8.
アレンが来た日から一週間が過ぎた頃。
お父様はワインや果物を取り扱う各商会に、電話で交渉を持ち掛けていた。しかし。
「ダメだ。交渉どころか、会ってもらうことすら出来ない」
「そうでしたか……」
婚約破棄騒動の醜聞を耳にした商会から、立て続けに門前払いされてしまっていたお父様。
こちらもある程度予想していたとはいえ、マルキ家は現実の厳しさに直面していた。それでもお父様は諦めなかった。
「塞ぎ込んでいても前には進めない。私達だけでなく、農夫の将来もかかっているんだ。メソメソするのは辞めよう」
「ええ、その通りですね」
その後は交渉相手の範囲を国内全土に広めたお父様は、懸命に営業をかけ続けた。その甲斐あってか『会って話を聞いてみたい』という商会がチラホラと現れ始めた。
こうして、汽車でも片道4時間かかる遠方まで交渉に出向いたお父様が帰宅してくると。
「お父様、今日の交渉はいかがでした……?」
「それが、かなり好感触だったんだよ! まだ単価などの金額や免責関係を取りまとめる必要はあるが、契約まで時間はかからなさそうだ」
「本当!? 嬉しいッ!」
希望の兆しが見えてきたとはいえ、まだまだ以前の取引量水準には満たない。
しかし、その後もお父様が営業活動を続けた結果、3つの商会が『是非ウチでも取引させて欲しい』と取引先候補に追加となり、その中にはガルシア商会という規模の大きな商会が含まれていた。
「朗報だ! ガルシア商会から『前向きに検討したい』という返事を貰えたぞ!」
「え、すごいじゃないですか、お父様!」
「うちのブドウをバストーニ商会が独占してたせいで、ガルシア商会は手が出せなかったらしいんだ!」
正式な契約は細かな条件を煮詰めてからとなるが、4つの商会と全て契約を締結させれば、バストーニ商会の損失を凌ぐ取引量に達することになる。
お父様も安心したのか、夕食の席では胸を撫で下ろし、安堵の吐息を漏らしていた。
「まだ油断は禁物だが、近いうちに報告を待つ農夫達の元へ何とか顔向けできそうだ」
「皆さぞかし喜んでくれるでしょうね! 私からも『お父様を叱ってくれてありがとう』ってお礼しなきゃ!」
「おいおい、私は元から頑張るつもりだったんだぞ? せっかく地方のお土産もたくさん買ったのだから、もう少し褒めてくれてもいいだろう?」
苦笑いで不貞腐れるお父様のグラスに、お母様がマルキ産のワインを注ぎながら微笑む。
「そうよルナ。ここまで前進出来たのも、旦那様の人柄があってこそなんだから」
「褒めてもいいけど、あまり調子に乗ってワイン飲み過ぎないで欲しいわ。酔い潰れられても、迷惑するのはこっちなんですから」
「こりゃ〜手厳しいな! しっかしルナは本当に酒が強いッ! 顔すら赤くなってないじゃないか! ははははは……ヒック!」
「もう遅かったかしら」
祝勝会のようなムードに包まれる中、一方ではサイファーさんからも通達があり、
[無事に出産した赤子は、今も順調に育っております。半月後には首も座ることでしょう]
と、他者が見ても分からないように『半月後の計画実行に向けた裏工作が、順調に進んでいる』という報告がなされた。計画の内容は未だに不明だけれど、着々と計画は進んでいるようだ。
『アレン様達のもがき苦しむ姿をご覧入れるまで、楽しみにしてお待ち下さい……クククク――』
何でこんなにもワクワクするのだろう。
やっぱり私って……本当は性悪女だったんだわ。
そう自覚した私は、ティアラとネックレスを持ってラ・コルネへと向かった――。
店に到着して、以前と同様に事務室へ案内された私。
別室でティアラとネックレスを査定するサイファーさんを待っていると、事務室で暇を持て余していた私に、ジュディさんが世間話に付き合ってくれた。
窓際に咲いている花は何かと訊いてみたら、ゼラニウムという屋外での飼育が難しい植物らしい。
「気を付けていないと、すぐに枯れてしまうんですよ……」
過去に枯らせてしまったのか、ゼラニウムへ視線を送りながら嘆くジュディさんの瞳は、とても切なそうに感じた。あの花が余程好きなんだと思う。
話題がお化粧の話に移ると、ジュディさんはニンマリと可愛げに微笑んだ。
「薄化粧でそこまでお綺麗なルナ様は、もう少し工夫すればかなりの美人になれると思いますよ」
「そんな、お綺麗だなんて! あ、というか私って化粧下手に見えます!?」
「ふふふ、決してそんなことはございませんわ。ですが、私は以前に化粧品を扱うお店に勤めておりましたから、僭越ながらアドバイスさせて頂いても宜しいでしょうか?」
「嬉しい! 是非お願いします!」
お淑やかでいいなぁ、ジュディさん。
話してるだけで心が安らぐ。
しかもこの人、間近で見ればよく分かるけれど、尋常じゃないくらい美人だ。
黒髪パッツンボブに黒縁眼鏡のせいで一見地味に見えるけど、肌がきめ細かくて綺麗だし、アメジスト色の大きな瞳と長いまつ毛、艶やかな唇。何より、彼女の落ち着いた色っぽい雰囲気が絶妙な安心感をもたらしてくれる。
ジュディさんみたいな人を“大人の女性“って言うんだろうなぁ。私もこんな風になりたい。
「ちゃッス〜」
そこへ突然、ホーキンさんが満面の笑みで事務室に入ってくる。あーやっぱダメだ。この人の顔を見ただけで笑いそうになってしまう。
「いや〜ジュディちゃん聞いてよ! この前話してた評判のパスタ屋さんの予約がやっと取れたんだけ――」
「行ってらっしゃい。美味しかったら24時間以内に感想文提出して」
「原稿用紙何枚っすか? ……って、ちょ早くない!? そんな食い気味に断んなくても良くない!?」
「アンタみたいなハゲと一緒にいたら人間性疑われるわ」
「これは決してハゲてるんじゃなくて、潜入捜査するのに必要な変装のために剃ってるだけだから! ホントはもっとフサフサ――」
「そもそも顔が超無理。いいからおやすみ。震えて眠りな」
「お休みなさいませ、ジュディ嬢様」
木っ端微塵に撃沈して真顔になったホーキンさんと、不意に目が合ってしまう。
「あ、じゃあ、そこのル――」
「ごめんなさい」
「おはようございまーす」
その後、静まり返った事務室でジュディさんが化粧ポーチを取り出して色々と教えてくれた。ホーキンさんは立ったまま壁に向かって額を当て、何やらブツブツと独り言を呟いている模様。
そこへ、カチャという扉が開く音と共に、無表情のサイファーさんが入ってきた。
「ルナ様、お待たせ致しました。お預かりしていたお品の査定が完了致しました。ご返金させて頂く金額は合計で……こちらになります」
差し出された買取用紙に記載された額を見た私は、目をギョッとさせて愕然とした。
「……こ、こんなに!? 本当に宜しいのですか!?」
「ええ、もちろん。これはあくまでも現在の相場から査定した金額です。額が大きいので、ご口座へ入金させて頂けると助かるのですが」
「あ、はい、全然大丈夫です。ありがとうございます!」
渡された用紙に必要な情報を記入し終えた所で、ジュディさんがマカロンと紅茶を用意してくれた。ホーキンさんの分がないのだけれど――。
穏やかな空気が流れる事務室で、タイミングを見計らった私が、気になっていたことをサイファーさんに尋ねてみる。
「あの……サイファーさんさんに、一つご質問しても宜しいですか?」
「どうぞ」
「なぜ、別れさせ屋の仕事を始められたのですか?」
椅子に座って脚を組んでいたサイファーさんが紅茶を一口飲むと、ティーカップをゆっくりソーサーへ置いた。
ジュディさんやホーキンさんの表情が、少しだけ曇ったように感じる。尋ねるべきではなかったのか。
「この仕事をしていれば、いつか訊かれるだろうと予想はしておりましたが、やはり貴女様でしたね」
「変なこと質問して、ごめんなさい……」
塞ぎ込んで謝ると、彼は僅かに口元を緩めて首を横に振った。
「私には、最愛の妹がいました」
「妹さん……ですか?」
語り始めたサイファーさんから、途端に笑みが消える。
「はい。それなりに地位のある家柄へ嫁いだ妹は、とても幸せそうでした。でも彼女は驕ることなく、夫に対して誠心誠意尽くしていたのです」
「真面目な方だったんですね」
「とても優しい子でした。しかし“夫の不倫が発覚“して間も無く、妹は命を絶ってしまいました……お腹に宿した子と共に」
予想を遥かに超えた悲劇的なエピソードに、私は返す言葉もなく固まる。下を見つめたまま、サイファーさんは続けた。
「不倫で落ち込んでいた妹に、どうしてもっと寄り添って上げられなかったのかと後悔しました。ですが、いくら嘆いたところで彼女は帰ってきません。しかし世界を見渡した時、世の中には同じようなことで苦しむ女性が、大勢いることに気付いたのです。そこで“妹のように悲しむ女性を救いたい“と思い立ったのが、別れさせ屋を始めた起因です」
質問してしまったことを後悔しつつ、私は畏まって頭を下げた。
「……そうだったのですね。本当にごめんなさい。辛いことを思い出させてしまって」
「お気になさらず。このことは従業員にも全て周知しておりますから」
そこへ、ずっと神妙な面持ちをしていたジュディさんが、小さな声で話し始める。
「実は私も、店長に救われたんですよ」
「え、ジュディさんもですか?」
ジュディさんは結婚した夫が暴力男だったらしく、その夫から『勝手に外へ出るな』と束縛され、少しでも反抗しようものなら暴行を加えられる生活を送っていた。
離婚を切り出す勇気が出ず、命の危険を感じていた彼女は、友人から別れさせ屋の存在を聞いてサイファーさんの所へ駆け込んだらしい。
「酷い旦那でしたけど、法律を熟知していた店長が相談に乗ってくれたおかげで、上手く離婚することが出来たんです。それから店長の理念を知って感銘を受けた私は、お力添えしたくて『ここで働かせて欲しい』とお願いしたんですよ」
「サイファーさん素敵……」
「ちなみに、そこの壁で腐ってるカスは、元々詐欺を働いていた前科者なんですよ?」
ジュディさんに顎で刺されたホーキンさんの眉がピクリと動く。
「いやカスとか言わなくて良くない? もうそろそろメンタル持たないよ? 普通に持つけど」
「ホーキンさんはどうしてここの従業員になられたんですか?」
私の問いに、サイファーさんが応えた。
「類稀な能力を見込んで、私が仲間に誘ったのです」
「能力?」
「精巧な擬態能力ですよ。ホーキンはそれを活かした詐欺師でしたが、他にも端正な顔立ちの男に変装して、沢山の女性を口説いていたのです」
なるほど、さっき言ってた変装ってそのことか。
ジュディさんから軽蔑される訳だ。
「ふーん。擬態能力は凄いですけれど、イケメンのフリしてナンパとは、絵に描いたようなカスですね」
そう言ってチラッと一瞥すると、腕組みをしていたホーキンさんは気不味そうに目を逸らして、サイファーさんが呆れ気味に肩をすくめた。
「被害を耳にした私は、何とか苦労して彼を捕えました」
「サ、サイファーさんですら苦労したって、一体どんな方法で捕まえられたのですか?」
私の問いに、ホーキンさんが嘆息して応えた。
「女装だよ、女装」
「女装!?」
「そ! ジュディちゃんのメイクで女装した親分の女優顔負けな色気にサクッと引っかかって、ホテルでとっ捕まったって話」
「……へ、へぇ〜」
思わずサイファーさんに疑念の視線を送ると、彼は全く動じる素振りを見せずに紅茶を啜った。
その後、余罪まで暴かれたホーキンさんは2年の禁錮刑を刑務所で服役した後、出所した直後にサイファーさんから仲間への勧誘をされたという。
前科者がまともな働き口を見つけるのは困難を極めるため、ホーキンさんは喜んで受け入れたそう。
「とにかく、親分は俺の恩人ってワケ。だから今は心を入れ替えて、こうして慈善活動に協力してるんだぜ?」
「そんなこと言って、ついさっきジュディさんや私のこと誘ってきたじゃないですか。すぐ嘘つくのやめて頂けませんか?」
「はいおやすみなさーいッ!」
私の指摘にホーキンさんの喚き声が上がった途端、事務室内にドッと笑い声が鳴り響く。
こんなに笑ったのは、いつぶりだろうか。
気になっていた彼等の素性が明らかになったことで、心の中に大きな安心感が芽生えた気がする。この人達は、クライアントとの信頼関係を結ぶのが上手なんだなと、しみじみと感じた――。
ラ・コルネを出ると、夜空には満天の星空が浮かんでいた。
色々と心配事が続いてきたけれど、なんだか今日はよく眠れそうだと、晴れやかな気分で歩き出したその時――正面から“今一番会いたくない人物“がこちらへ向かっていることに気付く。
それは、2人の侍女を引き連れたフェネッカだった――。