頭の堕ちたキュウリ
包丁が走る。
トン、と音がして、頭が消える。
それはキュウリのこと。
でも今日は、少しだけ私のことだった。
母が言う、「このほうが使いやすいのよ」
使いやすい私。
扱いやすい私。
もう考えない、もう反抗しない。
涼しい顔をして、浅漬けになってゆく。
人間誰も本心では語らない。そら当たり前
でも、こっそり影を落とす。
「少し黙ってくれれば」
「角を取ってくれれば」
「従順になってくれれば」
没個性 自我を出すと負ける戦い。
あの人は料理が得意だった。それに私も絆されていた
共働きで時間がない中でも必ず家事をしてくれた。今考えるとそれが欠けると全く家族では無かった
冷たく慈悲のない発言ばかり吹聴していると必ず他者からの反撃に遭う。
「家族なんだから大切にしな」
「今まで育ててきた恩返しを、」
とかなんとか。そのズレでまた俺は苦労する。正直「家族=大切に論法」なんとも封建的で仏教的である。
言い訳がましいが、別に両親を蔑ろにしたいとは思っていない。
ただ
ただの同居人という価値観が抜けないだけである。
話を戻そう、えっと、ああ。
あの人は漬物が好きでよく作ってくれた。
俺のリクエストではない。多分日持ちと両親が仕事に行ってる間も火を使わずに冷たいまま食べれる食材だからだろう。
一度聞いたんだ作ってる時に。
「なんでヘタをおとすの?」
「勉強熱心だね!将来一人暮らしでも大丈夫だね!」
「? うん!」
「キュウリさんは頭を落としたほうが調理しやすいんだよ。そしてね、アクが強いから、それを切ってあげてるんだよ」
「アク?このキュウリわるいの?」
「うーん、悪くはないんだけど少し苦くて使いづらいんだよね」
だいぶ、俺のこと好きだったんだろな。
でも、、その優しさに負けて頭を落とされてしまっては元も子もない。
「役に立つ」ためには、最初に“頭”を落とされなければならない。これは人間でも自然でも同じ。でなければアクが強くて扱いづらい。キュウリがそうされるように、人もまた“頭”を落とされてはじめて、社会に順応させられる。そして、ようやく“都合のいい存在”として受け入れられる
あの人から褒められた
「これでもこの子扱いやすい子になったんですよ」
隣の女が否定するかのように笑っている。
コイツもあの人の下僕になるのか
それとも、、2人目か
仕事から帰ると怒号でお出迎えされる
「連絡してよ、なんでこんな遅いの」
「その、えっと」
「なに、言い訳」
「いや、違うんだ。少し会社で呼び止められて」
「ああそう。会社会社」
「じゃあ、辞めればいいのかい」
「違う。何で話が通じないの」
大きなドアの閉まる音のあとは静寂が流れる
大人しく冷めたご飯を食べる
感情を失ってまで得たものがこれか
適合性を上げるため努力してきたこの人生
何が得なんだ
優しい顔した、悪魔。
これが女という生き物の正体。
なぜこうも見せかけの虚像に踊らされてしまうのか。
君も頭を堕したキュウリかい?
『頭を落とされた日』