ラス、くじける
(……結局は僕は、それなりの鍛錬しか積んでなかった)
何度唱えたか分からない言い訳を、ラスは高級燻製肉と共に飲みこんだ。汗の出尽くすほどバッシュフルに絞られた彼は今、フォークを持つのも朝食を食べるのも億劫だ。
「(バッシュフル、ラス半分死んでんじゃん。あれクランピーの授業できんの)」
「(食事は黙ってお食べなさい、ハッピー)」
分かりやすい揶揄いにも、ラスは反応する気になれない。しかしそれで次の授業がクランピーの火魔法と思い出し、分かりやすく項垂れてしまった。本当に嫌だった。
(あぁ、やりたくない)
クランピーの姿が見えないところを見ると、我慢できず先に演習場で待っているのだろう。彼は大変なせっかちで、短気。
「ラス、ドックが見ていますよ」
隣の席のドーピーがそれと分からぬよう耳打ちした。
その寸前、ラスはドーピーに鼻の先を水魔法で濡らされた。このガヴァネスは時々こういう悪戯をする。
ラスは驚くこともなく素直に姿勢を正した。慣れたものだった。魔術の水はすぐに乾くので他の者には見咎められず、だからと言って下手に文句を言うとあとから面倒になるのだ。
ラスはできるだけ美しく見えるように銀のカトラリーを持ちあげた。
(そうだよな。僕がいまのところ及第点なのは礼儀作法だけ。せめて食事中ぐらいはしっかり……)
ドックは和やかに食事を楽しんでいるように見えて、常にラスの所作に目を光らせている。授業の頻度は最も少ないものの、彼から出された課題は「呼吸すら優雅に」「合格はわたしの独断です」というもの。常に観察される、最も辛い課題ともいえた。
(でもやっぱり……食欲が出ない)
憂鬱さに肉の味さえ分からなくなり、彼は頑丈な楕円の食卓で咀嚼する彼らをそれとなく見回した。
――ラスの向かい、「ぐしゅぐしゅ」と鼻を鳴らすスニージーは一昨日から秋の花粉症が始まってしまい、食事や授業どころではない。
風の魔術師であるスニージーのオリーブがかった金髪はいつも乱れている。バッシュフルがあれこれ工夫しても歯が立たないひどい癖っ毛だ。
そんな彼はその細やかな魔法技術を以てとめどない鼻水を一瞬堰き止め、なんとかパンを口に放りこんでいる。鼻が真っ赤で本当に気の毒でしかない。
目を引くのはやはり、カヴァネスたちのリーダー、ドックだ。
豊かな白金髪を背中で緩く編んで流し、常に柔和な表情と挙動は優雅の一言。もし頭に王冠を乗せたら誰もが王と勘違いするだろう、威厳ある礼儀作法担当の最年長。微笑みは優しそうだが内心は分からないぞと、ラスは警戒している。
その隣にはブルネットを女性っぽくまとめたバッシュフルが、これまた意外なほど美しい所作でナイフを振るっている。しかし見ればみるほど筋肉である。彼には間違っても歳など尋ねてはならない。
その向かい側はふたつ並んで空席になっており、火の魔法使いクランピーと、歴史担当スリーピーの定位置だ。スリーピーはいわゆる不寝番で、夕方になると起き出してくる紺黒髪のボサボサ頭。
ラスの隣は水の魔法使いのドーピー。
ノウス国では珍しい純粋な黒髪、そして細かな意匠の眼鏡を着けた清潔で知的な印象の青年。二十代後半といったところだが、その物腰は老年といっても過言ではない。ただしドックと同じく微笑みを標準装備とする彼は、腹の底では何を考えているのか見えぬ雰囲気を持つ。
今もラスの視線を感じたようで、こっそり「手が止まっていますよ」と薄く笑み返した。
――そして最後はハッピー。
明るい金髪は短く襟足は刈り上げられ一見少年、程よいそばかすがさらに彼を若く見せている。
初対面の折ラスは彼を年下かと思い、「はー? 俺の方が年上に決まってんじゃん」と煽られた末、カヴァネスたちの前で男としての未経験を自白させられた。このときラスは人生で初めて出奔を考えたのだが、ともかく、ハッピーは人好きのする青年、返せば軽薄でお調子者――彼の担当は『遊び』だ。
スリーピーの歴史の授業で聞いた話では、最も古い『王妃の森』の記録には王女のために女性の家庭教師が集められたとされ、その名残でいまでも――例え男性でもそう呼ばれ続けているという。
そして七人のガヴァネスの名はもちろん呼称で、生い立ちや経歴は一切不詳。
しかし多少、いや多分に癖の強い青年壮年たちはみな、賢く腕は確かな様子。さらには王族貴族といっても遜色ない顔面と立ち振る舞い。軽薄遊び人のハッピーであってもフォークさばきは美しいのだ。
それがラスの自尊心に爪を立て続ける。昼夜を問わず彼を用なき者と責める。
「そういや今日外出するけど、なんか買ってきてほしいのあるー?」
ハッピーの機嫌のいい声がして、ぼんやりしていたラスは我に返った。そして元の苛立ちがますます膨らむのを感じ、少々強めにパンを掴んだので体積が半分になる。
ガヴァネスはともかく、ラスだけは外出を認められていなかった。
森から出ることも許されていないのだ。もし無理に出ようとすれば、しきたりによる強固な魔法が発動し黒焦げになるか一瞬で骨になるかと教わっていた。まだ試したことはなかったが。
「そうねぇ質のいいハーブがあったらよろしく〜」
「おれは柔らかい……う、」
このときイライラとパンに噛みついていたラスは気づかなかった、スニージーが大きなくしゃみにのけ反ったことを。
ぶえぇぇっくしょっっん!
同時、周囲では素早く五つの防護魔法が展開し、ガヴァネスたちとその朝食は守られた。だがラスは――――。
「……ぅわー!」
人の鼻水などかけられたことのない王子は絶叫した。
「ラス、減点です」
にっこりと微笑んだドックの瞳が、「王は常に振る舞いを評価されるのです」と伝えていた。
***
「くぉぉらぁぁ! ラス坊、王子ならバシッと迎え撃てやぁ‼︎」
「ぐぅ……そんな、こ……ぎゃあぁぁ!」
激しい火球にラスは火だるまになりかけ奇声を上げた。熱が掠める直前、咄嗟に水魔法の盾を発現させ、辛くも弾き返す。
すると赤毛が逆立ったような短髪のクリンピーは破顔する。
「そうだ‼︎ 火には水で対抗しろ、ほれもういっちょぉぉ!」
千本火球もうやだ……。
慣れた髪先が焼ける匂いに、ラスは本気で泣きそうだ。彼の火球は軽いがとにかくスタミナを要求される。バッシュフルの森抜けの疲れが子ども騙しに感じるほど長い。
「おらおら、魔術師が束で攻めてきたらこんなもんじゃないぞ! 本気で打ち返してこいッやぁぁ!」
「……ッ!…………!」
ラスは、バッシュフルからのクリンピーを終えると、必ず指一本動かせないほどになる。二週に一度のしごきだ。
倒れたまま数箇所の火傷を癒してもらい、ラスは息を乱しながらクランピーに小さく礼を述べた。
「最初よりずいぶん避けられるようになったじゃねぇか! 成長だな!」彼は頭をかき混ぜるように撫でられ、少しだけ心がなぐさめられる。
だが同時に、まるで子どもの扱いとラスの気持ちは暗くなってしまう。
短気でせっかちなクリンピーは性質ゆえか心意気がよい壮年、父と同じ年の頃。だから彼はますます自分を情けなく思うのだ。
言葉なくうつ伏せたままのラスを訝しく思ったか、クリンピーは彼の側に片膝をついた。
「くたびれたのか? バッシュの筋ほぐしか、ドーピーのスライム部屋行くか?」
「け、けけけ結構だ!」
「そうか?」
ラスは生まれたての子鹿のように震える脚を根性だけで動かし、体を起こした。
何より今はバッシュフルの顔は見たくない、それにドーピーのスライム治療は業が深い——成人前の倫理に外れる気がして、ラスはあの部屋には二度と行かないことを誓っていた。
「バッシュの野郎が『あの子寝不足よ』って言ってたのは本当みたいだな。どうした坊、何か悩みか?」
「別に……そんなんじゃない……」
ラスは口ごもった。なんと言っていいか分からなかった。
――王宮では、『どうした?』と心持ちを尋ねてくれる相手はほとんど父母しかいなかった。彼の望みや好む行為ばかりを尋ねられはしても。
父王は政治で、母后は皇務で忙しい。
彼は自然と、内心を吐露する方法を知らないまま十六歳を迎えていた。
「そうか? なら昼飯まで寝ろ」
ラスは「うん」と返事をしてしまってから、まるで本当の幼子のようだなと自嘲した。自分に酷くがっかりし、言われた通りベッドで休んだ。
*
(ずいぶん寝てしまった)
重い体を起こし、窓の外を眺めた。陽が中天から少しばかり傾いている。
予定ではスニージーの風魔法の授業だったはず、と彼はベッドから下りた。
(叱られるだろうか)
陰鬱な気分で部屋を出て、そっと食堂をうかがった。小言を言いそうな相手には会いたくないと思いながら。
「あの子、結構しぶといわねぇ」
聞こえたのはバッシュフルの声だ。
あの子とは自分のことだと、ラスは扉の裏で息をひそめた。食堂にスリーピー以外のガヴァネスたちが集まっていた、そっと隙間から中をうかがった。
「それぞれ、試練の進捗はどうなってるんだい」いつも敬語のドックが珍しく気安い口調で話している。ラスの心臓は逸った。
「体術はまぁ頑張ってるって感じよ」だがバッシュフルの声は褒める調子ではない。
「火魔法の基礎はできているが、応用の発想が貧弱だ」
「あ、水魔法も同じですねぇ、今のところ鍛え甲斐はないです」
クランピーとドーピーは肯き合う。
ラスの目の前はぐらぐらと揺れた。
「風も」
「こっちも、ど真面目すぎて話になんねぇよ」
スニージーとハッピーが首を振った。
「皇務に出すには十年くらいかかるって感じー?」
そこまで聞いてラスは再び部屋に戻った。ハッピーの最後の台詞が全身を痛めつけ、まだ温度の残るシーツを強く掴ませた。
彼は自分の実力が足りていないことなど、百も承知だったが――。
(苦しい、もう、いやだ。僕には無理なんだ)
『しきたり』に抗うことはできないと、諦めと自分への曖昧な期待で鍛錬を続けてはきた。王宮での学びが子ども騙しに感じられるほどの厳しい試練への努力も、皇務にたずさわり王宮の外に出られる希望を思えば――――。
(希望なんてない。もういやだ。王の試練なんて今すぐやめたい! 逃げ……)
『逃げる』
その言葉が浮かんだ瞬間、ラスはしばし息を止めた。
(僕は次の王だぞ……逃げるなんて……)
しかし、自分にその実力はないのだ。
(ハッピーが言ったじゃないか。あと十年はかかるって)
その瞬間、彼の中でなにかの歯車が噛み合った。
(平凡な才を隠して父王の後を継いだとしても、落胆を浴びるのが遅れるだけだ。諦めてここで無為に過ごしたとして、王宮では軟弱者の誹りを受けるだけ)
ラスは握っていたシーツから手を離し、そこに残ったひどい皺を見下ろした。
(逃げよう、ここから)
――窓の外、青葉の繁る森には細い雨が降っていた。
ラスは雨が止むまでしばらくじっとしていた。




