修行開始
春人は、まだ瞼の裏に残る微かな眠気を振り払うように、冷たい水で顔を洗い、一本一本丁寧に歯を磨いた。食堂の引き戸を開けると、すでに朝の光を浴びた二つの人影が、それぞれの朝食に向かい合っていた。
中学生の千田さきのテーブルは、その小柄な体躯からは想像もできないほど豊穣だった。湯気を上げる白いご飯を中心に、香ばしい焼き魚、そして宝石のように彩られた数々の小鉢が、所狭しと並べられている。まるで小さな祭壇のようだ。彼女は、その豊富な料理を前に、小さな体をさらに丸め込み、今にも飛びかからんばかりの勢いで箸を握りしめている。朝日を浴びてきらめく瞳は、これから始まる未知の冒険への期待に満ち溢れているかのようだった。
一方、長身の高校生、黒田一平のテーブルは、対照的に甘美な誘惑に満ちていた。繊細なクリームを纏ったケーキ、色とりどりのタルトが、まるでショーケースの宝石のように並べられている。湯気を立てるコーヒーの傍らには、すでに一口かじられたシュークリーム。彼は、それらの甘美な姿をうっとりと見つめ、時折、指先でそっと表面をなぞっている。辺りには、彼を優しく包み込むような甘い香りが漂っていた。
住職の穏やかな声が、静かな食堂に響き渡る。春人は、二人の間にあるテーブルへと腰を下ろした。目の前に運ばれてきたのは、質素ながらも温かい湯気を上げる朝食。それぞれのテーブルに広がる光景は、まるで二人の内面を映し出す鏡のようだ。これから始まる修行の日々の中で、この全く異なる個性がどのように交わり、影響し合っていくのだろうか。春人は、運ばれてきた湯豆腐の柔らかな湯気を眺めながら、そんなことをぼんやりと考えていた。
その静寂を破ったのは、黒田一平の気だるそうな声だった。「どうしたんだ、春人。そんな顔をして。ちゃんと食べないと、この後の修行で体が持たないぞ。俺なんて、甘いものしかまともに食べられないんだから、朝からこうしてエネルギーを蓄えておかないと」
間髪入れずに、千田さきの元気な声が重なった。
「そうですよ! くろちゃんは甘いものしか食べられないんですって。信じられます?私はここで修行するようになってから、なんだか食欲が増しちゃって。食べても食べてもお腹が空くんですよね!」彼女はそう言うと、頬いっぱいにご飯を詰め込んだ。
修行が始まり、午前中から休む間もなく続く厳しい鍛錬の中で、春人はすぐに二人の言葉の意味を痛感した。ひたすら走り続ける山道、繰り返される体幹トレーニング。額から流れ落ちる汗が、体力を容赦なく奪っていく。午前中が終わる頃には、春人はすでに全身が悲鳴を上げていた。筋肉は硬直し、一歩踏み出すごとに鈍い痛みが走る。昨日の朝、質素に見えた自分の朝食でさえ、今となってはもっとしっかりと味わっておくべきだったと後悔した。
春人は、午前中の修行を終え、まるで全身の水分が抜け落ちたように、その場にへたり込んだ。足は鉛のように重く、一歩踏み出すごとに悲鳴を上げそうだ。全身の筋肉が、昨日の自分を恨めしそうに訴えかけている。
そんな春人の様子を見て、千田さきが、どこか懐かしむような笑顔で言った。
「私も初日は死ぬかと思ったよ。わけもわからず、ただひたすら境内の隅から隅まで走らされたから」
隣で、黒田一平が、疲労困憊の表情でうなずいた。
「うん、俺もマジでやばかった。あの時は本気で、こっそり荷物をまとめて家に帰ろうとしたんだ」彼の言葉には、冗談めかしながらも、当時の切実な思いが滲んでいた。