駆け引きの精神
人馬の呼吸が揃いゲートが開く。ランサーの重心が後肢にかかり、力のかかった後肢はバネのように前に向けて弾け飛んだ。
「群雄割拠の出走馬たちで、最初に飛び出したのはスプリングランサーだ!」
「よいしょっと」
浮かび上がったランサーに置いていかれないように重心を前に移動してバランスを取る。
よし、重心移動は完璧だ。うまい具合に填まってくれた。ここからだ。左に視線を送る。彼も悪くないスタートだ。その他、ハナを目指して馬を押していく旗手たちの姿も確認できる。
ここで手を動かしていないのは後方から競馬をする者か、マークしている相手がいる者たちだ。
おっと、視線が合った。それも複数。
俺は後ろから競馬を組み立てる予定であるから、馬を引き後ろでスタミナを温存するのが定石だ。ランサーをマークする馬もそうすることになる。だが、それでは面白くない。
俺たちは、結果によって自分たちの責任を清算することになる。恨みっこなし、レースを有利に進めるためには。
「いくぞランサー。君が思うままひたすら前へ」
口上とともにステッキを右手に持ち替えて1回、2回と振り下ろす。加えて重心の位置を動かさないようにしつつ、体をやや前傾にして、左手で手綱をこねる。
「ランサーが前に出たぞ。内側に入れさせるな!」
左手の方から声が上がる。ゴーグル越しに声の主と視線が交差した。
それ以上、誰の声も上がらない。しかし、無言でも分かる。後方の蹄音が大きくなった。
背中が感じている熱量が上昇する。その力を受け止めようとしても押しつぶされてしまうだろう。無視を決めこみジッとする。
結果はすぐに分かった。熱量の集団は、俺とランサーと左脇を縺れ合いながら走り抜けていく。10数頭の馬が互いにぶつかり合うため、鈍い音や火花が飛び散る。集団は先鋭化しながら、熾烈な先頭争いを繰り広げている。
これでいい。これでこそ、足が感じているじりじりとした痛みも報われるというものだ。
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「なんと! スタートからのたたき合いになっています!!」
「風がほとんど吹いていないから逃げ馬日和なのは間違いない。だが、外枠の奴らまでもハナを奪いに行ってる」
「そうなっていますね。外枠の19番スプリングランサーは、スタート直後に鞭が飛んだように見えました」
「トリッキーなこのコースでは、馬場の内側、つまり経済コースと外側とでは走る距離に大きな差が生まれる。最初のコーナーで前目につけていないと、逃げ馬には辛いぞ」
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スタート直後の激しい競り合いは、もともとハイになっていた観客席のボルテージをより一層高めた。
「バカだ」とか、「ヤベーよ」とか、さまざまな感想が飛び交っている。しかし、その声のどれも興奮が隠せていない。
「すごい。みんな最初から全力で走ってない?」
双眼鏡を覗いているブレアは、口をあんぐりとさせている。確かにスプリント戦のような加速だ。スタミナが持つのか心配になる。私の右隣りは皆そのような反応だ。
しかし、先輩たちは取り乱した様子も興奮した素振りも見せない。
「馬をしっかりと押しているようですね。外の方にいる馬は、走る距離を少しでも減らすために馬場の内側に入り込んできます。外の馬が自分の前に入ると、前には出れなくなってしまいますから、進路を守るために体力を消費する必要があります」
「シャーロットに付け加えると、前に行きたい馬が多くなるとそれだけポジション争いが激化するため、ペースが速くなります。すると、道中で余計なスタミナを消費することになり、後半で脚が止まる原因になりますね」
2人の話が正しければ、外から先頭を目指しているように見えるオトは、危険なことをしているということになる。現に、内側の馬たちが壁になって馬群の前に出れなくなっている。
でも、不思議なことにオトは緊張した様子がない。まるでこうなることを予め了承しているような気もしてくる。
ユリア先生の言葉を最後に一同は、口を開けなくなった。しかし、その沈黙を破ったのは意外にもベルナール先生だった。
「展開案としてこうなることは十分に予想できていた。気持ちが出過ぎて前のめりになり、知らず知らずのうちにペースが速くなるもんだ。だが、だがな」
しかし、先生の言葉はどこか歯切れが悪いように感じる。何かを感じ取ったのか、ユリア先生が口を挟む。
「それに加えて、返し馬でのスプリングランサー爆走もありましたから、調子の良いランサーが気持ちを抑えられずに前に行って、ランサーをマークする馬たちも釣られて前に行ったことも考えられますよね。でも本気で、ハナを取りに行くかは」
だが、ユリアも何か引っかかっている。馬乗りのもう一人の有識者であるシャーロット先輩の方をうかがう。先輩は腕と足を組んだままレースの行方を見つめている。
でも、口角が少しだけ上がっているように見えた。
そして、再度の沈黙が訪れる。その沈黙を破るのもまたベルナール先生だった。
「このコースでは内枠と外枠で10馬身近くの差が生まれる。もしも、その差をひっくり返すためのトリックを考え、実行しているのだとしたら」
口を開いたもののレースを見たまますぐに口を閉ざしてしまった。
「――――――それを誰に教わったのか」
そのような呟きが聞こえた気がした。
レースは流れ、最初のコーナーを迎えようとしている。それにもかかわらず、ランサーは馬群の後方に沈んでしまっていた。
頑張れ、オト。夢に向けての大事な一戦なのだから。
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