福寺
住職と、春人、一平、さきは、福寺へと急いだ。しかし、そこに広がっていたのは、彼らの知る寺の姿ではなかった。古来よりこの地に根付いていたはずの寺は、跡形もなく消え去っていたのだ。ただ、その場を取り巻く空気は異様に淀み、不気味な気配が重くのしかかる。近くを流れる川は、おびただしい量の血で赤く染まり、その生臭い匂いは、霊感の強い春人の鼻腔を直接刺激した。
いつも三人で、汗を流し、時には笑い合った修行の場が、文字通りこの世から消滅した事実。それは、彼らにとてつもない衝撃を与え、ショックというよりも、底知れぬ怒りとなって彼らの胸にこみ上げた。
「住職、お寺のみんなは、まだ生きている可能性はありますか?」春人が、震えを隠せない声で尋ねた。
斎藤住職は、苦渋に満ちた表情で答えた。「多分、無理だろう。微かなオーラさえ残っておらん。おそらく、もう……」彼の言葉は、まるで重い鉛のように、子供たちの心に沈み込んだ。
しかし、春人の瞳には、諦めではない、強い意志が宿っていた。「僕はみんなを助けたいです!」
一平も、悔しそうに拳を握りしめる。彼の甘いもの好きや、少々意地悪な面も、この怒りの前では影を潜めた。「俺も助けたいです。飲み物をもらったり、一緒にランニングしたり、修行までしたのに、お別れも言えないなんて、納得できません!」
さきも、潤んだ瞳で訴える。普段の明るさは鳴りを潜め、ただただ悲痛な思いが滲み出ていた。「私も助けたいです! 本多よし子さんや、お寺のみんなと、また一緒に話したい…!」
「わしも同じ気持ちじゃ」斎藤住職は深く頷いた。彼の顔には、弟子たちと同じように、あるいはそれ以上に深い悲しみと怒りが宿っている。「だが、闇雲に探しても見つかるものではない。何か手がかりがあるはずじゃ。探さねばならん」
四人は、言葉少なに、懸命に周囲を捜索した。しかし、そこには、血の混じった川の淀んだ水音と、不気味な沈黙があるばかりで、彼らが求める手掛かりは、何一つ見つからなかった。為す術もなく、彼らはその場を後にするしかなかった。胸の奥底には、拭いきれない無力感と、静かな怒りが燻っていた。
その頃、住職は国に呼ばれていた。
内閣情報調査室の会議室で、斎藤友年は一人、重厚な椅子に身を沈めていた。日本という国を長きにわたり守り続けてきた一族、そして彼らが強固な結界を張っていた福寺が、まるごとこの世から消失した――。その事実は、単なる事件というにはあまりにも規模が大きく、もはや世界そのものが根底から覆されるような、破滅的な事態の始まりを意味していた。
福寺と封印を守り続けた一族は、「黒い影」という、人類の理解を超えた根源的な脅威から日本を守る、最後の、そして最も強固な防衛線だった。彼らが忽然と姿を消したということは、その防衛線が完全に崩壊したことを意味する。それは、巨大なダムが決壊し、全てを飲み込む津波が押し寄せるような、絶望的な状況を現出させる。日本のみならず、世界全体が「黒い影」の脅威に対し、全くの無防備な状態で晒されることになるだろう。
福寺の結界は、「黒い影」の強大な力を抑え込むための、言わば枷であった。その結界が消滅したことで、「黒い影」は完全に抑制を失い、その本質的な力を最大限に発揮し始めるだろう。それは単に活動範囲が広がるだけでなく、より予測不能で、より破壊的で、そして恐ろしい速度で世界を侵食するようになるはずだ。これまで想像すらできなかったような、根源的な恐怖が、今、現実のものとなるのだ。
内閣情報調査室は、これまでも異常事態の隠蔽と、国民への情報統制を担ってきた。
しかし、日本を守る要である寺と一族が消失し、「黒い影」が世界規模で暴走し始めれば、もはやその 事実を完全に隠し通すことは不可能に近い。人々が真実を認識することを歪められたとしても、物理的な消失や世界の変容が広範囲で起きれば、パニックや社会の崩壊は避けられないだろう。隠蔽の限界と、それに伴う社会の大混乱という、これまで経験したことのない事態に直面することになる。彼らは、国民の 平静を保つための偽りの平穏を、いつまで維持できるのだろうか。
封印を守り続けた一族は、古くから「黒い影」に関する知識や対抗策、あるいはそれを封じる秘術を継承してきた唯一無二の存在だった。彼らの消失は、人類が「黒い影」に対抗するための、最も重要な知識と手段を失ったことを意味する。内閣情報調査室の持つ科学力や情報分析能力だけでは、この根源的な脅威には太刀打ちできない可能性が高い。人類は、希望の見えない絶望的な戦いを強いられることになるだろう。彼らが唯一頼れるはずの存在が消え去った今、一体誰がこの危機に立ち向かうというのか。