10
篠崎が知花の家に引っ越して5日目の夜明け前――
窓ガラスの外は薄暗く雪がチラつく。
篠崎はキッチンの奥に立ち、
片手で黒いマグを持っていた。
コーヒーの湯気がゆるやかに立ち上がり、
冷えた室内の空気に混じって消えていく。
ハウスの方から、
ビニールを擦るような微かな音が聞こえた。
知花が出ているのだろう。
篠崎は時計を見た。まだ5時半……
扉が開く音がして、冷たい空気が流れ込む。
知花が長靴を脱ぎながら「おはようございます」と言った。
頬が少し赤く、
指先がかじかんでいる。
「おはようございます。寒かったでしょう。」
篠崎は短く答え、
コンロの脇に置いたマグを取った。
「温かいですよ。」
「ありがとうございます。」
知花は両手で受け取り、
そのまま掌を包み込むようにして息を吐いた。
白い湯気が立ち上り、顔の前で揺れる。
二人の間に静けさが戻る。
ストーブの音と外の風が窓に触れる気配だけがある。
知花がふいに口を開いた。
「……篠崎さん。」
「はい。」
「篠崎さんって呼ぶの、
なんだか変な気がするんです。」
「変?」
「うん。一緒に暮らしてるのに、
他人行儀というか……。
呼ぶたびに距離があるようで。」
篠崎はマグを流しの横に置き、
そのままカウンターに背を預けた。
「じゃあ、どう呼びます?」
知花は少し考え、
両手の中のマグを見つめた。
温かい飲み物が少しだけ揺れる。
「……大樹さん、って呼んでもいいですか?」
声は小さかった。
けれど、その響きが部屋の空気を変えた。
篠崎は、思わず息を止めた。
名を呼ばれることが、
これほど近く感じるとは思わなかった。
「呼びにくくないですか。」
「少し。でも、慣れます。」
「そうですか。」
そう言ってから、
篠崎はゆっくり視線を合わせた。
「じゃあ、俺も――知花って呼んでいいですか。」
彼女は驚いたように瞬きをし、
すぐに柔らかく笑った。
「はい。」
蛍光灯の明かりで彼女の髪の先が淡く透け、
その笑みが光を受けて淡い金色に見えた。
湯気がまだ立っている。
外の冷たい空気とは違う温度が、
部屋の中にゆっくり満ちていった。
篠崎はその光景を静かに見ていた。
名前を呼び合っただけなのに、
距離が確かに変わっていた。