蒼太の誕生日
夏祭りでたっぷり遊んだ数日後。 「さすがにそろそろ勉強もしねえとな」 そんな蒼太の一言で、二人は図書館の自習室に来ていた。
窓から射し込む夏の光を遮るようにカーテンが引かれ、冷房の風が心地よい。周囲は同じように夏休みの宿題に取り組む学生たちが並び、鉛筆の音だけが静かに響いていた。
「ここは公式を覚えるより、仕組みを理解した方がいい」 蒼太は自分のノートを奏の方へ向けて、丁寧に式を書いていく。
「なるほど……蒼太さん、分かりやすいです」 奏は感心したように小さく頷き、ノートを写した。
しばらく問題を解いたあと、二人はペンを置いて一息ついた。 「はぁ……」奏が小さく息を吐く。「でも、勉強って夏休みの雰囲気と合わないですね」
「まあな。俺だって本当は遊んでたい」 蒼太は苦笑しながら椅子に寄りかかった。「夏生まれなのにな。誕生日まで勉強漬けとか最悪だろ」
「……誕生日?」奏が首を傾げる。
「ああ。もうすぐなんだよ。19日」
「……19日」奏は小さく繰り返し、ペンを握る手を止めた。 「今月の……ですか?」
「おう。あと数日だな」 蒼太は当たり前のように笑ってみせる。
けれど奏の胸の奥では、ふっと熱いものが広がっていった。 「……そうなんですね」 抑えた声は、自分でも驚くほど小さかった。
「まあ別に、俺は気にしてねぇけどな。夏休み中だから、どうせ誰かに祝ってもらうって感じでもねーし」 蒼太は何気なく肩をすくめる。
その言葉に、奏はほんの一瞬だけ唇を噛んだ。 ──普通の一日で終わらせるなんて、もったいない。
胸の内に芽生えた決意を隠すように、奏はまたペンを取り、問題集に向かうふりをした。
図書館を出たあとも、なんとなく奏の様子が違っていた。 いつもより口数が少ないような……それでいて、時折ちらりと俺の方を見ては、すぐ視線を逸らす。
「どうした?」 「いえ、なんでもありません」 小さな声でそう返されて、それ以上は深く追及しなかった。
数日後、誕生日の朝。 特に予定もなく、ゲームでもして一日を過ごすつもりだった俺の部屋のチャイムが鳴った。
玄関を開けると、そこに立っていたのは浴衣じゃなく、白いブラウスに涼しげなスカートをまとった奏だった。 両手に、小さな箱を大事そうに抱えて。
「……奏?」 「お誕生日、おめでとうございます」
少し恥ずかしそうに差し出された箱。 中身を開けてみると、見慣れない手作り感のあるデコレーションケーキが現れた。
「……まじで作ったのか」 「はい。不格好ですけど……一生懸命作りました」
ほんの少し傾いた生クリームも、ちょっと大きめの苺も、なぜかどれも心に刺さった。 普段の彼女からは想像できないくらい、頑張った跡が詰まっている。
「雛さんたちは来てないんですか?」 首を傾げて小さく尋ねる。 「あいつら? 付き合ったばっかだろ。今年は二人で勝手にやってろって言っといた」 「……優しいですね」 「いや、別に優しくなんかねえよ。ただ……」
一瞬、言葉に詰まった。 心臓がやけにうるさくて、言いにくい。 けれど、このまま黙ってる方がもっと落ち着かない。
「ただ、今年は……奏と二人で過ごしたかっただけだ」
言った瞬間、自分でも顔が熱くなるのがわかった。 でも奏は、驚いたように目を見開いたあと──そっと笑った。
「……私も、嬉しいです」
それだけで、今日が今までで一番特別な誕生日になった気がした。
箱から皿に移したケーキを、二人で机を挟んで向かい合いながら食べ始めた。 見た目は少し不格好だけど、口に入れた瞬間、ふわっと甘さが広がる。
「……うまい」 思わず漏れた言葉に、奏ははっとして顔を上げた。 「ほんとですか? 砂糖の量とか、何度も確認したんですけど……」 「全然問題ねえよ。てか、俺、市販のやつより好きかも」
俺が真顔で言うと、奏は耳までほんのり赤くして視線を落とした。 スプーンを握る指が小さく震えているのに気づいて、なんだか俺の方まで落ち着かなくなる。
「……でも、緊張しました」 「緊張?」 「もし美味しくなかったら、せっかくの誕生日を台無しにしてしまうかと思って」 「そんな心配すんなよ。作ってもらっただけで十分嬉しいんだから」
気づけば、口から自然に出ていた。 奏は少し驚いたように瞬きをしてから、控えめに笑う。 その笑顔が、ケーキよりも甘く感じられた。
食べ進めていくうちに、奏がふと小さな袋を差し出した。 「……それと、もう一つ。プレゼントです」 「え、マジで? こんなにしてもらっていいの!?」
中を開けると、落ち着いたデザインのブックカバーが出てきた。 革の手触りが心地よくて、ページの端を守るような細やかな作りになっている。
「蒼太さん、よく本を読んでますから……。気に入ってもらえたら嬉しいです」 「……最高だわ」
胸の奥がじんわりと温かくなる。 ケーキといい、このプレゼントといい、俺のために時間をかけてくれたんだと思うと、それだけでたまらなく嬉しかった。
「ありがとう、奏」 俺は改めてそう告げて、ブックカバーを大事に撫でた。 そのとき、窓の外からセミの声が響いてきて、夏の空気の中で心が満たされていくのを感じた。
食事の後、蒼太がふと小さく笑いながら呟く。「来年も、こうやって一緒に過ごせたらな」奏は顔を少し上げ、頬に微かな赤みを帯びたまま、静かに頷く。言葉は少なくとも、互いの気持ちは確かに通じ合っていた。
ケーキを食べ終え、プレゼントも机の上に置かれたまま、二人はしばし沈黙して外の景色を眺める。夏の光と蝉の声、そして互いの存在が、穏やかで温かい時間を形作っていた。その静かな幸福は、花火や祭りの喧騒ではなく、二人だけで分かち合う心の中の特別な輝きだった。
その日の午後は、静かに、けれど濃密に過ぎていく。窓の外に広がる青空と蝉の声は、二人の記憶にしっかりと刻まれ、この夏の大切な一日を鮮やかに彩るものとなった。
2人はやがて立ち上がり、片付けを終えると玄関へ向かった。
「……あのさ、奏。今日は本当にありがとう」 「え?」奏が驚きの色を浮かべる。 「ケーキもプレゼントも、全部……俺、めちゃくちゃ嬉しかった」蒼太は真剣な眼差しで奏を見つめる。声にはほんの少しの緊張が混じっていた。 奏は頬を赤く染め、小さく微笑む。「……こちらこそ、喜んでもらえてよかったです」
蒼太は肩をすくめながらも、少し笑みを漏らした。「いや、マジで。今日みたいな一日、俺にとってはすごく特別だったから……ありがとう、奏」
奏も小さくうなずき、二人は互いに目を合わせたまましばし立ち尽くす。夕暮れの柔らかな光に包まれ、今日の記憶が二人の心をそっと温めていた。
「じゃあ……また」奏が少し恥ずかしそうに手を振ると、蒼太も同じように手を上げ、互いの距離を少しずつ開きながら家路についた。
今日の特別な一日は、互いに「ありがとう」と伝え合うことで、さらに心に深く刻まれていった。




