スプリングランサーの水曜追い切り
レースに開催週の水曜日には、当週追い切りという調整用の調教を行う。
赤い馬着を纏ったスプリングランサー以下3頭と青い馬着を纏う2頭がゆったりとウッドップコースを向けて歩いて行く。
「難しいことはなにもないぞ。コースを見ればランサーが勝手に走ってくれるから、君は何もしなくて良い」
声をかけてきたのは青い馬着を着た馬の乗り手である。この人はベルナール厩舎のスタッフだ。慣れた調子である。
日曜日のレースに出走するのは赤い馬着を纏った馬たちで、青い馬着を纏っているのは、調教パートナーの馬だ。
先頭を歩くのが30代ぐらいのスタッフで、最後尾を歩くのが20代前半ぐらいのスタッフだ。2頭が一列の先頭と最後方に立つことで俺たちのことを挟み込んでいる。
彼らも俺と同じく、先週の予選を勝ち抜けた者たちだ。それもベルナールが管理する馬に乗っているという共通点がある。ベルナールは4頭の多頭出しをしているわけである。
ただし、第一1レースを1位抜けしたアスペンドリームは明日追い切りをするとのことでこの場にはない。
手持ち無沙汰からヘルメットを深くかぶり直す。 上手くできるだろうか。
「心配か?」
「ええ。本当にボクは、追い切りなんてしたことがないんですよ。というか調教もしたことがなくて」
「案ずるな毎年同じような反応だから。でもランサーはどうすればいいか分かっているんからな。まあ俺たちを見ていれば分かるはずだ」
「単走ですけど。併走相手のお二人がいないんですよ」
「指示は馬なりだろ。持ったままで5ハロン走らせればそれで十分。追い切り後にゲート練習もしなければならない2人と比べれば気楽でしょう」
そう言って赤い馬服を着た学生の方に目線を送る。2人は、ぎこちない動きで馬にまたがっている。どうやらガチガチに体が硬くなっているようだ。この子たちも初心者か。俺と一緒。あーあー。一緒かよ。初心者だからわかりませんとか言ってられないではいか。
「ということだ。そいじゃまあ、俺たちはここでスタートして並走してするから。1周して戻ってくるからその次スタートだぞ」
「それと測ってくれているとはいえ、体内時計でも意識するように」
その言葉とともに送り出される。ゴールの位置が同じであるため、俺のスタート位置はここから2ハロンほど先だ。コースの外にあるスタンドには観客がチラホラといる。その中には、ベルナールの姿やハリエットの姿があった。
仕方ない。見よう見まねでも真面目にやるとしようじゃないか。
厩舎スタッフの人たちに促されながら同級たちが馬を走らせる。置いて行かれないように一生懸命に馬を追っている。スタッフの方がそのペースを調整している。なるほどこうすれば学生が自分たちで調教をつけていることになるのか。
4人が通り過ぎたことを確認してウッドチープコースの馬場の中央に移動する。周囲には俺たち以外に走っている馬はいない。自分のペースで走ることができる。
「それじゃあ行こう」
促されたランサーは後肢に体重をかけ思い切りよく地面を蹴り上げた。ウッドチップが飛び上がる音が聞こえる。
走り出したランサーは、徐々にスピードを上げていく。こちらから指示することは何もない。ランサーにお任せだ。
馬の走りは上下運動だ。人間言えば上体を前に倒し、弾みをつけて後ろにそらす動きをやっているわけである。馬を追っている訳ではないが、足の下から反動が来る。
先週よりも動きが激しくなっている。先週よりも調子が上がっているのだ。何もしないように捕まっていると重心が少しずつズレていく。
いや、追っていないからこそ、バランスの調整がうまくできていないのか。
馬の動きに合わせて体を前後させポジションを直す。よし良い感じにはまった。
この間の土曜日よりも踏み込みが深くなっている。ウッドだから沈み込むのだろうか。タイムも1ハロン目で13秒弱ぐらい。正確には分からないが、感触は悪くはない。
ランサーは、タイトなコーナーも膨れることなくそつなく回っていく。そのまま4ハロン目を通過し、ゴールに到着した。
そこには、先ほどのスタッフが待っていた。
「どうだったよ」
年齢の高い方がフレンドリーに話しかける。
「悪くないと思います」
こちらも軽く返事をする。
「5ハロンで68.5秒とのことだ。しまいも14秒フラット。ランサーの年齢を考えれば驚異的な時計だ」
「凄いですよねランサー。まだまだ体力がありそうです」
「ああ凄いよ。とはいってもしっかり休ませないとな。あっちの緑地を通りながらゆっくり厩舎に戻っていろ。必要があればベルナールが指示するだろうから」
「分かりました。ありがとうございます」
「道草は食べさせるな」
「気をつけます」
ランサーを回れ右をさせて角馬場からコースの出口に向けて歩ませる。
「お前も凄いさ」
「えっ?」
「頑張れよ!」
4人は夕日を背にして太陽の中に消えていく。俺も立ち止まってはいられない。
「帰ろうか」
言葉に反応したランサーは、尻尾を振り回しながら優しく鳴いた。体躯が大きいはずのランサーが少し小さく感じられた。
けたたましい鳥のさえずりが聞こえる。カーテンの隙間から木漏れ日が目に入るが、素早くカーテンの隙間を閉めて布団をかぶる。
「あーダメ」
目が覚めてきた。どんどん脳が活性化し二度寝に入ることを妨げる。
諦めよう。布団から抜け出して、先ほどとは逆にカーテンと窓を開ける。
乾いた風が吹いている。台風が来る直前の空気感である。もっともこの国に台風が来ることは、滅多にないためただ風が強いだけだろう。
大きくあくびをしてベッドを整える。隣ではアビゲイルが深い眠りに落ちている。俺がアビーよりも先に起きるなんて日は滅多にない。
起こしてあげようかと思って掛け布団に手をかけるが、やっぱりやめた。俺は布団を引っぺがされるのがこの世で一番嫌いなのだからアビーにやるのは倫理的に許されない。
時刻は午前の5時前。今日は試練の日曜日。俺の今後の人生がかかっていると言っても過言ではない。椅子に腰掛けて寮長からもらったコーヒーに口をつける。
漆黒の液体が五臓六腑に染み渡る。ミルクを入れていないため相変わらず苦い。発走までは、約10時間。時間があるな、どうやって過ごしたら良いのかな。
とりあえず、1週間前に読みかけていた本を引っ張り出して続きを読む。そういえば筆写のアルバイトもしばらくしていない。明日からきちんとやらないといけない。
「うーーん。これ以上ムリだよ、オヨ」
アビゲイルが寝言を唱えた。なんか名前らしきものが聞こえたが、誰のことを言ってたんだろう。
「ダメだったてば、ヨト」
またアビーが何かを呟いた。嘘でしょ。こんなに寝言を言う子だったの。知らなかった。
しかし本当に何の夢見ているの? 椅子をアビゲイルの枕元に移動してすぐ横で観察する。
小さな口がモゾモゾし始めた、何か呟くぞ。全身の真剣を集中させる。
「えへへわたし幸せ」
「俺も幸せ」
実験的に寝言に対して耳元で返事をしてみる。
すると、アビゲイルが思いっきり鼻息を吹き出した。驚いて後ろにたれ込む。
恐る恐る顔を上げるとアビゲイルが目をぱちくりさせていた。布団を鼻元まで持ち上げて、顔が隠している。でも分かる表情が引きつってるぜ。多分俺もそうだ。
気を持ちなおす。ええとこんなときは挨拶だ。
「おはようアビー」
「お、おはよう。は、はやいんだねきょうは」
「そっ、そうだね。あっ、コーヒー飲む? スッキリするよ」
「え、ううん。いただこうかなー」
素早く立ち上がって飲みかけのコーヒーカップを渡す。
アビゲイルはカップを両手で受け取り、間髪入れずに一気に飲み込んだ。
ゲホッとむせたと思ったら、うぅぅと謎のうめき声を上げた。
「どうしたのどこか痛む?」
アビゲイルの肩を掴んで揺する。すると閉じられていた瞳がゆっくりと開かれる。開かれるのだが、目尻が上がっておりなんというかこの感じ……
「なんでこんなに苦いのさ!」
そのままめっちゃ怒られた。




