夏休みの勉強会2
食事を終え、片付けまで済ませると、リビングには心地よい倦怠感が広がった。
雛がソファにごろんと寝転び、両手を伸ばしながら言う。
「……おなかいっぱい。午後は眠くなっちゃいそう」
「寝たら置いてくぞ」
蒼太が呆れたように笑うと、樹もテーブルに肘をついたまま頷いた。
「いやー、でもちょっと休憩してからじゃないと無理だな。食後すぐ勉強とか拷問だろ」
そんな二人の様子に奏も小さく笑って、湯飲みの麦茶を口に運ぶ。
涼しい風がカーテンを揺らし、蝉の鳴き声だけが遠くに響いていた。
「じゃあ十五分だけ休憩して、午後の部だな」
蒼太がそう言うと、雛は「はいはい……」と気の抜けた声で返事した。
少しの休憩を終えると、再び教科書やノートがテーブルの上に広がる。
午後は雛の苦手な英語に取り組むことになった。
「ここの並び替え、全然わかんない……」
雛が悩むノートを差し出すと、奏は静かに横へ座り直す。
「大丈夫。まず、文の意味を順番に考えましょう」
奏は指先で英文をなぞりながら、ゆっくりと説明していく。
単語を一つずつ区切り、語順の考え方を噛み砕いて教えるその口調は、穏やかで耳に心地よかった。
「主語がこれで、その後に動詞。この単語は最後に置くのが自然です」
「なるほど……そういう考え方なんだ!」
雛の目がぱっと明るくなるのを見て、奏もふわりと笑みを浮かべる。
「答えだけ覚えるより、仕組みを理解したほうが次に応用できますよ」
「うん、わかった! 次からそうしてみる!」
隣で樹が小声でぼそりとつぶやく。
「先生みたいだな、橘さん」
「そんなことありません。ただ……説明するのは嫌いじゃないです」
少し恥ずかしそうに視線を落とす奏の横顔を見て、雛は嬉しそうに頷いた。
「でもさー奏ちゃんって、意外と面倒見いいよね。ちょっと憧れるかも」
「……そう、ですか?」
思いがけない言葉に少し戸惑いながらも、頬がほんのり赤くなる。
雛が間違えるたびに、奏が静かにフォローし、雛は素直に吸収していく。
その様子を眺めながら、蒼太は心の中で小さく笑っていた。
(やっぱり、こういうところ、いいよな)
その間、樹は数学の問題を蒼太に聞いていた。
ノートに簡単な図を描いて説明すると、樹が「おー、分かった!」と感嘆の声を上げる。
午後の時間はそんなふうに、それぞれのペースで進んでいった。
夕方が近づく頃、窓の外の光はやわらかく色を変えていた。
勉強が一段落すると、雛が大きく伸びをしてソファに倒れ込む。
「ふぅ……もう頭パンクしそう」
「でも、結構進んだんじゃないか?」樹が時計を見ながら言った。
「うん、午前中よりいっぱい書いた気がする!」
「今日はこのくらいにしとくか」
蒼太のその言葉に、三人が同時にほっと息をつく。
「そうだ。せっかくだしさ、夕ご飯もここで食べちゃわない?」
雛が急に上体を起こして言った。
「え?」
「ほら、みんなで作ったら楽しそうじゃん! 晩ごはんパーティーだよ!」
樹が面白そうに笑った。
「賛成! 手伝うしさ」
蒼太は少し考えた後、「……いいか。簡単なのでよければ」と頷く。
キッチンに移動すると、冷蔵庫の中の食材をテーブルに並べた。
野菜、鶏肉、卵。ありあわせだけれど工夫すれば十分だ。
「じゃあ俺はメインの鶏肉を焼く。樹はサラダ担当。雛は……」
「わたしは?」
「卵割りとか簡単なの頼む」
「むー、雑用かー!」と言いつつも、雛は楽しそうだ。
「私は何をすればいいですか?」奏が少し前に出る。
「奏は包丁お願い。野菜切るの上手だから」
「わかりました」
トントントン……
奏がリズムよく野菜を切る音が響く。
雛が横で卵を割りながら、こっそり奏の手元を覗き込んだ。
「すごーい。包丁の持ち方、なんかかっこいい」
「料理は慣れだけですよ。よく作っているので」
「なんか、憧れるなぁ……」
素直な感想に、奏は少しだけ口元を緩めた。
「雛さんも、きっとすぐ上手になりますよ。さっきの英語のように」
「えへへ……ありがとう!」
香ばしい匂いが立ち込める中、蒼太がフライパンで鶏肉を焼きながら会話に加わる。
「なあ、夏祭りの日さ、みんなで何か食べたいものある?」
「わたしはりんご飴!」雛が即答する。
「俺は焼きそばかな」樹が続ける。
「奏は?」
「……初めてなので、全部少しずつ食べてみたいです」
「欲張りだな」蒼太が笑った。
「でも、それもいいかもな。俺も全部食べたい」
夕飯のメニューは、鶏のソテー、サラダ、卵スープ、バゲット。
シンプルながらテーブルいっぱいに並ぶと、それだけで華やかだった。
「わぁ……なんかパーティーみたい!」雛が目を輝かせる。
「じゃあ、いただきます」
四人で声を揃えて手を合わせる。
鶏肉の香ばしさに、雛が最初からテンション高くフォークを動かす。
樹も「うまっ!」と頬張り、蒼太は少し恥ずかしそうにしていたが、奏が「とてもおいしいです」と言ってくれた瞬間、少しだけ表情が緩んだ。
食卓では、勉強の話だけでなく、好きな食べ物や最近読んだ本、学校のちょっとした噂話まで話題が広がっていく。
ときどき笑い声が弾け、そのたびに時間がゆっくり流れていくようだった。
食事の後片付けも四人で手分けして行う。
洗い物を終え、時計を見るともう夜の七時近くになっていた。
「今日は一日ありがと!」雛が玄関で元気に言った。
「またやろうな。次は俺の家でもいいし」樹も笑顔で続く。
雛と樹は同じ方向に帰るので、一緒に住宅街の道を歩き出した。
「じゃあまたね!」
手を振る二人を見送り、蒼太と奏の二人だけが残された。
並んで歩きながら、しばらくは言葉がなかった。
夜の風は昼間の熱気を和らげ、どこか心地よい。
「……今日は助かった。雛に英語教えてくれて」
蒼太が少しだけ横目で奏を見ながら言った。
「わたしも、説明するのは嫌いじゃないので」奏は小さく笑い、前を見たまま答える。
「雛さん、一生懸命で可愛い方ですね」
「そうだな。……あと、やっぱり奏、教えるの上手いよ」
「そう、でしょうか」
少し照れくさそうに頬を赤らめ、奏が歩幅を小さくした。
並んだ影が街灯に長く伸びていく。
「次の勉強会までに、俺ももうちょっと進めとくわ。せっかくみんなで集まるんだしな」
「ふふ、わたしもです。次はもっと役に立てるようにしておきますね」
その短いやり取りだけで、今日一日で少しだけ距離が近づいた気がした。
奏の家の角まで来ると、二人は立ち止まる。
「じゃあ、今日はありがとう」
「こっちこそ」
手を軽く振り合い、それぞれの帰り道へと歩き出した。
夜の街には、勉強と笑い声で満たされた一日の余韻が静かに残っていた。




