タイムリミット
右手のパッドクから、拍手と歓声が上がった。
「出てきたよ。見てみて」
身を乗り出したブレアがはるか下のスクリーンに移った映像を指さして声を上げた。実際の目ではなく、映像を見ざる負えないのはここからは直接パッドクを確認することができないためだ。
2番目に現れたミラは、1番アスペンドリーム号で2番ゲートからスタートする。ドリームは予選トップ通過を果たしているため、自ずと注目が集まっている。
「どうですか? シャーロットさんは先輩としてミラちゃんとアスペンドリームに思うところはない?」
「歩様に乱れもないし、息も整っている感じです。良く調整されているかと私は思います。ユリア先生こそいかがお考えかお聞かせ願いませんでしょうか」
えらく丁寧な口調で話すのは、シャーロット先輩である。どうしちゃったんだろう。ユリア先生のやり取りを見るに先輩と一緒に観戦するのは決まっていたようなんだけど、関係性がいまいち見えない。仲が良いのか単なる知り合いなのか。
そもそも全体が見えるからというユリア先生の言葉に従い観客席の一番上まで来てしまったが、想定外の先客が待っていた。オトからはそれとなく、シャーロット先輩には近づかないように忠告されていたんだけど。いいのかな。
そんな考えとは裏腹に私のちょうど左に先輩が座っている。ブローニーとシェリーの座っている右の方に少しだけ近づいておく。
「私もシャーロットさんの見立てに賛成します。状態も非常に良いですよ。勝ち負けになるのは間違いなしです。なんせ私が鍛えた馬ですからね」
「そうでした。気性に難があって実績はそこそこでしたが、素養は高いものがありますよね」
「本当に彼女には申し訳ないことをしてしまったから。そんなことより、そうですアビゲイルさんはどう判断しますか?」
二人のやり取りに多少の引っ掛かりを感じつつも耳を傾けていると突然私の方に話が流れてきた。
「えっ、私ですか。わたし的にも良い状態に見えます。前後の馬たちが、おそらく騎手の人の出す雰囲気にあてられて緊張した様子なのにそういったこともなさそうですし」
「やっぱりそうですよね。さすがは、オト君の妹です」
「あっ、はい。そうです。でもええと、オトとの関係って重要でしたか?」
「それはもちろん。お兄さんがあれだけ乗れるのですから、妹のあなたも同じくらいの実力・知識があるのではないかと思いまして」
「買い被りです。私にはそのような力はないです。オトにしたって、休みの日に短時間散歩するくらいで、長時間乗ることなんてお使いの時とか草競馬の直前とかに限られますかね」
「ふーん。ボクには結構は乗っているように感じられるんだけど」
そうなの? ブレアの一言に騒然とする。私の周りは毎日馬に乗っているような人が多かったから分からないけれど、もしかしたらそうなのかも。ごめんオト、先輩に変なこと話しちゃった。
「別に多くないと思いますよ。農村部出身ですもんね。平均かそれより少ないかぐらいじゃないでしょうか。ブレア君みたいに全くの未経験という方が珍しいんですよ」
「そうなんだね。知らなかったよ。追いつくためには、いっぱい頑張らないといけないんだね」
助かったのかな。先生の一言でおかしいわけではない風潮になった。それよりもなるほど。オトの馬に乗っている時間は平均ぐらいなのか。やっぱりうちの村がおかしいのかも。運動音痴のアーロン兄さんでも駈足ぐらいできたのだし。
「草競馬ですか。懐かしい響きですね。私はしばらくご無沙汰しています。草競馬に出ているということは、自分たちで馬もトレーニングしているということですよね。見てみたいですね。記像とかあれば見せてもらいたいです」
「ええと、はい。機会があれば」
どうしよう、どんどん話が望まない方向に進む。
「それよりもパッドクを見ましょうよ。ほらまた注目の一頭が出てきます。正体不明で話題になっていた馬ですよ」ブローニーはそう言うなり私に向けて左目でウィンクした。
先輩たちとは反対である右側に座っている彼女は、私の反応を見かねて助け舟を出したみたいだ。ありがとうブローニー。
顔だけ右を向いて耳元でこっそりお礼を告げると、彼女は得意げには、はにかんだ。そして「あとで見せてね」と囁いた。
ランサーのゲート番号は、19番。後ろから2番目にパッドクに向けてスタートする。拍手に迎えられて日の下に姿を現す。見知った顔もあるし、俺たちに向けて手を振っている人もいる。
気取っているわけではないが、特にリアクションは返さない。
騒がしい客席と対比的にこちらのパッドクは静かである。各人歩様の確認と作戦に関してだろうか、トレーナー風の人と話し込んでいる選手も見受けられる。真剣勝負の雰囲気が醸し出されている。
周りに流されるままパッドクを周回する。
いいのか、このような厳正な空気間の中でセコいとも捉えられるようなことをしてしまって。でも、勝率を上げるためには必要なことだ。でも、俺が乗るのは実績ナンバー1のスプリングランサーで。
ええい、考えるな。自分なりに考えて決めたことのはずだ。返し馬で俺は一世に一代の大仕掛けをする。批判を恐れる場面ではない。
「ランサーよろしく。俺も俺のできる最善を尽くすよ」
パッドク周回を終えた馬たちは、スタンド下の馬道を通ってレースコースへと向かう。ここまで来ると言葉を発する者はどこにもいない。選手たちは勿論のこと、馬を曳いているスタッフたちも黙り込んでいる。
俺のように曳いてくれる人がいない者よりも、誰かしら関係者がいる馬の方が多い。恐らく、引き綱を曳いている人がいるのは、個人所有の馬だ。少なくともベルナール厩舎の馬には、そのような人はついていない。
ゲート番号中に整列し、立ち止まる。天井によって塞がれているため、出入り口から遠い俺の位置は、ほの暗く冷たい空気が張り詰めている。
前から2番目にいるアスペンドリームの息遣いが、ほぼ最後方の俺の位置まで聞こえてくる。
係員の声がして、1番の馬が曳かれながらがゆっくりと光の中へと消えていった。
時刻は、11時40分。発走までのタイムリミットは15分である。




