青い瞳の美少女との約束
──朝。 天宮蒼太は、いつもと変わらぬ時間に家を出て、同じ道を歩き、同じ校門をくぐった。 春の空気はまだ少しひんやりしていて、制服の襟元を指で整えながら、ゆっくりと歩を進める。道端には菜の花が風に揺れていて、その鮮やかな黄色がまるで、朝に差し込む光のように感じられた。
教室の扉を開けると、中にはすでに何人かの生徒がいて、賑やかすぎず、静かすぎず、ちょうどよい空気が流れていた。 その中に、橘奏の姿があった。窓際の席に座り、鞄からノートを取り出していた彼女がふと顔を上げる。
視線が交差する。 ほんの一瞬のことだった。けれど、その短い一瞬で、互いの気配をちゃんと感じ取った。 奏がわずかに口元を緩め、静かに微笑む。蒼太もそれに応えるように、ふっと目を細めて小さくうなずいた。
それだけだった。会話も、合図も、何もない。けれど、言葉にしなくても通じ合うものが、そこにあるように思えた。 それはまるで、何かの始まりを告げる合図のような、柔らかで温かな空気だった。
──特別なやり取りがあったわけじゃない。けれど、昨日までとは確かに違う、ほんの少しだけ心が温かくなるような、そんな朝だった。
1日は静かに過ぎていった。 授業の合間に何度か奏と視線が交わることがあっても、特に声を交わすことはなかった。 周囲にとってはきっと、普段となんら変わらない風景。 でも、蒼太の中には、確かに何かが小さく動いていた。 名前も知らなかった頃の彼女ではなく、昨日並んで歩いた“橘奏”という存在が、少しずつ輪郭を帯びて心に残っていく。
──放課後。 教室には数人の生徒が残っていて、それぞれの課題に取り組んでいた。蒼太もその一人だった。 自分の席に座り、静かにプリントと向き合いながら問題を解いていく。 ページをめくる音、ペン先の細かな走り、誰かの咳払い──静けさの中に生活音が溶け込んでいる。
そんな中、背後から唐突に声が飛んできた。 「おーい天宮〜!」 あまりに明るく、わざとらしい声。振り返らずとも誰の声かはすぐにわかる。
「この前の英語の構文のやつ、マジで分かりやすかったぞ!」 「ほんと教え方うまいよな、お前!」
わざと周囲に聞こえるような、やや大きな声。 それはまるで“聞かせたい誰か”がいるかのようで。
蒼太はため息交じりに肩を落とすと、ペンを止めた。振り返らずに、淡々と返す。
「……うるさい」 その短い返答に、村上は「へへっ」と楽しそうに笑っただけだった。
そんなやり取りのすぐ近く。奏は何も言わず、ただ教科書に目を落としながら、その声を耳にしていた。 蒼太が誰かに頼られているという事実と、教えるのがうまいという言葉が、なぜだか静かに胸に残った。 ページをめくる指先に、ほんの少しだけ、考えごとをするような間が生まれる。
──夜。 奏はベッドの上に座り、手にしたスマートフォンを何度も見つめていた。 LINEの画面を開いては閉じ、開いては閉じ。打ちかけた文字を消しては、また打ち直す。
(……迷惑じゃ、ないでしょうか) (でも……聞いてみたい)
蒼太に教えてもらいたい。そう思ったのは、ただ学びたいからではなかった。 昨日交わしたメッセージのやり取りが、少しだけ心を軽くしてくれたこと。 今日、微笑みを交わせたこと。そして、教室で耳にした、あのやり取り。 すべてが積み重なって、気づけば蒼太のことを考えていた。
意を決して打ち込んだ文字を、そっと送信する。 『こんばんは。突然すみません。今日、村上さんが言っていたの、聞こえてしまって……』 『もしご迷惑でなければ、勉強の仕方も知りたいですし、一緒に勉強できたら嬉しいなと思って』
送信を押した瞬間、心臓がどくんと跳ねる。画面を見つめながら、深く息をついた。 しばらくして、スマホが小さく震えた。
画面には、蒼太からの返事。 『全然いいよ。じゃあ、ゴールデンウィークのどこかでうち来る?日程とかはまた話しながら決めよう』
その返事を見た瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなった。 誰かに期待して、誰かに頼ること。それがこんなにも嬉しいものだったなんて、思っていなかった。
『ありがとうございます。ご迷惑じゃないなら、嬉しいです』
それから、何度かやり取りをし、勉強会の日時を決めた。その後、また何度もそのやり取りを見返してしまう。
──ほんの少しのやり取り。 でもそこに確かに、「繋がり」があった。
翌日。 ゴールデンウィークが近づいてきたせいか、教室全体の空気もどこかふわりと緩んでいた。廊下を吹き抜ける風はもう初夏の匂いを含んでいて、生徒たちの表情もどこか浮ついているように見える。休みが目前に迫る中、放課後の教室には普段よりも笑い声が多く響いていた。雑談の輪があちこちで生まれ、誰もがそれぞれの連休の過ごし方について、嬉しそうに語り合っている。
そんなにぎやかな空間の片隅で、蒼太は一人、机に教科書とプリントを広げて、出された課題に取り組んでいた。淡々と問題を解きながらも、どこか集中しきれない自分を感じていたのは、気のせいではないだろう。ペンの先が止まりかけたその時、隣の席からぐいっと顔を近づけてくる影があった。
「で、で、で?」 囁くような低い声と、にやけた顔。村上だった。どこか企みを含んだ目つきで蒼太を覗き込みながら、わざとらしく声のトーンを落として話しかけてくる。
「奏ちゃんとゴールデンウィークにお勉強会ってマジですか〜?」
「……誰から聞いた」 顔を上げずに淡々と返すと、村上はますます満足げに頷きながら笑った。
「誰って、昨日の放課後だよ。お前らのスマホ、通知音がほぼ同時だった時点で察したわ。しかも帰り際の奏ちゃん、ちょっと顔が嬉しそうだったし? あれは何かあるなって思ったよね」
蒼太は思わず小さく息を吐き、苦笑しながら肩をすくめた。
「……勘いいな、お前」
「は〜〜い、はいはい! そういうとこなんよ、天宮くん」 楽しそうに口元を緩めたまま、村上は続けた。 「ちょっと優しくしたら懐かれて、ちょっと距離が近づいたら今度は一緒に勉強だぁ? 俺、毎日隣の席にいるんだからな? そりゃ気付くに決まってんだろ」
蒼太は「うるさい」とだけ短く言いながらも、内心では完全に否定しきれない何かを感じていた。思わず頬が少しだけ熱を持ったのを自覚し、俯いた。
「で? どこまで話進んでんの? お前ん家ってことは、もしかして二人きり? なんか飲み物とか出す感じ?」 さらに茶化すように詰め寄ってくる村上に、蒼太はもう一度「黙れって」と繰り返すしかなかったが、どこかそのやり取りすらも、心のどこかでくすぐったく感じていた。
──その夜。蒼太のスマホに再び奏からのメッセージが届いた。
『こんばんは。ゴールデンウィーク、楽しみにしています。やっぱりちょっとドキドキしますが、ちゃんと集中して勉強しないとですね』
その言葉を見た瞬間、蒼太は思わず微笑んでしまった。 奏の真面目さと、それに隠れた小さな緊張感が文字の端々ににじんでいて、どこか愛おしく感じる。
『大丈夫、勉強のことは任せて。気軽に来てくれればいいから』
そう打って送信したあとも、しばらくの間、蒼太はスマホの画面を見つめたまま、動けずにいた。 自分でも驚くほど、奏とのやり取りが嬉しいと感じていることに気付いていた。
そして数日後──ゴールデンウィーク直前の放課後。 課題を終え、帰り支度をしながらふと気づく。 自分は今、奏との勉強会を心のどこかで楽しみにしている。 それは単なる予定や用事ではなく、何か特別なものを感じさせる時間のように思えていた。 ほんの少しの緊張と、確かに芽生え始めている新しい感情。 蒼太は、それをまだ明確に名付けることができずにいたが、胸の奥で確かにそれが膨らみつつあることだけは、感じていた。
ゴールデンウィーク初日、蒼太は机に向かっていたが、手元の問題集にはあまり集中できなかった。
もうすぐ奏が来る──そう思うたびに、胸の奥がふわりと浮くような感覚になる。
チャイムの音が鳴る。
蒼太は軽く息を整えて玄関へ向かった。
「もしもし?」
「こんにちは、蒼太さん。」
インターホン越しに聞こえた奏の声は、少しだけ緊張を含んでいた。
ドアを開けると、制服姿とはまた違った雰囲気の奏が立っていた。
淡いブルーのカーディガンに白いブラウス、膝丈のスカートという上品な私服がよく似合っていて、思わず蒼太は目を奪われた。
「……似合ってる」
つい漏れた言葉に、奏は目を瞬かせたのち、頬を染めて小さく笑った。
「ありがとうございます。少し……緊張してしまって」
「俺も。……なんか、変な感じ」
奏がうなずく。いつもの教室ではない、誰もいない玄関先での対面に、二人の間にふわりとした静けさが流れる。
「お邪魔します」
「うん、上がって」
蒼太が靴を揃える奏を見守る。その仕草すら、どこか丁寧で、彼女らしい。
「……じゃあ、リビングで」
「はい…」
玄関から続く廊下を並んで歩く。わずかに触れそうな距離が、妙に意識されて──
今日という一日が、特別なものになる予感が、静かに胸に灯っていた。