅煉?」
その名を呼ぶ声には、驚きと懐かしさが混じっていた。
大樹が立ち上がったときには、
もうその男が彼女を抱きしめていた。
少し長めの髪を後ろで束ね、
旅先帰りのように日焼けした顔。
匂い立つような異国の香水の匂い。
紅煉は微笑み、
低い声で言った。
「Chiharu! È passato tanto tempo!」
―知花! 本当に久しぶりだな!
「紅煉。ほんとに久しぶり。お帰り」
そう言って知花も抱きしめ返す。
大樹は無言のまま立ち尽くしていた。
抱擁の間に挟まれた空気が、
焦げた魚の匂いと混ざって、
妙に現実的だった。
紅煉が知花を離す。
「イタリアでの仕事が一段落してさ。日本に戻ったら、母ちゃんからおじさん怪我したって聞いてこっちに直行。」
その笑顔が、眩しすぎた。
知花が少し照れたように笑っていた。
紅煉の話に相づちを打ちながら。
――その笑顔を、自分の知らない誰かが見ている。
その事実だけが、胸の奥で静かに疼いた