ヒュドラを討った女
町の衛士長ティアンムは悩みを抱えていた。最近、子供と大人が死んだ。沼地でだ。溺れたわけでもない。いつに間にか潜んでいたヒュドラに食い殺されたのだ。
ティアンムは部下達を率いて沼に近づいた。葦の葉っぱが生い茂り、ガマの穂が生えている。船着き場には小舟が一艘揺らいでいた。
子供達は釣りに来ていた。沼の真ん中に船を浮かべて、鮒を釣っていた。生き残った子供の話によると、そこで突然、水面が揺れ、蛇そっくりの茶色の七つの首が現れたというのだ。突然のことに油断している間に、子供も大人も首に噛みつかれ、丸呑みにされたという。
「衛士長、我々では無理では無いですか?」
静まり返った沼地は不気味だった。ここがそんな風に思えるのは水底に潜むヒュドラの存在のせいだろう。自分でも情けないがティアンムも小舟には乗りたくなかった。地形的に圧倒的に相手が有利だ。ここで無駄死にするのは目に見えている。
程なくしてティアンムは、町長に詳細を話し、冒険者ギルドへ正式な討伐依頼として提出したのであった。
人間の味を覚えたヒュドラはいつか必ず陸上の我々を喰らいに出て来るだろう。それが今日なのか、明日なのか、一月後なのかは分からない。
冒険者は来るが、ヒュドラ討伐の貼り紙だけは残り続けていた。
こうなれば、王都に使いを出し、騎士団に来てもらう他ないか。人気の失せた夕暮れの冒険者ギルドでティアンムは売れ残った貼り紙を見てそう嘆息していた。
「邪魔するよ」
気風の良い声で女が入って来た。体躯は大柄で、良く鍛えこまれた筋肉が見える。背には長弓と矢筒を提げ、腰には斧が握られていた。
甲冑を揺らしながら女はギルドのカウンターにたぶん、届け物だろう。それを提出した。
「配達御苦労様アルカナ。これが報酬だ」
アルカナは報酬を受け取り、こちらへ歩いてきた。まるで路傍の石かと思われているかの如く、ティアンムに目を向けることなく、真っ直ぐ依頼掲示板へ歩んで来た。
「ヒュドラねぇ。とんだ悪が来たものだ」
アルカナはそう言い、しばし悩む様子を見せた。良く鍛えられている。彼女の口ぶりとその姿がどうにも頼もしく思い、ティアンムは声を掛けていた。
「人の味を覚えたヒュドラだ。いつ、町を蹂躙するか分からない」
「あんたは兵隊さんだね」
「衛士長のティアンムだ」
「あんたらでも手が出なかったのかい?」
ティアンムはこうなればと、情けない気持ちになりながら事情を話した。
「なるほど、兵隊さんでも肝を縮めたわけかい。なるほど」
「頼めないだろうか?」
「一人じゃ無理だね。舟を漕ぐ人間が必要だ。それと報酬、もう少し上乗せして欲しいものだ。ヒュドラ、水辺と聴くだけで、縮こまったあんた達みたいに、冒険者のベテランも中にはそういう奴らもいるだろう」
随分、余裕のように感じる。ティアンムはアルカナを見てそう思った。だが、町の者が犠牲じゃないなら。
「良いだろう。私が君を手伝い、報酬の上乗せ分もだそう」
「ハッハッハ、話が分かるね。それと一人、この町で一番良い男を後で私の泊る宿に寄越しな。子供やおっさんなんか寄越すんじゃないよ」
アルカナは快活にそう言うとギルドを後にした。
もう一つの条件の一番良い男か。何をするのだろうか。とりあえずティアンムは部下の年の頃二十一のアーソンを送って見ることにした。
2
翌日、アルカナの姿は変わっていた。水着姿なのだ。良く鍛えられた身体に張り出した豊満な胸に肉付きが良い尻が見え、アーソンが昨日は最高でしたと、言った意味が分かったような気がした。
アーソンらは岸辺に待機し、長弓と矢筒を背にしたアルカナが片刃の重そうな斧を下に置き、弓を手にして小舟に乗り込んでいた。ティアンムはアルカナに命を預けるしか無く、ようやく決意し、小舟に乗ると、両手で櫂を漕ぎ始めた。
水鳥でさえいない、沈黙の保たれた沼地に櫂の軋む音と舟が水を押し出す音だけが聴こえた。
もう、ヒュドラに察知されてるだろう。岸辺の部下達が恨めしく思えた。
その時、前方から勢い良く、水柱を上げる音が聴こえた。
姿を見た途端にティアンムは、情けない悲鳴を漏らしていた。だが、槍を構える。七つの太い首、決して話の通じる相手では無いという獰猛な赤い目、開いた口は暗く二本の牙が生えている程度だった。茶色でまだら模様がある。これが沼マムシだったらどんなにありがたいことかとティアンムは震えながら思った。
「あんたは下がっときな、ここからは私の出番だよ」
アルカナは弓を番え、弦を大きく絞ると一射目を放った。それは一番左の首の喉を貫き、水中に沈めた。
他の首が一斉に襲いかかって来る。
「そぉらあああっ!」
アルカナは弓を捨て足元の斧を手に取るや豪快に斜めに薙いだ。
驚くべきことに全ての首を刈っていた。
「矢の無駄だね」
アルカナは船縁へと近付いた。途端に胴体と繋がっていると思われる首がいきなり再生した。
「何だとぉっ!?」
驚愕の声を上げたのは勿論ティアンムだ。
「アハハハ、隊長さん、ヒュドラの弱点は胴体の心臓さ。首は幾らでも蘇る。だからこいつの身体が見えるまで浅瀬へ誘導するよ。漕いで」
「分かった!」
ティアンムは慌てて櫂を両手で漕ぎ始めていた。だが、不思議なものだ。このアルカナといると何故か、心強く思える。年の頃は三十は過ぎているだろう。長くも無く短くも無い赤毛は後ろで一つに結われている。
「逆! 逆! 落ち着きな」
斧を薙いで首を落としながらアルカナが言った。
ティアンムは舟を後退させながらアルカナの勇姿を見守っていた。
何という力だろうか。何という勇気だろうか。いや、彼女の場合は度胸と言った方が気に入るだろうか。こちらをチラチラ振り返る度にぷっくりとした唇と、一つも臆した気配の無い丸い目が見える。鼻筋は低い。
壮絶な後退戦で舟の中は怪物の血の溜まりを作っていた。だが、ヒュドラは尚もこちらを追って来る。首を刈られたそばから再生した首を断面から伸ばし、アルカナを一呑みにしようと口を開き左右から襲って来る。
「そろそろ頃合いだね」
アルカナが言った。
確かにヒュドラの大きな身体が水面よりも高くなっていた。
次の瞬間、アルカナは首を薙ぎ払うと共に、ヒュドラの背へ飛び移っていた。
ヒュドラの首が再生する。
だが、アルカナはニヤリと不敵な笑みを浮かべた。そして斧を振り上げて下ろした。
固い身体と骨を割る音が聴こえ、ヒュドラの首が宙でのた打ち回った。
「これで、おしまいだよおおおっ!」
アルカナの気合いの絶叫と共に斧は深々とヒュドラの身体を裂き破っていた。
七つの首が痙攣し、アルカナは鬱陶しそうにそれを一薙ぎで刈る。
水中にヒュドラの身体が沈み、切断された首の方も底へと消えて行った。
「どう、隊長さん? 文句ある?」
「私の制服に血の染みが。いや、何でもない」
舟を戻すと、岸辺に集まっていた衛士達が称賛した。どうやら望遠鏡で見ていたらしい。
「姐さん! さすがです! 最高です!」
アーソンが言うと、アルカナは快活そうに笑い、アーソンの股間を掴んだ。
「ひゃっ」
「昨日の今日でも元気そうだね」
アルカナはそう言うと、冒険者ギルドへ引き上げて行った。
ティアンムを証人にギルドから討伐以来の報酬を得たアルカナは嬉しそうに財布の紐を締めた。
「アルカナ殿、報酬のことは抜きにして、この町の治安を守る者として礼を言う。助かった、ありがとう」
ティアンムが言うとアルカナは笑って頷いた。
「久々のヒュドラ退治にすっかり燃えちまったよ」
「この後はどちらに?」
「さぁねぇ、私は冒険者だから飯のタネを求めに東へ西へ北へ南へブラブラ行くだけさ。それじゃ、またね、隊長さん」
アルカナはそう言うと、夕闇の支配する町の中へと消えて行った。ティアンムはその堂々とした姿を見て、彼女はまるで戦神の生まれ変わりでは無いだろうかとも思いつつ、その背が見えなくなっても茫然と見送っていたのであった。