【第四百七十五話】規格外
「イルジー・クラサってどんな人なんですか?」
朝の集合のあと、僕はリハード先生にそう話しかけた。
次の休日の日に、イルジー・クラサという人物に会いに行くことになったのだ。
「イルジー・クラサって、校長の師匠の?」
「多分そうです」
僕はそう言って頷いた。
現状、イルジー・クラサの情報があまりにも少なすぎる。
百年以上前のイルモラシア校長の師匠というのだから、さぞかし有名な人物なのだろうと思い、学校の図書館で調べてみたのだが、これといった情報を得ることはできなかった。
イルモラシア校長の師匠ほどの人物となれば魔術書一冊ぐらいは書いていると思っていたのだが、これもなかったのだ。
「うーん。彼女については僕もあまり知らないんだよなぁ……」
彼女?
「女の人なんですか?」
「そうだね」
「会ったことはあるんですか?」
「うん。一回だけちらっと見たことはあるよ」
ちらっと見たことがあるとはいえ、リハード先生が知っているとは意外だ。
情報の少なさ的に、あまり人前に姿を現さないタイプだと思っていたのだが……。
案外社交的な人物なのだろうか?
「どういう感じの人物でしたか?」
「うーん。全体的にはミステリアスな感じだったね。何を考えているかわからないような人だ」
何を考えているかわからないような人……。
「でも、魔術師としての力は世界随一だ」
「そうなんですか? ちらっと見ただけで分かったんですか?」
リハード先生がここまできっぱりと言い切るのは珍しいな。
イルモラシア校長の実力を知る立場にいながら、イルジー・クラサが世界随一の魔術師だと断言するとは。
「あぁ。多分、僕がどんな手を使ってもあの人には勝てないだろうね」
リハード先生がそこまで言うとは。
ちらっと見ただけでその評価を下すほど、イルジー・クラサの力は強大なものだったのだろう。
「多分、リーバルト君も実際に会えばわかると思うよ」
「はぁ……」
会えば分かる。
それほどまでにすごい力を持っている魔女。
確かにある程度強い魔術師であれば、相手にした時点で少しは強さについて察することができる。
だが、それでも初見で、それも戦わずに勝てないという結果を確信することはあるのだろうか?
「会いに行くのかい?」
「はい。左腕のこれを治してもらおうかなと」
僕はそう言って透明な鱗を纏った左腕を示した。
魔女化した弊害とでも言うべき腕。まるで爬虫類を思わせるような模様がどこか気色悪い。
「僕は格好いいと思うけどね」
「実際は良いものじゃないですよ。周りの視線が痛くなりますし……」
「魔術や魔女に興味がない人から見れば、奇怪なものに見えるだろうからね」
リハード先生はそう言っているものの、魔術や魔女に興味がある人でさえ、これを奇怪に見ないことはあるのだろうか。
少なくとも、一部が異形と化しているこの姿を、僕はあまり良いものとは思っていない。
「正直、僕も気になってるんだよ。それがどうなってるのか研究したいぐらいだ」
そう言って、リハード先生は腕の鱗を注意深く観察した。
その純粋さを宿した目は、伊達に魔法学校の教師をやっているわけじゃないことを認識させてきた。
もっとも、ハァハァと変態的な息遣いは気持ち悪いのだが。
「……なんとなく、フーリアさんが先生のことを嫌いになった理由がわかった気がします……」
「そう? 僕は懇切丁寧に彼女に接してきただけなんだけどなぁ……」
多分、その懇切丁寧な接し方が嫌いになったんだろうなぁ。
まぁ、フーリアさんのリハード先生に対する嫌い方は尋常じゃないので、これ以外にも原因はあるんだろうが。
「ひとまず、イルジー・クラサのことについてはわかりました。それで、その人はどこにいるんですか?」
「どこにでも」
リハード先生は本のページをめくるようにさらりとそう言った。
まるでそれが当たり前のことであるかのように。
「……はい?」
「うーん、表現が難しいんだけどね……」
リハード先生はそう言って、少し考えた様子で説明を始めた。
「彼女は常に空間系の魔法を発動していてね。効果的には状況再現の魔法と似たようなものなんだけど……」
リハード先生はそう言うと、空中に鏡面のように反射する薄い水の膜を張った。
先生の顔が隠れて、代わりに僕の顔が鮮明に映る。
「彼女が行っている状況再現は、鏡の世界だ」
「鏡の世界?」
「そう。例えば、その鏡に写っている君は、君か?」
鏡に写っている僕は、僕か。
そんなの、観測の仕方によって変わるだろう。
見た目としては僕そのものであるし、実態としては僕ではないものだ。
鏡の中の自分は意識を有していないのだから僕ではないし、僕と全く同じ動きをするのだから僕だ。
コピーかと言われれば、なんとなくそういうものではない気がする。
答えの出しようがない。
「そんなの、決められませんよ」
「はは、そうだよね。ただ、イルジー・クラサは鏡の中の自分を『器』と捉えたらしい」
「器?」
「そう。いわば意識を入れる余白がある、こっち側の自分の代替品」
「どういうことですか?」
全く持って理解が追いつかない。
鏡の中の自分が器? どういうことだ?
「要するに、魂が入っていない空っぽの存在ってことだよ」
魂が入っていない空っぽの存在……。
「それで、イルジーは鏡の世界の器に自分の魂……いや、自分という情報を自由に抜き差しできるようにしたんだ」
つまりは、鏡の中に入り込んだということだろうか。
しかし、どうやってだ?
いや、魔法を使ったのだろうということはわかる。
だが、魔法でどうやってそれを実現させたんだ?
どんなに複雑な魔法陣を何重に使ったとしても、天級の詠唱魔法を使ったとしても、鏡の世界の自分に乗り移るなんて所業、できるわけがない。
もはやそれは魔法と言えるのだろうか?
魔法というよりも、奇跡なのではないだろうか?
魔法という言葉では片付けられないほど、浮き世離れした行い。
「それって、現実の方の自分はどうなるんですか?」
「えっと……彼女がやったのは鏡の世界を再現し、自分という情報を鏡の中の像に変えた後に、本当の鏡の世界に入り込むっていうものだから……多分、現実にはいないんじゃないかなぁ……?」
そう言いながらリハード先生は疑問げに首をかしげた。
つまり……どういうことだ。
全く持って理解ができない。
そんなことを考えていると、リハード先生も僕が理解できていないことを知ってか、
「あはは、まぁ理解できなくてもいいさ。僕も説明していて理解できていないし。実際にやってみないとわからないんだろうね」
と言ってきた。
とりあえず、規格外なことをしていることは理解ができた。
鏡の中に入り込むということ自体が可能な点にまず驚いたが、現実の方では存在せずに、鏡の方でのみ存在するという状態が、本当に化け物じみている。
「じゃあどこにでもっていうのは……」
「彼女は鏡がある場所であれば、どこにでもいけるってこと。というよりは、鏡像ができる場所だったらどこでもいいんじゃないかな」
デタラメな能力。
魔術師の中でもっとも優れた存在というのは、僕の想像以上に人間離れした存在らしい。
「にしても、なんでそんなにイルジー・クラサの魔法について詳しいんですか?」
僕がそう訊くと、リハード先生はほんの少しの間を置いた後に
「イルモラシア校長から教えてもらったんだ」
と言った。
「それじゃ、もうそろそろ僕も授業の準備をしなくちゃだから。じゃ!」
リハード先生はそう言うと、教室をそそくさと出ていって、今日はそれで彼との会話は終わった。
帰宅後、イルジー・クラサとの面会の目処が立ったとの手紙が差出人不明で送られてきた。




