ラス、逃げる(後)
王の私室に人の気配はなく、ラスはすぐさま廊下へと出た。「わっ」と通りかかったどこかの侍従が尻もちをついた。「悪い」と詫びて彼は王の執務室へと向かう。
「だ、誰か! 不審な……!」
ラスは舌打ちして駆けだした。名乗る気になれず、かといって騒がれるのことも避けたかった。
(王子の顔くらい覚えとけ!)
しかしいまの彼は完全に『ハウス』仕様で、着古した鍛錬着に少々伸びた前髪を適当に流した、王宮では軽装すぎる恰好。足音を消す絨毯は好都合でも、王や王妃の往来がある廊下は煌々と明かりが灯っている。身の隠しようがない。
王族の私室と官吏たちの出入りする執務棟は、庶民の家なら二十軒がすっぽり入るほどの距離。問題は執務棟の前の近衛だ。どう対応しようかと誰もいない廊下でしれっと歩いていると、
「待てぇ! そこの怪しいやつ!」
と、早くも近衛の登場に彼はまた走った。だがその刹那、三室先の扉がすさまじい勢いで吹き飛んだ。
そして大風が、ラスのみならず追ってきた近衛や向こうからの侍女だの飾られた花瓶だのを巻きこんで吹き荒れる。
(くッ、ここで攻撃魔術は!……どうする)
彼の迷う間にドアを踏んでスニージーが姿を見せた。箒の柄のような妙な棒に腰掛けたまま宙に浮いて。と、思うと空気を滑るようにしてラスに突進した。
「……ぐッ! み、水よ!」
「遅い。風しか使えないと思ってたなら甘いよー」
氷の刃が激しくかち合った。吹きつける風で体勢が崩れ、ラスの上腕には血が滲んだ。だがそのとき、
「くぅぅおらあぁランスロッドぉぉ――!!!!!!」
背中側からクランピーのシャウトが鳴った。ほぼ同時、迫りくる慣れた熱の気配にラスは床へと飛び退く。頭上を火球が掠め――――ぶわああぁぁぁと炎が上がって辺りは熱で胸を灼くほどの爆風に包まれた。
すんでのところで水魔術の防御を唱えたラスは、ふたりが慌てて消火する隙をすり抜けた。今回ばかりはクランピーの短気に感謝だが、布物はことごとく燃え壁は一瞬で煤だらけ。すれ違った侍女などは腰を抜かしている。
(怪我人はいないようだな……良かった)
ラスは素早く柱の陰に隠れて息を整えた。バタバタと数人の近衛たちとクランピーが走り去ったが、気づかれずに済んだ。
(また魔術戦になったら被害が大きくなる)
彼は周囲をうかがいながら適当な部屋に入り、窓から外へと跳んだ。
――着地でかすり傷のできた頬を擦ったラスは「浮くのはまだ難しいか」と茂みの中から這いでた。さすが魔塔の引きこもり侯爵と呼ばれるだけあると、スニージーの実力に感心する。
クランピーも短気を起こしたにしろ、あれだけの小火で済んだのだから威力は調整しての攻撃と思えば「手加減された」と冷静になるものだ。
「でも……まだ僕は頭にきてる」
――父上に会うまでは絶対に引かない。
小火のあった上階の騒ぎが下まで届いた。
最終的には王宮が全壊したってかまわない。修繕費で目を回せばいい。
ラスは再び父の執務室を目指すべく、どこか入口を探した。そこは客室向きの中庭で春の花が満開だ。懐かしい花の香に母の面影がよぎった。父に啖呵を切り出奔したら母には会えなくなる、そんな感傷も頭を掠めたときだった。
身勝手な小謀反が易々と許される論はない。
芳しい香が追手の気配を教えた。空気の揺らぎに咄嗟、飛び退くラスに「頭上がガラ空きでしょうが!」と重い拳が降った。
バッシュフル。
避け損ね、肩を強く打たれる。痛みに速度が落ち舌打ち、わざと転がり反転し「くっそ!」真正面から構えた。間髪入れず突きが急所を狙う。
「ねぇラス。アタシ、ちょっと嬉しかったわよ。あんたにアタシらに歯向かう気概があって」
「それなら! 邪魔しないで、くれよッ」
ラスはただ受け流すのに必死だ。
「あぁら、誤解しないで。……これが本番だと思いなさい」
(いつもより重い……こんなんアリかよ)
王妃の森でも日々彼の前に立ちはだかる存在だったバッシュフルの、その年を経た姿はさらにラスを圧倒していた。
そして今、腰に提げた大きな得物に手がかかる。大振りの斧は夜闇にもよく研がれていると見てとれた。
「火よ!」
ラスは躊躇なく短剣を抜きその刀身に火を纏わせた。苦肉の策だ。
それは篝火のごとく辺りを照らし、切っ先は鋭く相手の肩口を目指した。だが当然間合いが短すぎる、ざらり、斧の隆線が容易に炎を撥ねさせ、ラスは慌てて距離をとった。そして敗北を覚悟し――理解した。
(バッシュフルの課題は、勝てない相手に勝つための鍛錬じゃなかった。勝てない相手から逃げ切るためのものだったんだ)
ラスの瞳に再び静かな闘志が宿った。本番と腹を決めた。
「……僕はまだ、ガヴァネスには敵わない」
「よく分かってるじゃない」
「ほら腕出しなさい、治癒してあげる」と言い出しそうな軽率さでバッシュフルは間合いを詰める。ラスは後ずさって保つ、しかしいつまでも誤魔化してはいられない。
「風よ!」
上昇気流を発生させ竜巻の要領で上空へと放り投げだされたラスは、「水よ!」落ちざまに地上に氷を降らせた。氷礫は小さいが、集中できぬ雑な発現のさせ方によってかえって丸くなく、量に頼っていた。
これにはさすがのバッシュフルの足も止まった。
「いつか……絶対勝ってやる!」
受けとめると、絶対に真正面から受け止めてくれると信じ、ラスは蹴りの体勢でバッシュフル目がけて直滑降――――クロスした逞しい前腕が彼を跳ね飛ばした。
まるで日月のごとく低く放射線を描いたラスは危なげなく着地。宿らせた炎を倍にまで伸ばし急所へと投擲。同時、身を翻したラスは全力で背を向け、逃げた。
「ハァ、ハァ……あーつら……」
まだ筋力強化すると、かなり消耗が激しい。庭を抜けひっそりとある使用人出口に駆けこんだときには息が切れていた。
(こんなことならもっと習っておけば……)
室内でならば斧を振り回すことはないだろうと判断したが、体術でも運がよくて五分五分。あれを戦闘中はずっと保持していられるとすれば化け物だといまさら相手の強さに震える。
少しだけと項垂れて息を整えていると、視界に誰かの靴先がのぞいた。ハッと顔を上げたラスの眼前には男の手のひらが迫り――治癒魔術が彼を癒した。
「ドーピー……」
「鐘ひとつ分でそんなに窶れてどうするんですか、一番若いのに」
「……なんで」
ガヴァネスたちはみな、自分のことを捕まえハウスに戻そうとするはず。
ラスの視線はそう雄弁に伝えたが、ドーピーは心外そうに首を傾げ「みんな遊んでるだけでしょう、僕もそうですよ」と、ラスに立つよう促した。
「遊んでる?」
「そうですよ。だって君が合格してもしなくても、あとひと月ないんですから。寂しくて追いかけて来てるだけですよ。僕は今回初めてガヴァネス役をしましたけど、結構楽しかったですから」
それこそ初めてみたドーピー――漆黒の総魔塔長、予算請求の鬼伯爵――の眼鏡ごしの柔らかな微笑みにラスはポカンとした。
(もう、ひと月……)
「さて、用事はこれです。今回の騒動で、もう君にはゆっくり会えなくなりそうですから。これを」
ドーピーはくしゃくしゃの紙袋を手渡した。
「これ……」
「指環も大鏡もわたしが調整したので、あの晩のことは大体のことは分かっているつもりです。ほかのガヴァネスたちが妙な誤解していることもね」
紙袋には、ラスが外泊から持ち帰った林檎が入っていた。「腐ってはいけないと思って、魔術で保存してたのでまだ新鮮です」覗いた先から香る甘さに、ラスはなぜか涙が出そうになる。
すっかり忘れていた。
これを持ち帰った夜の素晴らしさ。
ハウスのすべてが愛おしいと思えた瞬間――。
「これ、父上にぶつけてやる」
ハッピーだけは雪合戦に来なかった。
「それは楽しそうな催しだ」
ドーピーは愉快そうに眼鏡を持ち上げると、今度は「ふふふ」と笑った。
「王の情けない顔なんて貴重ですから。頑張ってください」
「うん。……ありがとう」
ドーピーは「ではまた」と霧のように消え失せた。
消えた、と認識するにはみ鈴分ほど必要で、ラスは重くため息をついた。食べ物を保存したり身ひとつで転移する魔術なんて存在することも知らなかったのだ。
ノウスでは個人の能力だけで発現できる魔術は政治的に機密扱いになる。『王妃の森』から逃げることで、ガヴァネスたちの実力を思い知ることになるとは、とラスは知らず苦笑をもらした。
石床の通用路が急に狭く感じ、ラスは紙袋を抱えなおした。すると林檎の甘い香りのせいかドーピーの意外な声援のおかげか、腐りかけた心は冬の湖面のようにしんと落ち着いた。
(どうせ追われてるんだ。正面から堂々と行くか)
この国の王子ではなく、ただのランスロッドとして。
――しかしこの直後ラスは近衛に見つかってしまい、肉弾戦で応じながら何とか王の私室へとたどり着いたのだった。
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ガヴァネス紹介(正体・【年齢】)
ドック…上皇/祖父【70】
バッシュフル…辺境伯/大叔父(上皇の腹違いの弟)【54】
スニージー…侯爵・塔王族諜報担当/祖母方の伯父【50】
クランピー…民営魔術陣研究所所長/辺境伯方の親戚【47】
ドーピー…総魔塔長/遠い親戚【47】
ハッピー…ノウス国王/父【41】
スリーピー…自宅歴史研究者でもすごい/母方の叔父【35】




