ちずるさんに会う
春人とさきは、住職のメモに記された道を歩いていた。この「あの世」は現実世界に酷似しているが、その空気はどこか冷たく、湿り気を帯びていた。道行く人々いや、霊体たちは、皆一様に虚ろな目をしている。彼らは春人たちの存在を強く意識しているようで、時にその視線は鋭い刃物のように二人の肌を刺した。住職の「会話は極力避けるように」という忠告を胸に、春人とさきは、霊体とぶつからないよう細い道を慎重に進んでいく。道はまるで迷路のように入り組んでおり、背後から追ってくるかのような霊体の気配に、二人は何度も息をのんだ。
やがて、目的の建物が見えてきた。鉄筋コンクリート造りの二階建て。古いが、手入れが行き届いているようだ。入り口の扉を開けると、ほのかなお香の香りが二人の鼻腔をくすぐった。受付のスタッフは、人当たりの良い女性だった。にこやかな笑顔は、この場所に似つかわしくないほど温かく、二人の緊張を少しずつ解きほぐしていく。彼女は二人に、最中と羊羹を差し出してくれた。添えられたお茶と絶妙に合い、さきは嬉しそうに目を輝かせた。「おいしいね」と春人が話しかけると、さきも「うん」と頷く。束の間の安らぎが、二人の心をそっと包み込んだ。
別室に通された二人を待っていたのは、ちずると名乗る女性だった。「よく来たね、よろしく」と、彼女は柔らかい口調で語りかける。その瞳の奥には、すべてを見通すような深い叡智が宿っているように感じられた。「あの世では、私は情報屋と魔術の指南役を務めているんだ」ちずるは言葉を続けた。「現実世界と違って、ここでは電話が使えない。だから、私たちが必要な情報を伝える役目を担っている。住職からは、緊急で来たという話は聞いている。しばらくはここでゆっくり過ごしなさい。これから受ける修行は、想像を絶するほど厳しいからね。今はひたすら体力を温存しておくんだよ」
春人とさきは、真剣な面持ちで頷いた。「わかりました」「はい」と、力強く答える。
「そうそう、春人とさきに、どうしても伝えておかなければいけないことがあったんだ」ちずるの言葉に、二人は静かに耳を傾けた。
「まずは、春人から話そうかね。あなたの、お母さんは生きている」
その言葉は、春人の心を激しく揺さぶった。彼は信じられないというように、ちずるの顔を凝視した。「本当ですか?」
「ああ、本当だよ。春人のお母さんと、さきのお母さん、そして一平の祖父は、現実世界で強固な結界を張ってくれている。今すぐ会うことはできないけれど、時期が来れば必ず会える。再会を信じて、頑張って修行に励むんだよ」
さきも、震える声で尋ねた。「私の母も生きているんですか? 入院中の父からは、私が赤ちゃんの時に亡くなったと聞かされていました……」
ちずるは静かに頷いた。「うん、生きている。春人のお母さんとさきのお母さんは、あなたたち二人を守るために、あえて真実を隠していたんだ」
「どうしてですか?」さきの声が震える。
「あなたたちが、殺される恐れがあったからだよ。あなたたちには、黒い影に対抗できる特別な力がある。その力を恐れた何者かが、あなたたちの命を狙っていたんだ。お母さんたちは、それを悟り、自分たちが生きていることであなたたちが危険に晒されるのを恐れた。だから、死んだことにして、身を隠したんだよ」
ちずるの言葉に、二人は言葉を失った。自分たちの命を守るために、親が身を隠すという過酷な現実。それは、春人たちの想像を遥かに超えるものだった。
ちずるは、静かに春人を見つめて続けた。「そして、春人のお父さんは、あなたを助けるために、身代わりとなって命を落とした。彼が命を賭して守ろうとしたのは、あなたの命だけではない。あなたに宿る、この世界を救うための、特別な力だったんだ。今もこの『あの世』にいるから、一度会いに行ってあげなさい。今でもずっと、あなたのことを心配しているよ」
春人の瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出した。声にならない嗚咽が込み上げ、彼はただひたすらに泣き続けた。これまでずっと、両親は行方不明だと聞かされてきた。生きてるのか死んでいるのかさえわからない、そんな曖昧な不安を抱えながら生きてきた。だが、父は自分を庇って命を落とし、母は自分を守るために身を隠している。その事実が、春人の心を強く揺さぶった。悲しみ、悔しさ、そして感謝。様々な感情が渦巻き、涙となって頬を伝った。
さきもまた、静かに涙を流していた。自分を守るために、父親が嘘をつき、母親が姿を消した。その壮絶な真実に、彼女の心も激しく揺さぶられていた。しかし、彼女の涙は、悲しみだけではなかった。生きていると分かった母への、再会を願う強い想いが、その瞳に宿っていた。
ちずるは、そんな二人の姿を静かに見守っていた。彼女の顔には、温かい微笑みが浮かんでいる。「悲しいことは、ない。あなたたちのお父さんやお母さんは、あなたたちのことを心から愛している。その愛を、胸に刻んでおきなさい。それが、あなたたちの力になるから」
その言葉に、春人は顔を上げ、ちずるの目を見つめた。その瞳には、もはや悲しみだけではない、父の死を乗り越え、母と再会するために、そしてこの世界を守るために、強くなろうとする決意が宿っていた。
「わかりました。父に、会いに行きます」春人は涙を拭い、力強く言った。さきも、自分の決意を新たにするように、深く頷いた。
彼らが、新たな一歩を踏み出す時が、来たのだ。