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―6月に入ってから篠崎は忙しかった。


恩師である滝藤たきとうの頼みで料理学校から数名現場実習生を受け入れることになりそれにプラスして新作フェアとプロジェクト。ブライダルの注文。


厨房に残るのは、

バターと焼けた砂糖の匂い。

静かな夜は、それだけで心を落ち着かせるはずなのに、どこか胸がざわつく。


今日も閉店後、

原価表と催事の資料を広げていた。

日付が変わる前に帰ろうと思いながら、

時計の針が十一時を過ぎても帰れずにいた。


新作のデータを保存し終えて、

ようやくスマートフォンを手に取る。


《気をつけて》


知花からのメッセージ。

毎晩のように届くその文字が、

日課のように胸に刺さる。


《今から帰る》

そう打って送信した。


思えば彼女にまともに話せていない日がもう何日も続いている。


明かりを落とし、厨房の鍵を閉めた。


静けさが戻るたび、

彼女の声が頭に浮かぶ。

あのやわらかい調子で、

“おかえり”と笑ってくれる毎日。


車に乗り込み、

エンジンをかける。

ヘッドライトの光が闇を切り裂く。


「……知花。」


名前を呼ぶだけで、

少し胸が締めつけられた。



コーヒーをカップに注ぎながら、

知花はスマートフォンを手に取った。


《今から帰る》


それだけ。

でも、その言葉の奥に、

彼の不器用な優しさが見える気がした。


時計は十一時を回っている。

寝ればいいのに、

まだ起きているのは、

彼の帰る音を聞きたいから。


湯気が消える。

カップの表面に映る自分の顔が、

少し疲れて見えた。


彼の仕事のことは、わかっている。

完璧を求める人。

一度手を抜いたら、自分を許せない人。


でも、ときどき怖くなる。

この距離が、

いつか心の距離に変わってしまうんじゃないかって。


契約なのに…

1年たったら終わってしまう結婚なのに…


スマートフォンを開き、

短く打つ。


《おつかれさま》


たったそれだけ。

それ以上の言葉を打つと、

涙が出そうだった。


カップを両手で包み込みながら、

息を吐く。

コーヒーの香りが、

少しだけ甘く感じた。


標なき未来…

帰ってくる場所だけが

ふたりを繋ぐ希望のかけらようだった。

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