十一日(二十二日)の暁、御堂へ渡らせたまふ。(1)
十一日(二十二日)の暁、御堂へ渡らせたまふ。御車には殿の上、人びとは舟に乗りてさし渡りけり。それには遅れて夜さり参る。教化行ふところ、山、寺の作法うつして大懺悔す。白印塔など多う絵に描いて、興じあそびたまふ。上達部多くはまかでたまひて、すこしぞとまりたまへる。後夜の御導師、教化ども、説相みな心々、二十人ながら宮のかくておはしますよしを、こちかひきしな、言葉絶えて、笑はるることもあまたあり。
※十一日の暁:諸説あり。最近の結論では、寛弘5年(1008)5月22日(11日は、誤写らしい)の土御門殿で行われた法華三十講結願の日の日記の一部とされている。
中宮ご懐妊を喜ぶ目的もあった、との説もある。
※大懺悔;阿弥陀経を読み上げ、極楽浄土を賞賛する法会。
十一日(二十二日?)の暁に、中宮様は御堂にお越しになられます。
お車には、道長様の北の方(倫子)が同乗されて、女房たちは船に乗り、池の向こう岸に渡りました。
私(紫式部)は、それには遅刻し、夜になってから参上しました。
ちょうど、教化を行っており、延暦寺と三井寺の作法を遵守して大懺悔を行います。
白い百万塔を数多く絵に描いてあり、それが興味深いようで、皆さんが遊び愛でておられます。上達部の多くがお帰りになられ、ほんの少しのお方だけが、お残りです。
後夜の勤行をなさる御導師様は、教化の説教を、その方法は、それぞれとなっておられますが、内容としては、二十人もの僧侶が全員、中宮様の素晴らしさを熱心に褒め称えていて、時折には言葉が続かず、女房たちから笑われることも多いのです。
紫式部日記の切れ端の写本のため、「十一日の暁」に諸説ある。最近の結論にも異論が多い。正月に行われたという説もある。ただ、おぼろ月夜とか、船遊びの記述もあり、とても正月とも思えない。
※寛弘5年(1008)5月22日の記述として、訳を進めます。




