レースを終えて
だった…………
レースは間違いなくスプリングランサーの独壇場であった。誰しもがランサーが勝者になると確信しただろう。きっと、このレースのパトロールレコードを見る者は皆、ラスト400メートルの時点で勝者を確信するはずだ。
圧倒的であった。
それ故にこの結果は異様であった。
ゴール板が眼前に迫ってきた。手応えはしっかりしている。勝利が目前まで迫っている。大地を揺るがしながら走るその姿は、間違いなく英雄であった
心臓が高鳴る。大歓声が俺たちのことを迎え入れる。だが不思議と俺は冷静であった。その証拠にランサーの息遣いまでハッキリと聞こえていた。
余にもハッキリとしていたからだろう、ランサーの身に起きた異変にもすぐに気がついた。
ゴールまで100メートルの位置に迫っていた。ランサーは、走りを緩めることなく全力で駆けていく。この馬はゴール板を知っているのだ。促さずとも本気で走ってくる。
愚かな俺は関心すらしていた。俺は特別なことは何もしていない。ランサーが空馬で走ったとしても同じ結果になっていただろう。俺はいなくても良かったのではないか、とさえ思った。
その瞬間のことであった。突然、地面を蹴り上げる蹄の音が乱れた。
右前脚が、地面に着地する。すると、馬体が外側にノメった。
踏ん張れていない。重心が右に傾いていく。バランスが崩れる。しかし、ランサーは左前脚で体を支え何とか耐えた。それでもリズムが乱れてた。
視線を脚元に向ける。肉眼では、確認はできない。だが蹄鉄が外れたのだろう。
やはり滑る右前肢が滑る。ランサーもその脚を補うようにしているのだが、非常に走りにくそうである。ランサーは、踏み込みが深いストライド走法で走る馬だ。このスピードを維持していては、事故につながりかねない。
これで負けたとしてもランサーに傷がつくわけではないだろう。それならば、選択肢は一つだ。
後方を確認する。後ろの馬とは5馬身以上離れている。余裕がある。
腰を落として重心を後ろに下げる。ランサーの踏み込みが浅くなる。しかし、ランサーは減速しようとはしない。斜行しながらもゴールまで走り切ろうとしているのだ。
勝って何ぼの世界で勝ち続けた一流のサラブレットだ。ゴール前での減速することは受け入れられないだろう。
それでも、それでも譲れない。俺は師匠たちと怪我をしない、させないように馬に乗るという約束をしている。その約束を違えるわけにはいかない。
鞍に座りそうになるほど腰を下げ、手綱を引き絞る。腰はランサーとぶつかり、手綱が薬指に食い込む。
あれだけ素直な馬だったランサーが譲る素振りを見せない。きっと俺を振り落としてでも走るだろう。それでも譲れない。
後方から他馬が迫る音が聞こえる。ゴールまでは50メートルほど。止まれと言っているわけではない。絶対に転倒することがない速さで走ってくれればいいんだ。
「分かる。分かるよ、ランサー。今日だけでいいから引いてくれ」
…………手綱にかかる力が緩まる。ランサーが引いたのだ。
1頭、また1頭と他の馬が減速した俺たちを内側から追い抜いていく。
そして、俺の負けが確定する3頭目に追い抜い抜かれた。
それに続いてランサーは、ゴール板を潜り抜けた。
4着。それが俺の記録だった。入部試験のボーダーラインである3着には僅かに届かなかった。それでも良い。ランサーが無事だったならそれで良いんだ。
ランサーを馬房に戻して夕飼いを与える。
しかし、ランサーは飼い葉に口を付けようとはしない。レース後に行った検査の結果は異状なし。身体に問題はなかった。俺の使命は果たすことができたようで一安心できた。
だが、精神的にはキツイものがあるのかもしれない。本馬にしてみれば、勝てるレースを俺のわがままのせいで台無しにされたんだ。
「ごめんよ。納得できないよね。俺のことを恨んで元気が出るんだったら全力で恨んでよ」
あれ、おかしい。顔を撫でるために腕を上げようとしているのだが思うように反応しない。どうして……
「そっか。俺にはその資格なかったよね」
そう思った瞬間、急にいたたまれなくなった。思わずその場から逃げだしてしまった。
すれ違いで厩舎の中に入って来たミラと目が合った。彼女が連れているアスペンドリームは、今日のレースで2着。見事に入部資格を得たのであった。
彼女は何かを話しているようだったがその言葉は聞こえなかった。
俺も言葉が出ないような気がしたから、正面からそっとミラの肩を抱いてその場を後にした。
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太陽が沈みかかり、激闘の日に終わりを告げる。勝利したロスコーのピエログリフも、2着に入ったミラのアスペンドリームも、3着に粘ったロフトのリファレンスキングも自力のある馬だ。想定の範囲内。
意外だったのは、ランサーが最後にハプニングに見舞われたことぐらい。
「あら先生。こちらにいらっしゃるとは珍しいですね」
「そうか? そうかもな」
先生は、窓の近くにあった椅子に腰かける。黄昏時だ。先生の顔に柔らかい西日が差しこむ。
そして「それは整理しているのか」と、私の書いている資料に視線を落としながら独り言のようにつぶやいた。こちらも顔を上げて答える。
「そうです。やはり記録を残すことは大切ですから。学生の時から続けているわけですから、いまさら止められません」
「そうだよね。君は、この学校の卒業生で、あのクラブに所属していたんだっけ。つまり、君も勝ち抜いたわけだ」
「10年近く前の話です。当時の仲間は誰もいませんよ。みんな出世してます。それよりも今の話をしましょう。先生こそどうしてこちらに? 目を離してもよろしいのですか」
「いいさ。人間、一人の方がいい時もある」
「ランサーとあと騎手の……」
「彼らだけじゃない。他にもそっとしておいた方がいいのは何人、何頭もいるさ」
先生はそう言いながら厩舎のある方を眺めている。口ではそう言ってもやはり気になるのだ。私も先生からホースマンとしてそのように育てられた。
「それもそうですね。自分で乗り越えなきゃいけないですよね。それにしても悔しいですよね。ランサーたちは」
「ああ。でも競馬ってそんなもんだ。ちょっとしたことで台無しになるものだ。だろう」
先生は、私の目を見ながら優しい口調で話す。今の言葉は私に対してもかけられた言葉だ。そして、先生自身の自分に対しての問いかけである。
私も先生も、本来ここにはいないはずの人間だ。私自身、ボタンの掛け違いのような理由でここにいる。
「結局のところ先生は彼の4コーナー以降の乗り方をどう判断しますか。中に割って入るという選択も普通はやらないと思いますし、大多数の騎手は、蹄鉄が外れてもゴールまで全力で走らせると思うのですが」
「何とも言えないな。結果的には失敗だったが、ミスかと言われればミスではない。本人の哲学があのように選択させたんだろうから」
「ですよね。でも、結果でしか判断しない業界ですから」
「そうだな。競馬サークルってのは結果が全て。結果でしか語れない」
先生は、天井を見上げた。
「一体、あの乗り方は誰から……」
「どうされました?」
「独り言さ。励み給え。自分の道は、自分しか切り開けないのだから」
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