ラス、行きづまってサボる
――ラスが逃亡することを決めてから、ひと月。
季節は緩やかに変化し、朝夕の鍛錬に涼しい風を感じることが増えた頃。
(全ッ然、森から出られない! 一体どうしたらいいんだ……!)
道に迷ったフリをしてバッシュフルの鍛錬で森から逃げようとしたり、スニージーが開けっ放しにしていた私室に入りこんでみたり、自室の窓から勝手に出ようとしたりと彼なりに行動してみたが、すべて失敗もしくは失策に終わっていた。
無理やりに森から、こっそり部屋の窓から出ようとした瞬間に指環が反応し、瞬く間に近くのガヴァネスの元へと転移させられてしまうのだ。
鍛錬中ならともかく、窓からハウスを出ようとしたときはドーピーの部屋に転移してしまい、「おや、スライム療法をお望みなんですねぇ?」「ち、違うから!」と心底恐ろしい思いをしてしまった。
当然ながら最近のラスは、無計画に逃げることに慎重になっている。
(出るには協力者が必要……? いまのところ、脱出できる可能性があるとすれば、ガヴァネスの部屋にある『黒の大鏡』からだけだ)
――以前、開けっ放しになっていたスニージーの部屋にこっそり入りこんだときのことだった。ラスは見覚えのある大鏡が部屋の奥で布をかぶっているのを発見したのだ。残念ながら触っても叩いても発動はせず、すごすごと自室に戻ったが――。
その後、ガヴァネスたちが時々外出と称して家に戻っていることを、すっかり板についてきた盗み聞きで知った。各部屋の大鏡を介して出入りしていることは間違いなさそうだ。それこそドックは毎晩帰って自宅で休んでいるらしいことも。
だがそこから先がうまくいかないのだ。
「まだまだ」「甘ちゃん」「根性足りない」
試練におけるガヴァネスたちの評価も変わらない。
彼はどんな情けない事実も平常心で受け止められるようになっていたが、その分、彼の決意は固くなっていく。
(実力がないのは理解している。でも、これ以上貶されるのは真っ平だ。どうせ王になる資格を得られないなら、僕はさっさと帰る……いや出奔する)
しかし今日とて好機はなく、ラスは重い足を引きずって千本火球に向かうのだった。
*
夕食後。スリーピーの書庫の重い扉を開けたラスの鼻に、古い紙と埃の匂いが入りこんだ。相変わらずくしゃみが止まらないスニージーはこちらも苦手らしく、絶対に立ち寄らないようにしているらしいが、ラスにとっては好きな匂いだ。
魔法による灯りが煌々と部屋を照らす中、歴史担当のスリーピーは書棚と書棚の間の絨毯に腰を下ろして今夜もやはり本に目を落としていた。
ハウスのこの書庫では、王宮の本棚と繋がる特殊な魔術が施されており、この場所に来れば好きな古書が読み放題。歴史の表に出せない謀反人や王族の悪事、悪趣味な犯罪の解説書でも、読みたいと願うと関連する蔵書が出現する魔法の本棚がある。
それを、当の王子よりもガヴァネス――スリーピーが書庫を満喫していることは周知のことで、事実上の缶詰状態。不寝番とは言いようで、夜中読書に興じている本の虫だ。
入ってみ鈴分は待っただろうか、微動だにしなかったスリーピーがようやく顔を上げた。
「……あぁラス。おいで」
このガヴァネスにラスは、他の者たちにはない、気の置けない友人か家族に話しかけるような呑気さを感じていた。
ただしラスと同じ黒紺色の、ボサボサの髪は明らかにずっと散髪していない。髭だけはこまめに剃っているようで、今夜は無精髭程度。
ラスは彼に出会って初めて、不清潔という概念を知ったのだ。変な匂いがするわけではないが、やはり身だしなみは大切だ。今日も前髪は伸びっぱなしで表情は見えづらい。
だがその長い前髪の奥には、
「さっきドックが褒めてたぞ、今日で二週連続『悪くありません』だそうだ。頑張っててえらいぞ」
と、いつも変わらない優しい色が浮かんでいると分かる。
「そりゃあ少しは成果も出るよ、もう三ヶ月もここにいるんだ」
少しのくすぐったさを肩をするめることで誤魔化す。しかしスリーピーは不思議そうに続ける。
「そうか? 君の実力だと思うが」
「そんなことない。だって……今日もへとへとだし」
ラスをまじまじと見つめた男は短い髭をじょりと撫でて、「本当に疲れてるみたいだな。今夜はしっかり寝るように」と、穏やかに言った。
「それはスリーピーにだけは言われたくない」
「ははは、確かに」
再び本を見下ろしたスリーピーが「う、目が霞む」と眉間を指で揉んだ。少々年寄り臭くてラスは笑ってしまう。
(……もし打ち明けるなら、スリーピーがいい)
実は彼は、もう何度か本心を言いかけては飲みこんでいた。照れと不安で興味もないのに側に置いてある本の背表紙をちょいとなぞった。
(でも、『逃げるなんて』とがっかりされたら? 優しいスリーピーが冷たくなるのは)
一瞬だけ想像し耐えられそうにないと諦めた。ラスはそっと首を振り、いつの間にか始まっていたスリーピーの講義に耳を傾ける。
それはおとといラスがつい「気になる」と言った、ノウス国と他国の王権比較の内容で、約百年前の内紛と革命が国同士影響し合っているという説明だ。魔術で宙に地図を描いてくれるので大変分かりやすい。
つい五十年前、ラスの祖父が王になる頃まで大陸内は小競り合いが絶えず、政争と暗殺の跋扈する時代だった。
王は、強くなければ首を掠め取られ簒奪される存在だったのだろうと彼は思う。
(『王』って……なんだろう)
――すでに歴史の試練課題は初日に伝えられていた。
「どの地点でもいい。この国の歴史と未来を思って君は『どのような人間でありたいか』。それが分かったら教えること」
「どのような人間?」
「そうだ。僕とノウスや他国との歴史を興味のまま好きに学んで、ここで暮らして……。いまの君と変化したと思ったら教えてくれ」
もちろん変化はしていた。
早く皇務のできる有能な王子になりたかった気持ちは、ちっぽけな自分として生きていくしかない――王子であることを放棄するしかないと、決定的に変わっていた。
「王権は、時代や王自身の資質によって変化があってしかるべきで……」
スリーピーの語る歴史は常に『いま』が重なって見える。自分の背負うべき未来すら見通されているようでラスは苦い唾を飲む。
(どんな人間なら、王になれるんだ。どれだけ強くなきゃいけないんだ)
臣下を前に謁見する父の威厳、執務に追われても皇務とあれば寝ずに出かけていく。その姿に幼いときはどれほど憧れたか。
(僕だって、できることなら……。いいや到底無理だ。逃げるんだ、そうした方がいいんだ)
スリーピーは時折、何か言いたげなラスを気遣わしげに見つめた。言葉を切ってもぼんやりとする彼の表情は明らかに暗いからだ。
だがこの日も、ラスは大人しく講義を受けて自室へと戻っていった。
***
それからまた二週間が経った。
計画の永久座礁を感じ始めていたラスは、食欲がわかず、この日ついに昼食を断った。
バッシュフルが「んま! どうしたのよ」と驚き、ドックが動揺した様子を見せ「夕食は待ってますから」と親し気に肩に触れたことが少し意外だったなぁと、彼はベッドでゴロゴロしていた。
仮病は下手と分かっているので午後の授業は出るつもりだったが。
(誰かと、試練以外の話をしたい)
王宮では年の近い侍従が話し相手だった。大した話をする仲ではなかったが、いま会えるなら小一時間はとりとめのない雑談に付き合ってほしかった。
勉強と鍛錬と所作――振り返れば王宮でやってることは変わらないが、違いがあるとすれば一緒に生活している男たちと打ち解けていないということだろう。ラスは枕に顔を埋めて、ガヴァネスたちの顔をひとりひとり思い浮かべた。親の顔より見た七人――。
(スリーピーはきっとまだ寝てる。もし起きていても読書を邪魔したくはないし……じゃあ他の誰かと? いや、いまさら雑談なんて無理だ)
話し相手にしろ逃亡の協力者にしろ、ほんの雑談相手にしろ、ラスに頼れる者はいない。
(……みんな、授業以外は何をして過ごしてるんだ? ドーピーは実験かな、バッシュフルはハーブで何をして?)
彼はそこまで考え、ガヴァネスの誰ひとりについてさえ専門や容姿のほかは詳しく知らないと気づいた。趣味のひとつさえ。
ただしそれは以前のラスにとってはごく当然のことで、彼が王宮で接する者たちにはすべて役職がついており、それ以上の付き合いを求めることも求められたこともなかった。物心ついたときには、実の父と母も例外なく。
友情がどのようなものかも本の中でしか知らず、ハウス内で最も話しやすいスリーピーも年は離れているのでそれなりに遠慮しているのだ。
(みんなを王宮で見たことがないってことは、出入りを許されていないとうことか……?)
王族の居住区に出入りできるのは一握りの爵位持ち。官吏にも位があり、王宮に用がある所属は限られている。特に魔術師は都から離れた専用の研究塔に勤めているのが通例で、あまり人前に出ないものだ。
(魔術が達者とはいえ全員が魔術師ではない気もするな、口も達者だし。ドックはそれなりの年に見えるから妻子がいてもおかしくない。礼儀作法の権威って仕事があるのか? スニージーとクランピー、バッシュフルは……? あんなに目立って強い連中、噂になってもよさそうなのに聞いたこともない)
大抵、自由のない王子王女は耳年魔に育つものだ、ラスも例に漏れず名のある官吏や魔術師には詳しい。彼はむくっと起き上がり悶々とする心地に眉を寄せた。
窓の外は秋の晴天で、ドックが趣味で手入れする楚々とした花々が揺れている。何度かあの美貌が土いじりをしているところを通りかかったことがあった。見事な白金糸の髪を無造作に束ねてしゃがみこむ彼は、ひどく嬉し気だった。
その目尻が誰かに似ていると思ったのは一瞬で、ラスは鍛錬に向かったのだ。
(ドックは花が好きなんだろうな。尋ねたことはないが……)
しかし尋ねたところでどうなるということもないか。
再びふて寝してやると半身をシーツに埋めたときだ、こつんと小石が窓枠を打った。ラスはハッと耳を澄ませた。
するとまた一度、今度は二度続けざまに窓枠が鳴った。そこで彼はようやく力を抜き、「どうぞ」と外に向かって応えた。
「よぉラス。お前……何だそのしけた顔!」
「うるさいな。なんだっていいだろ」
ハッピーだ。
彼は時折こうやって合図して窓から入ってきては、ラスを外に連れ出そうとする。これがあるので彼は自室でも油断できない。彼とふたりのときは口調がうつってしまうほどには、雑な対応になっていた。
「はー? 先輩に向かってその態度? せっかく暇そうな僕ちゃんを街に連れてってやろうと思ってたのに。じゃ、ひとりで行くわー」
ハッピーの引き際は早い。これまで外出の機会を掴み損ねて歯噛みしたことは、ラスにとって一度や二度ではなかった。
「ま、待てよ!」と、彼はその華奢な背中に初めて叫んだ。彼は咄嗟、羞恥で頬を赤らめたがすぐに、えぇいどうにでもなれと寝台の上で立ち上がった。
「僕も行く! ちょうど暇してたんだ」
頬の熱さに最後、ぎゅっと口を引きしめる。
ぴたりと動きを止めたハッピーはゆっくり振り向くと、それに気づいたようだ。
「今日は夜市が立つんだぜ、王子さま」と、にかっと笑った。
お読みくださりありがとうございました!
気づきのとおり、作者は黒髪長髪が好きです()




