奏との勝負
次の日──
昼休みの教室。ざわつく中、天宮蒼太はひとり静かに参考書を読み込んでいた。そんな彼のもとへ、橘奏がそっと歩み寄る。
「天宮くん、少しだけ、お時間よろしいですか?」
突然の呼びかけに蒼太が顔を上げると、奏は少し恥ずかしそうに、それでもどこか覚悟を決めたような顔をしていた。
「うん、いいよ。何かあった?」
「……中間テストのことなんですが」
「テスト? ああ、もうすぐだもんな」
奏はこくりと頷くと、一度視線を外し、ためらうように指先を絡めた。そして、再び蒼太をまっすぐ見つめる。
「よろしければ、その……中間テストで勝負しませんか?」
「勝負?」
「はい。合計点で勝った方が、負けた方に“言うことをひとつ聞いてもらう”っていう条件で……」
蒼太は一瞬だけ沈黙し、それから小さく笑った。
「……奏、こう見えて俺、けっこう本気で勉強してるよ?」
「知ってます。だからこそ、挑戦してみたいんです」
その言葉に、蒼太はほんの少し目を細めた。彼女の声は静かだが、確かな意志を帯びていた。昨日までより、少しだけ距離が縮まったように感じるその表情。
「いいね。面白そうだ。……ただ、俺が勝ったら後悔するかもよ?」
「それでも構いません。……約束ですよ、天宮くん」
ふたりの間に交わされた、静かな火花のような約束。教室の喧騒の中で、それはたしかに始まった。
数日後、放課後の図書室──
中間テストまで、あと一週間。 いつものように放課後、蒼太は図書室で問題集を開いていた。静まり返った空間に、ペンの走る音だけが響いている。
「……あの、ここ、いいですか?」
顔を上げると、そこには橘奏の姿。手には数冊の参考書とノート。
「もちろん。……でも、珍しいね。図書室に来るなんて」
「最近、自宅だと少し集中しづらくて……。それに、天宮くんがどんなふうに勉強してるのか、気になったので」
冗談めかしてそう言う奏に、蒼太は苦笑した。
「……見ても参考にはならないと思うけど」
奏は小さく笑うと、蒼太の斜め向かいに腰を下ろす。ふたり並んで机に向かうのは、これが初めてだった。
数十分後───
ページをめくる音、ノートを走るペン、そして時折こぼれる小さな咳ばらい。 そんな中、奏がそっと口を開いた。
「……ねぇ、天宮くんは、なんの教科が一番得意ですか?」
「数学と英語かな。理系寄りだと思う」
「私は……国語と世界史です」
「じゃあ、得意科目で差をつけないと勝てないね」
「はい。だから、数学も英語も、ちゃんと対策します」
奏はまっすぐにそう言った。対抗心というより、宣言のような響き。蒼太はその真剣なまなざしに、どこかくすぐったいものを感じる。
「……やっぱり、奏は努力家だね」
「天宮くんほどじゃありません」
「そんなことないよ。俺はもう“勝ちたい”って気持ち、ちょっと薄れてきたかも」
「え?」
「奏がどこまで伸びるのか、そっちの方が楽しみになってきた」
一瞬、沈黙が落ちる。 けれど奏は、静かに微笑んだ。
「……それでも私は、勝ちます。言うこと、ひとつだけ決めてますから」
「お、それは楽しみだ」
蒼太がそう返すと、奏は照れたように視線を落とし、ふたたびノートに向き直った。 静かな図書室に、また勉強の音だけが戻ってくる。
中間テスト当日──
テスト当日の朝。 いつもの教室が、今日は少しだけ違って見えた。ざわつく空気、机に広げられたノート。みんなの表情には緊張と集中が浮かんでいる。
橘奏もその中にいた。席について、鉛筆を握りしめた手をじっと見つめている。
「おはよう、奏」
背後から声をかけられ、彼女ははっと顔を上げた。
「……天宮くん。おはようございます」
「準備は万端?」
「……もちろんです」
そう言った声には、いつもよりわずかに強がりが混じっていた。 けれど蒼太は、からかうこともせず、優しい目でうなずいた。
「そっか。じゃあ、お互い頑張ろう」
「はい。……負けませんから」
奏は少しだけ顔を赤らめながら、静かに宣言した。
数時間後──
全教科の試験が終わり、答案用紙も回収されて、ようやく教室に解放感が戻った。 重苦しかった空気は少しずつほどけ、友人同士で答え合わせが始まり、笑い声も戻ってくる。
そんな中、奏は席でうつむいていた。自分のノートを開いたまま、静かに数字を並べていく。
「……思ったより、差が出ちゃったね」
聞き慣れた声に顔を上げると、そこには蒼太。手には、彼なりに簡易的にまとめた自己採点のメモ。
「……負け、ですね」
奏は自分の数字を見ながら、静かに言った。
「でも、すごかったよ。数学、かなり点数上がってたじゃん」
「それでも……届かなかった」
一瞬だけ、唇をかんだ奏。でもすぐに顔を上げて、まっすぐ蒼太を見た。
「約束、ですもんね。言うこと、聞きます」
蒼太はしばらく奏を見つめ、それからふっと笑った。
「……実はさ、まだ決めてなかったんだよね。何を頼もうかって」
「え?」
奏が目を瞬かせる。てっきりすぐに何かお願いされるものと思っていたのだろう。
「昨日までずっと考えてたんだけど、なんか……“命令”するって感じが苦手でさ。俺、お願いする立場なのに、何を頼もうか迷っちゃって。だから……もうちょっと考えていい?」
「……あ、うん。もちろん。それは……全然、構いません」
奏は少し拍子抜けしたように、それでもどこか安心したように微笑んだ。
「ありがとう。じゃあ、また今度、ちゃんとお願いするから。期待しすぎないで待ってて」
「わかりました。でも、変なことはダメですからね?」
「それ、フリに聞こえる」
「違います」
と、そこで昼休みのチャイムが鳴った。二人は自然と席に戻り、いつもの日常に紛れていった。
──翌日。放課後の帰り道。
「よっ、天宮」
振り返ると、村上樹が手を振りながら走ってきた。制服のポケットから、何やらカラフルな紙を数枚引っ張り出して見せる。
「これ、俺の兄貴が使わないってくれたやつ。遊園地のペアチケット。期限も近いから、誰かと行ってこいよってさ」
「遊園地?」
蒼太は思わず受け取ったチケットを見つめた。きらきらとしたロゴ、ふたつの入場券。
「……誰かって、簡単に言うけどさ」
「お前、負けた子に“お願い”するって話だったろ? ……ちょうどいいじゃん」
樹はにやっと笑い、軽く背中を叩いてきた。
「なに頼むか迷ってるなら、これ渡して“付き合え”って言え。あ、言い方はもっとマイルドにな?」
蒼太は苦笑しながら、チケットを見つめた。
──“お願い”、決まったかもしれない。
翌日──昼休みの屋上。
校舎の片隅、少し肌寒い風が吹き抜ける中、蒼太はひとりベンチに腰掛けていた。ポケットに忍ばせた封筒の存在が、いつもより重く感じる。
ドアが開き、誰かがそっと近づいてくる気配。
「……天宮くん?」
振り向けば、奏が制服の裾を押さえながらこちらへ歩いてくる。昼休みに屋上に来るなんて、珍しい。
「来てくれてありがとう。……話、いいかな」
「はい。昨日の“お願い”のこと、ですよね?」
奏は小さく笑ってそう言ったが、どこか緊張した面持ちだった。彼女の手も、制服の袖口をきゅっと握っている。
「そう。……悩んだんだけど、ちょうどいいきっかけがあってさ」
蒼太は封筒を取り出し、奏に差し出す。中を見た彼女の目が、ぱちぱちと瞬いた。
「……遊園地、のチケット?」
「うん。ペアチケット。たまたま友達から譲ってもらって。もしよければ、週末、一緒に行かない?」
沈黙が落ちる。
奏はゆっくり視線をチケットから蒼太に戻すと、ほんのわずかに首を傾げた。
「それが……“お願い”ですか?」
「うん。テストに勝ったごほうびっていう名目で。強制じゃないけど」
蒼太は照れ隠しのように肩をすくめた。けれど、心のどこかでは奏の返事を必死に待っていた。
「……それって、デートですか?」
まっすぐな問いに、蒼太は少し目を見開く。そして、少しの沈黙のあと、ゆっくりとうなずいた。
「……そう思ってくれて、いい」
その一言に、奏の頬がわずかに紅く染まる。けれど逃げるような仕草はせず、むしろまっすぐに視線を重ねた。
「わかりました。行きましょう、一緒に」
「……いいの?」
「はい。“言うことをひとつ聞く”って約束、ちゃんと守りますから」
奏はふっと微笑んだ。いつもの冷静さに、少しだけ柔らかさが加わったその笑みに、蒼太の心がわずかに跳ねる。
「ありがとう、奏」
風が吹き抜け、ふたりの制服を揺らした。春の空は高く、どこまでも青く澄んでいた。
週末の約束は、まだ少し先。けれど、それを待つ時間さえも、ふたりにはきっと特別なものになる。