ハナ差の意地
腕に込められた力を徐々に抜いていく。呼吸が止まっていることに気がつき、大きく息を吸い込む。酸素を与えられた脳が次第に判断力を取り戻してきた。
結果は!? 集中しすぎて、周りが見えていなかった。誰が先頭でゴールしたのだろう。掲示板上では入選順の欄が空欄となっておりを確認することができない。
「3頭同時に駆け抜けていきました。体勢的にはリファレンスキングが有利に見えました。しかし勝利を宣言する者はいません。結果はどうだったのでしょうか」
「なあストックウェル。誰が勝ったか分かるか?」
クライドが拳を突き出しながら声をかけてくる。
「いや、分かんない。集中してて見えなかった」
「俺もだよ。マーティはどうだった? 分かったか」
「分かんないや。僅差だったから。でもこの3人は勝ち抜けだ」
ロフトは、舌をチョロッと出しながら答えた。その通りだ。結果はどうであれ、俺たちは次に進めるのである。
熾烈な5着争いを終え、21頭全頭がゴールする。審議のランプは灯っていないし誰かが異議を申し上げなければ俺とランサーの決勝進出は確定する。出走した全馬・全員を称えるように温かい拍手が送られる。
そして、掲示板上の入着順が表示された。
「掲示板が灯りました。1着は15番のスプリングランサー。2着リファレンスキング、3着がカスパージャック。勝者はハナ差の勝負をモノにしたスプリングランサーそしてオト・ストックウェルです!」
発表がなされると溢れんばかりの拍手が送られた。スプリングランサーの名前を呼ぶ声もチラホラと聞こえてくる。みなランサーを祝福している。
間違いがない。勝ったんだ。
「よくやったよ。本当に頑張った。ありがとう、ランサー」
ポンポンと首筋を叩くと、当然だと答えるかのように優しく鼻を鳴らした。
「やった! やったわ! ねえやっぱりオトは凄いじゃない。誰よアイツを馬鹿にしていたのは!!」
ミラが飛び上がりながら声を張り上げた。周囲の視線がこっちに集まってるよ。
「ミラ元気だね。そんなに嬉しかったの?」
「ええ、もちろん。そう言うアビーこそ泣いているじゃない。嬉しかったんでしょ」
ハッとして目元に手をやる。本当だ。左目から滴が落ちている。指先でそっと涙をすくい取る。泣いているのは私だけみたい。どうして泣いちゃったんだろう。
「とにかく。オトは勝ったんだよね。それって凄いことなんでしょ」
「もちろん凄いことです。だって21人の中で1番に入着したのですから。もっとも、ミラさんも1番だった訳ですけど」
「うん。ミラも凄いよ。ということは、次はミラとオトの勝負が見れるんだよね」
「ええ。今から楽しみ。ランサーもオトも強敵だもん」
「そっか。そういえばベルナール先生はどう思うの? オトとミラが勝負するとどっちが勝つと考えてるの?」
「ワシか? さてどっちだろうね。競馬は専門外だからよく分からない」
「ベルナールの話はいいじゃないですか。課程はどうであれ優勝したことに変わりはないのです」
盛り上がりを見せる一同。それだけじゃない。
「私見直しちゃった。口だけじゃないのね彼」
「そうみたい。ちゃんと努力もしているのね」
「最初から知ってたぜ。アイツはできるヤツだって」
「何だよ。この間まで大したことないって、俺の方が強いって言ってたのに」
私たちだけじゃなく、他の人たちもオトの話をしている。
おめでとう。君がヒーローだよ。
ランサーの体に付着した泥と芝を洗い流して綺麗に整える。正面に回ると、ランサーの大きな瞳が真っ直ぐとこちらを見つめてきた。何だよ、もう。君まで言うのかい?
洗い場の付近に人はない。ランサーの曳き綱を握り放牧地に連れて行き曳き綱から離す。しかし、離してもその場からなかなか動こうとしない。
「やっぱり気にしているの? ごめんよ。次は気をつけるから」
それ以上の言葉が見つからず、来た道を引き返す。足取りが重い。芝が深いのだろうか。
ゆっくりとした足取りで厩舎まで戻ってきた。沈みかけた厩舎には人影があった。今は誰にも会いたくない。しかも、一番会いたくない人だ。
「ベルナールですか。すみません気がつきませんでした」
先生は何も言わずに軽く頷く。何も話しかけてこない。ささっと逃げよう。
「ミラにコテコテに話をされて疲れちゃったんです。今日はもう失礼します」
くるりと背中を向けてそそくさとその場を後にする。
「なあ。オト・ストックウェル。来週はどうするつもりだ?」
俺を呼び止めるかのようにベルナールが声を発する。
釘を刺された俺は振り向きもせずにぶっきらぼうに
「どうしましょう。まだ決めていないです」
と答える。ここからすぐに立ち去れるような解答を心がけたい。
「安心していい。俺がしたいのは妨害で降着した話じゃない。あれはアンラッキーな話だ。気にとめる必要はない」
「え……それじゃあ何の話ですか」
予想外の話に思わず声を出して振り向いてしまった。理性が仕事をしていない。
俺は、レース中盤クライドを焚きつけるために早仕掛けをした際に、横や後ろにいた馬たちの進路を妨害したようであった。レース後に数人の騎手から訴えられ、5着に降着させられたのである。シャーロットら馬術部の審判員たちから事情聴取を受けて決定されたのである。
納得はしていない。だってレース中に声を上げられた訳でもないし、俺が動いた際に周囲で蹄音が崩れるような音もしていなかった。無理なコース取りもしていないのに妨害認定されるのは遺憾である。
だが、彼らを責めるのはお門違いだ。彼らは、失格を求められていたところを降着で手を打たせたのだ。落ちそうになっているところギリギロのところで踏みとどめさせた感じである。
「オト。君は来週もレースに出るのだろう」
「できるのであれば、そうしたいと思っていました」
「できるさ。君にはその権利がある。その上での話だ。今日のレース君は1着で入線した訳だが」
「1位ではありませんでしたけど」
「いや一位だ。あんなイチャモンを気にしているようじゃ二流から進歩できない」
先生の話の意図が読めない。でも、真面目な話をしているのだと言うことは分かる。だって厩舎にいる馬たちは物音を立てないように意識をして青草を一口も食べられていない。それほど真剣なんだ。
「したいのはランサーの話。聞きたいのは直線に入ってからのラストスパートだ」
「進路を外目に取って行ったことですか?」
「そうじゃない。仕掛けのタイミングだ。どうして、直線に入ってすぐに仕掛けたんだ?」
「それは、そういうモノだと考えていたからです。レース展開からして、ヨーイドンでやる流れではありませんでしたか?」
「そうだが、ゴール直前ランサーはどうだった。おかしなことは無かったか」
おかしなこと。あの時はとにかく必死だった。でも手前が変わるとか、もたれるとかは無かったはずである。
「特には分かりませんでした」
「そうか。いや仕方が無い。説明するよ。おまえはランサーの力を十分に引き出せていない。末脚が全然冴えなかっただろ」
「……そうでしたか。確かに思ったほどの伸びがないとは思いました」
「そうだろ。オトの仕掛けは早すぎたんだ。あと一呼吸おいていればアタマ差つけられたし、もう一呼吸置いていればクビ差がついてたはずだ」
ベルナール先生の言うとおりだ。今日のレースは楽に勝てたはずだ。俺のミスである。
「一流はしっかりとタイミングを見計らなければならない。もっとも、一流でもさらにトップレベルならば、意図的にお前さんと同じタイミングでスパートをしただろうが」
「それはどういうことですか?」
「なに。レース後のランサーの顔だよ。現役時代を彷彿とさせる力強い顔をしていた。レースでハナ差をモノにできたのは早めにスパートを切ることでギリギリの闘いを演出し、ランサーの闘争心に火を付けられたからだ」
ベルナールの言葉は重い。俺には無かった視点を提示してくれる。しかし、視点が競馬のトレーナー的だよな。学校の乗用馬を管理している人のものとは思えない。あれ、ランサーって種牡馬じゃ……。
「今日の反省を踏まえて来週はレースをするように」
「分かりました」
ベルナールはしげしげと頷いている。一つの疑問が生まれる。
「でもどうしてそんな話を私にしてくれるのですか」
「俺は厩舎長だ。面倒を見るのは当然の役目だろ」




