ラス、はじめて外出する
夜市に着いたラスが逃亡計画のことを覚えていられたのは、ほんのひと鈴分だけだった。
「ハッピー、ここはどこだ! なんだ!」
「だから夜市だって。結構大きい街だから賑わってるだろー?」
「な、なんだこの者たちは何をしてるんだ!」
「あぁ芸を披露して路銀を稼いでるんだろ。ほれ、これ投げてやれ」
「……な、なんだこれ、美味い!」
「肉だよ。でも僕ちゃんにはちょっとスパイシーすぎるんじゃねぇ?」
「あ? うわっ辛ッ?」
クククと意地悪く笑ったハッピーがタイミングよく果汁を手渡す。
木の盃に入ったそれを勢いで一気飲みし、ラスはハァーと息を吐いた。美味かった。肉も飲み物も初めての味だったが、目の覚めるような気分だった。
往来のすべての人々が楽しそうに笑っていた。ラスもつられて頬を緩ませ肉を頬張った。ハッピーがそつなく新しい果汁を買ってきて、「これもイケるぞ」と笑う。
「ありがとう」意外と甲斐甲斐しいらしい。彼の新たな性質を知り、ラスはこそばゆく思いつつそれを受け取った。
(楽しい……!)
そんなラスの表情を横目で見ては、ハッピーも同じ串焼きをかじる。満足そうな笑みにラスは気づかない。
「なぁなぁ僕ちゃん。そういやドーピーの授業サボっちまったけど良かったのかー?」
「む。良くはないだろ……自分が誘ってきたくせにその言い草は……」
「俺は怒られねぇもーん」
ハッピーが愉しげに口角を上げた瞬間、ラスは思わず吹き出した。
あの腹の黒そうな眼鏡の男を出し抜いたことが痛快に思えたのだ。あとから意地悪く水責めをされようと、ドックからお説教を食らおうと、今はどうでもよかった。
さっきまでのくよくよした気持ちもどこかに行っていた。
薄いパンを揚げたような菓子にかぶりつくハッピーも、普段よりご機嫌だ。
「あーあ。あの辛気くさい森なんかより、こういう賑やかな街で暮らしたいよなぁ」
「同感だ。……えぇと……ハッピーの普段の住まいは、その、どの辺りなんだ?」
それは初めての諜報活動。どもらなかっただけ上出来だと、ラスは内心の動揺を肉に噛みつくことによって逃した。
「あー? そういうの教えちゃダメってことになってんだぞ」
「そうなのか?」
知らず青ざめたラスを、ハッピーは面白そうに眺めた。
「まぁちょっとなら。……俺はもちろんノウス生まれだけど、結構、色々行ったぞ。三月前は隣のイスト国に行ったし」
「イスト! あの代々女王が国を治めるという?」
「ウエトにも、スウサにも滞在したことあるぜ」
「く、詳しく聞きたい!」
まぁまぁ落ち着けって。
ハッピーはまんざらでもない顔で、ラスに各国の名所や食べ物そして聞いてもいないのに美しい女性との出会いを語った。
女性はともかく外国はラスにとって未知の世界で憧れの場所。出奔して市井で暮らすことになったら、何とか路銀を貯めて行ってみたいと思うほどには。
長話をせがむラスはまるで遊び足りない子犬で、先に降参したのはハッピーだった。
「今度また聞かせてやるから。そろそろ帰んぞ」
「絶対だぞ!」
渋々のラスが周りを見れば、どこも店じまいを始めている。
そこで二人が立ち上がると、少し離れたところに立っていた若い娘たちがキャアと声を上げた。なぜか親しげに手を振っている。
まるで王を見た女性たちがパレード中に上げる声に似ている。
そう思ったラスは何気なく彼女らに手を振り返し——さらに騒がしくなった黄色い声に驚いた。
ぴゅう。ハッピーの口笛が重なった。
「へぇー僕ちゃんやるじゃん。誰か誘ってシケこんでみるか?」
ハッピーは娘たちに手を振り、ラスと強引に肩を組んだ。
「シケコンデ? 何だそれ」
「好みの子と二人っきりになるってことだよ」
「え! あ、いや……僕は、見知らぬ女性とは、その……あまり」
「あぁそうだった、免疫ないんだっけな」
女に免疫がない。
紛れもない図星に、ラスは反論の余地もない。口づけすら無経験なのをガヴァネスたちに可哀想な目で見られたことを思い出し、彼は悲しくなった。
「面目、ない」
「悪ぃわりぃ。まぁ今日はやめとこうぜ。落ち込むなよ、これからこれから! 出会いがほしけりゃ相談しろよな」
微笑まれながらぐしゃぐしゃと髪を撫でられ、不意にラスの胸には温かい気持ちが広がった。離れた場所に手を振るハッピーの横顔を、彼は新たな思いで見つめた。
(いまなら)
「ハッピー……その、」
「あ?」
「教えて、ほしいことが……あるんだが」
ハッピーは意外そうに眉を上げた。
「何だ?言ってみろよ」
(でも、まさか逃げるのを手伝ってくれとは、言えない)
「……みんなと仲良くなるにはどうすればいいのか、教えてほしい」
咄嗟に出た言葉は、思いの外悪くないように思えた。
しかしラスはこれまで、誰かに命じたことや頼む前に叶えられていたことならあっても、乞いたことはなかった。
ぎゅっと眉を寄せ、息を詰めて返事を待つ。
それをポカンと口を開けて見ていたハッピーはしばし静止し、ハッと何かに気づいた顔をした。
「……お前、オジ専か……」
「オジ?」と首を傾げたラスだったが、遊びのガヴァネスは慌てたように「い、いや何でも。お、オッケーそういうことなら分かった! 俺に任せとけ」と彼の肩を叩いた。
「助かる! できれば話が弾むように好きな物とか、好みとかも知りたい」
「お、おう(父親との関わりが足りなかったせいか? ぶつぶつ)」
そのまま二人は市の喧騒を離れ、終わりかけた夜市を離れた。ハッピーはどこか浮かない顔をしていたが、ラスの方は思わぬ収穫の喜びで足取りは軽かった。
「ハウスはこっちなのか?」
「見られると面倒だからな。この辺でいいか。……来るときは、お前と俺の指環を合わせただろ」
彼の言う通り、ハッピーはラスの部屋にするりと入りこむと、何も言わずに金の指環の印章同士を合わせた。すると瞬く間、二人は街道に出ていたのだ。
出るときのは教えられねぇけど、とハッピーは前置きし、右の中指に嵌めた指環を目線まで持ち上げた。
「帰るときはそれぞれ『鏡よ鏡』って唱えて魔力を吹きかける」
ふう、と彼が息を吹いた瞬間、彼の姿はかき消えた。
「え?」あまりにも唐突な転移に、ラスは突っ立った。夜の嗅ぎ慣れない空気が彼にまとわりついた。しん、と急に辺りが静まり返った。
もしかして、今なら……逃げられる?
さっきの夜市の場所に戻ればここが国内のどこかなどすぐに分かるだろう。大きな街だ、宿も住む場所も見つかるかもしれない。働き口だって——。
(でも僕が働く……? 一体何をして?)
どくどくと全身が心臓になったような心地に、ラスはぶるっと震えた。
「……まだ、ダメだ。もう少し、情報を集めなきゃ。そうだ、もっと準備をしてから」
彼は「鏡よ、鏡」と唱え、右手に嵌めた指環に魔力を込めた息を吹きかけた。刹那、金色の魔力が彼を包んだ。
目を開けるとそこは、ラスの私室だった。
*
おや、お帰りなさい。思ったより早かったですね。
無断外出から戻ったラスが恐るおそる食堂に入ると、迎えたのはドーピーひとりだった。他のガヴァネスの気配はない。
「それで、どうでしたか久々の外出は」
「え……た、楽しかったデス」
拍子抜けするほどあっさりした態度に彼は狼狽えた。何とか絞りだした授業をさぼったことへの謝罪にも、「まぁ、楽しかったんならよかったですね」と、どこか可哀想なものを見る眼差しを向けただけ。
さらには「スリーピーが書庫で待ってますよ。そっちもサボるなら声をかけてきなさい」と言ったっきり、ラスには興味を失くしたように夕食の残りらしいキャラメルプディングを頬張り始めた。
そうしてラスは少々気まずい思いで書庫に向かったが、スリーピーは彼が遅れてやってきたことにも気づいていない様子を見せた。それどころか、
「昨日より顔が明るく見えるな。何かいいことでもあったか?」
と、穏やかに尋ねられる。
ラスはその瞬間、幼い頃に侍従に悪戯を仕掛けてしこたま怒られたことを思い出した。そのあと、侍女頭がとりなすように温かいお茶とお菓子をこっそり届けてくれたことも。スリーピーの声を聞いて、あのときと同じ、少し泣きたいような安堵が胸に広がった。
同時に湧いた照れくささで彼は俯いたまま、「実は」と答えた。
「ハッピーと夜市に行ってきたんだ」
「夜市? あぁ街に出たのか。どうだった?」
「……賑やかだった。店も人も多くて、肉も美味かった」
スリーピーは「それはよかった」と長い前髪の奥で微笑んだ。
「しかし王都と比べたら小さい街だったろう?」
「まぁそりゃあ……だけど僕は王都の夜市も知らないから……」
「そうか、それは悪かった。楽しかったならまた行ってくるといい。気分転換になっただろう」
授業をサボったことは知れているだろうに責めも呆れもしない彼に、ラスは「うん、また行きたい。それと遅くなってごめん」と素直に笑み返した。
(あとでドーピーにもちゃんと謝ろう)
そしてきっと今日のことは一生忘れない。彼は始まったスリーピーの講義に耳を傾けた。
お読みくださりありがとうございましたー!
ガヴァネス紹介
ドック…金髪長髪、青目
バッシュフル…栗毛長髪、茶目
スニージー…金髪ものすごい巻毛爆発、緑目
クランピー…赤髪短髪、茶目
ドーピー…黒髪ボブ、青目
ハッピー…金髪短髪、青目
スリーピー…紺黒ボサボサ長髪、琥珀




