返し馬と大逃げ
「続いて登場したのは史上最強のマイラーとしての呼び声もあるスプリングランサーです。鞍上のオト君が先週のようなミスをしなければ優勝候補に違いありません」
おうおう言ってくれるね。今からヘマを演じなければならない身としては辛いよ。
「続いてがラストになります。あの剛脚は真価かマグレか、このレースですべて語ってくれるでしょう。20番ピエログリフ、鞍上はドラセン州出身のロスコー・プルー。以上20頭の本馬場入場が完了です」
「注目の存在はいますか。ザッカリー先生」
「それはもちろんランサーだよ。スプリングランサー。先週のレースで1900メートルにも対応できることを証明してるから期待していいだろう。というか賭ける。俺はランサーの優勝に賭ける。ガンバレヨー」
「やめてくださいよ。学生のレースで賭けるのは禁止ですよ」
「もちろん分かってる。今夜の飲みの支払いを誰にするか決めるだけだ」
「ザッカリー先生、後で教務室にお越しください」
なんとも気楽な人たちだ。度肝抜くことになってもしらないから。
本馬場の外側に馬を出す。馬場の内側を走ればさらに目立つだろうが、怒鳴られそうだからそんなことはしない。
よしと、直線上に他馬はいないな。このコースだとスタンドの正面を駆け抜けることになる。みんなに見られちゃうな。手綱を握る手に力が込められる。何かを感じたランサーは自分からハミを取った。
「行くぞ」
ランサーの体が沈み込み。力強く地面を蹴り上げた。
走り出した馬体は、ぐんぐんとリズム良く加速していく。素晴らしいスピードだ。
9割ぐらいの力で走っている。端から見れば全力と区別できないだろう。体が前に引っ張られている。バランスを保つために体を起こして重心を移動する。
あまりのスピードに周囲を確認する余裕はない。ただ、スタンドからは驚きの声が聞こえたような気がした。
返し馬を終えてゲート前の輪乗りに加わる。結局のところランサーを走らせたのは、本馬場に入場した後の1分ほどだけだ。それ以外の時間は、改めの歩様の確認と集中力の確認に費やしてしまった。
それでも返し馬ではしっかりと視線を集めることができた。ノルマはこなせた。あとは無茶に付き合わせたランサーに異常がないかである。
もっともその心配は杞憂のようで、歩様の乱れもなくしっかりと聞き分け良く指示を聞いてくれる。おかげで余裕を持って馬に跨がっていられる。
「ちょっと、落ちついて。もう少しなんだから」
誰かが独り言を口走った。他の選手たちを確認すると、ガチガチに緊張して体の動きが悪い人ばかりだ。まるで油分の切れたジッパーのように動きがぎこちない。力を抜けていないのだ。
そんなんだから馬まで緊張して忙しなくピョコピョコ耳や頭が動いている。
それとは対照的なのが、大物アスペンドリーム号。乗り役のミラとは関係ないといった感じ。彼女は、いっつも通り周りにお構いなしの様子でパッサージュのように独特の歩様を見せている。もしかしたらミラの緊張も彼女がほぐしてしまうかもしれない。
(何だよ、オレ。ずいぶんと余裕なことで。)
えっ…… 間違いない。今、聞こえた。誰の声かは分からないが、確かに内側から聞こえてきた。追いかけるように意識を深層に落とし込む。
ダメだ。背中すら見えない。何週間ぶりだ。文句の一つでも言ってやりたいのに。
ファンファーレが聞こえてくる。金管楽器の音に反応して意識が上昇する。すでにスターターが台の上に上がっていた。
「ほら行くよ!」
「ええと、はい! 大丈夫です」
「気をつけてね。もう枠入れだから」
声の主は枠入れを担当している整馬係の学生であった。そうか、もうスタートなのか。
フルルン。ランサーが鼻を鳴らして忠告する。いけない。こっちに集中しないと。
19番のゲート前に誘導されるとランサーは一瞬、脚を止めた。俺が無意識のうちに手綱を引いてしまったのかもしれない。
まだ他の馬たちはゲートインしていない。俺たちが一番乗りだ。構うものか。ランサーほどの馬の胆力を疑うのは失礼に当たる。
手綱を譲ってランサーの判断に任せる。すると、ランサーはすぽっとゲートの中に入った。
無用だとは思いつつもランサーのたてがみの下を年齢になで回す。それでこそ王者だ。この馬はいつも通りでいい。
俺たちの後に続いて他の奇数番号の馬たちも枠入れを進めていく。ゲート前で嫌がる馬たちは何頭かいるが、騒がしいのはいないな。年齢が高くなっている分、落ち着きが出ているのか。静観して他馬を待つ。
「よしよし、いいよ。そのまま行って」
どうやら18番の馬がゲート入りに挑戦しているようだ。俺たちの左側のお隣さんだ。ちょっと苦戦しているようである。
それでもなんとかゲートに収まった。
「ブレースその調子でじっとして」
俺の横の馬はブレスと呼ばれているようだ。ランサーが横目で確認している。お互いにあまり刺激しないでくださいね。
残りの偶数番の馬は……
「早くいれなよ!」
「そっちこそ入れたら良いじゃないか」
なんか騒がしい。どうやらゲートの中に入るのを拒否している馬(人)たがいるようだ。こういった大一番にはこのような輩も出てくるもおかしくはないだろう。
バリヤー式のスタートならこういったこともないんだけどな。俺としては慣れ親しんだバリヤーの方がいいんだけど。そんなこと考えてもしかたないか。
「どっちからでもいいから入ってくれ」
「わたしは2分近くも待ってるのよ」
「これ以上待たせるな。メンコつけて入れてくれ」
騒がしくなってきた。今のところゲート入りを待っているのは5頭。20番のピエログリフは、大外だから一番最後だとして、あと4頭。
俺もう片方の隣は。
「ブレッシング。もう少しだから、もう少し待ってね」
結構やばそう? そうだとしても、ランサーが大丈夫ならいいのだ。
意識をランサーに向ける。俺が乗るスプリングランサー号は、前を向いてじっとできている。立ち上がる素振りもない。ゲート試験なら制止の項目で満点をいただけるだろう。経験の差がここででるとは。
そんなこともあり多少の遅延があったものの大外を除いた19頭はゲートに収まった。あとは大外のピエログリフ。だが、この馬は早足ぎみにすんなりとゲートに収まった。
いよいよ発走だ。泣いても笑っても一発勝負。運命の時間がスタートする。




